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ひとが
生きる理由とは
「こころの成長」
です
あなたの
「あるべき姿」は
正しい
行いによって
叶えてください
わたしの
体現している
すべてが
ここにあります
「古代史の復元」
http://mb1527.thick.jp/N3-02futu.htm
上記は
その一例です
- あなたを
守る神さまは
いつも
あなたを見ています
ご挨拶をすれば
とても
喜んでくれます
気づいて
くれることが
嬉しくて
しかたがないのです
- うつむいて
いないで
空を
見上げて
ください
そして
笑顔です
- 周りに
流されず
自分という
「意志」を
貫いて
ください
- こころの成長とは
あなたにとって
新しい性質が
具わる(そなわる)
ということです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
あとがき
比較対象をした考えかたはわかりやすいたとえ話です。代表的な例としてある「善」と「悪」、ただ本来は二極対象ではなく「善」の中に「悪」があるということです。それはあくまでも「善」を成長させるために「悪」があるということだけです
そして同じように理解するにあたりこころの中にこの世もあの世もあるということが挙げられます
こころの中にあるこの世はあなた次第の人生の世界です、そしてあの世もまたあなたが想像をしているだけの世界です。こころの中にある世界はそれぞれのこころのあり様でつくられている世界です
あなたはこの世を地獄と感じるのか、そうでないのか、たとえこの世であってもこころないひとにとっては空虚の世界のように感じているなど・・・みなさまが感じるこの世界はさまざまにあるでしょう
脳の進化やひとの社会の発達などどうでもよいということです。もちろん便利になることは良いことかもしれませんが本質はまた違います。そして本来はこの世を地獄と感じようが天国と感じるもこころのあり様次第であるだけです。ただ感じることのすべてはこころの成長のためにあるということです
そのことに気づいている、そうでないとは天と地ほどの考え方に開きがあります。またわたしの言うこころないひととはこころに気付いていないひとのことを云います。そしてひとをあざむき、憎しみ、傷つけ、殺めるようなひとはこころがないのではなく、強欲の意識に支配されて「こころ」を見失っているだけです。こころとは誰にでもでもかならずあるものです
もちろんわれわれが使う言葉によるこころないとは思いやりがないという表現で使うことが多いです。それはもともとこころとはやさしさを表現するものであるからです
われわれが生きる理由とはこころの成長であり、そのためにすべてが在るのです。そしてその教えは自然から多くの学びであるということです
これまでもその自然からの教えはさまざまに記載をしてきましたが、たとえば空を見るのが好きなひと、雲が好きなひとは、いつも顔を上げていないさいと天が教えてくれていことなど、ささいなことでも自然からの教えはあるのです
こころ穏やかに、謙虚であればあるほどに自然からの教えに気づくことができるのです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第八章 摂理(自然の法則)
大木が何百年、何千年と生き永らえているのは絶えず新芽を成長させているからです。大木の至る所にある枝の片隅で新芽は生きながらえます。そしてその新芽もやがては大きな枝となり新たな新芽を生み出すのです
自然は成長するだけです。その生き方は大木がわれわれの小さなこころである新芽を成長させていることとまったく同じです。さまざまにこころを成長させているのです。大木は大地から教えという栄養を授かり新芽といい「こころを成長させて」大木となります。それがこころ(自然)の摂理というものです
ただこの自然にはどうしもなくてはならなくい欠かせないものが太陽なのです。太陽があるから自然が成り立つことはすでにみなさまはご存知です。だからこそ古より世界中のひとたちは太陽を神さまと崇めてきているのです
ひとである脳の進化は成長を続けてきておりとくに科学の分野では目覚ましい進歩を遂げていますが、それでも脳にある未使用領域や遺伝子の解明など未知な部分がまだまだおおくあり、とても自然を追い越すことなどはできません
ただ追い抜く必要すらないのかもしれません。それはひとの役割ではないということです。ひとはあくまでも自然の一部であり「こころの成長」という役割があるということだけです
こどものころにみなさまはどうして空や海が青いのか不思議に思ったことはないでしょうか。空が青いのも、海が青いのもなぜ青いのか・・・もちろんすでに解明されていますがたとえ科学がなくとも、たとえその理由がわからなくてひとが生きるのに困ることはありません。ただ「青い」と意識しているだけです。さらにはたとえ色の認識がなくてもそこに海が在るとした認識はあります。ただそれだけでよいのかもしれません
極論ですがひとは脳の進化など必要ないのかもしれません。どうでもよいのかもしれません。それらはたまたまひとの社会における副産物でしかないということです
脳の進化とは欲の追求であるからです。脳の進化とはひとの役割ではありません。ひとの役割はこころの成長のために在るということなのです
そしてひとはこころの鏡であるということです。その鏡(ひと)はこころに対してこの世を地獄のように見せることもあれば、鏡(ひと)はこころを神さまのようにも映しだすこともあるのです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第七章 脳の進化
この先についてはどのようになるのでしょうか。この先とは100年後以降の話です。自然とひとの世界における大局的な動向については道理である自然のあるがままであることには変わりありません。ただひとがその環境に適合できるかどうかだけであり、それが異常気象であるのか地震などの天変地異であるのかはわかりません
ただひとには自然を解明する科学があります。この先も自然のあるがままであることには変わりませんが、ひともそれなりの進化を遂げてきており万物に至るまで変えようとしていきています。でもそれはすこし度を越えて自然にも害を及ぼすようになっていることも事実です
AIやクローン技術を活用して人工的な生態系さえも創ることが可能となっています。これらは自然とはかけ離れたものでひとはそこまでのチカラをかざすようになってきています。そしてひとはこの先どこへ向かうのでしょうか
ひとにある脳の進化とは物資の進化であり欲の追求です。確かに生活は便利になりましたがそれはひとの社会においての話です。ひとがただ生きるということについては別にいまも昔もなにも困りません。逆に因果の頻度が多くなり未熟な魂が多くなっていることも事実です。あくまでもひとの進化はひとの都合でこの社会が必要だとしているだけです
でもこころの成長は精神の進化です。これまでこころの成長ばかりに意識をしていましたがそれと同時に脳の進化にも目を向けた時にひとはこころの成長と共にあらんことが容易に想像できるのです
こころの成長が脳の進化に追い付かずに創造と破壊を繰り返してきているのです
脳の進化をこころの成長によって制御できる日がくるのでしょうか・・・こころの成長において「気づき」の先にあるひとの未来の姿とは・・・
脳の進化とはいわゆる技術的な発達に代表されるものですが根本的にはひとの本能から生ずるさまざまな欲望の追求です。そしてそれを正すのは「こころ」の役割であるということです
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