- ひとは優劣の比較を
したがるものです
なんのために
するのでしょうか
ただ自己満足を
したいだけです
良い因果の編 (その12)
素直であること~良い因果の編
あとがき②
良い因果とともにあるこころの成長とはなんでしょうか。こころは因果の世界とともにあり続ける以上、この世から因果が無くなることは絶対にありません
われわれは完璧を求めてはなりません。摂理(良い因果)の中にひと(因果)が在るということです。もっとわかりやすく伝えると善と悪ではありません。善の中に悪が在るということです
わたしの「志」は「すべてのひとが幸せに満ち溢れた世界となることにチカラを尽くします」としています
「志」はひとりで成すものではありません。以前より話しているように、わたしは百人のひとを助けることはできませんが、ひとりのひとに気づきを与えることはできるかもしれません・・・
それほどに「ひと助け」は困難であるのです。そうであれば、ひとり、ひとりが「志」を掲げ、それぞれの役割を担うようになればとの思いです
ひとりが万人を救うのではありません。「志」を掲げた万人がひとりのひとを救ってゆくものなのです
わたしの「志」は「すべての生きものが幸せに満ち溢れた世界となることにチカラを尽くします」・・・ひとりではできないことも、今世だけではできないことも、そんな簡単にできないことくらいは最初からわかっています
だからこそ天まで届くくらいの大木(おおき)な「志」を掲げています。この世でそんなの無理だよと叩かれても、あの世でもチカラ及ばずとも・・・それならまた転生して・・・、「志」とはそんなものです・・・
良い因果の編 (その11)
素直であること~良い因果の編
あとがき①
最近はこの書き物がいつまで続くのだろうかと思うこともあります。それは、今度はまた違った角度からの「こころの成長」があってもよいのではないかとも考えるようになっているのです。それが何なのかはまだ分かっていませんが、こうして書き物をしながらわたしも更なる気づきを得ようとしているのです
これまで因果を中心に伝え続けてきましたが、因果について書き始めたのは2020年からです。そしていま記載をしているのは2021年4月です
わたしの書き物はその「因果について」がそのほとんどです。ただ、いまも感じているのですが因果については、終わりがないものと思っています。きっとそれは、わたしもまだまだ気づいている因果を反省しなければならならず、だから、まだその先があるのです
最初は因果に気が付いたら、その因果を消すことばかりを考えていました。でも自身ではこの世界に在りながら因果を消すことなどはできないことに気付くことができました。もちろん俗世界から離れた環境で生きるかたは別なのでしょう・・・
そして因果をなくすことよりも、因果と共にあり続け、そして「志」を貫くことが大切なことであると知るのです
ひとである以上は感情が在って当たり前、因果が在って当たり前であるということです。因果を消そうとすればするほどに、その強い我も因果となってしますのです
それなら因果とともにあり続け、ひたすらに自身で気づいた因果を反省して、良い因果に変えることができればとの思いに至ったのです
こころの成長とは「因果について」だけではありません。ほかにもまだまだたくさんあるでしょう。でもそれがなんなのか・・・いまはそのことを考えるのが楽しくて仕方ありません
ただ、またそんなことを言っていると、「お前はまだまだ、たくさんの因果に気付いて反省をすることが先に在るだろう」と怒られている声が聞こえてきます・・・
良い因果の編 (その10)
素直であること~良い因果の編
第九章 ひととして生きている間に
良い因果とはあくまでも(悪い)因果について正すために使っている言葉のたとえです。本来は良い因果が当たり前であるということです
ただひとの世界が・・・ひとの感情が、ひとの欲が「(悪い)因果」が当たり前であることとなってしまっているのです
知らず知らずのうちに(悪い)因果は当たり前であり、この世界は地獄であるとしているのです。この地獄という言葉も因果と同じでそもそも良い因果である世界が当たり前であったのに因果によって地獄と言う言葉が生まれたのです
天国と言う言葉もありません。地獄があるから天国という言葉があるだけです。もちろんこの「良い因果」という言葉も因果に比較して伝わりやすくした都合の良い言葉です。本来は摂理、または自然の法則と言う言葉で表現をすることが一番なのです
良い、悪いもありません。すべて比較対象とする言葉自体がひとによってつくられた都合のよい言葉であるのです
前章では因果に気付き、自身の数々の因果をひたすらに反省をして因果の数々を良い因果に変えることがひとの成長である記しました。因果とはひとのこころを傷つけた行いによって生まれます。またもしかしたら無意識のうちに相手のこころを傷つけている場合もあるのです
起きる出来事について、その意味がすぐにはわからずともその因果について考えてみてください。必ずこころ当たりはあるはずです
そして因果による出来事は自身の因果に気付いてほしいがための出来事であるということです。決して罰を受けているのではありません。因果に気づき、因果を良い因果に変えることまでがひととして生きている間に成すことがひとの役割であるということです
できるだけおおくのひとが因果に気付き、さまざまな因果をたくさんの良い因果に変えた世界であることが摂理(自然の法則)であり、良い因果の世界である自然そのものであるのです
良い因果の編 (その9)
素直であること~良い因果の編
第八章 ひとの役割
感情に支配されて、欲のままに考えて、行動すること・・・いわゆるひとのこころを傷つける思いは、同じ悪いこころを引き寄せて強くなります。ここで言う強いとは念が強いということです。場合によっては具現化させてひとを不安にして、隙あらばひとの身体に宿ろうとします。とくに因果に気づいていないこころを対象とするのです。その方が簡単にひとのこころと身体を一緒に操ることができるからです
この世が地獄であるとしているように、これまでも、みなさまは悲惨な事件、事故を聞くことでさまざまな事実があることを知っています。また聞かないまでも、もっと多くの出来事がさまざまに繰り返されているのです。でもそれらは偶然起きていることではありません。すべては因果によって引き起こされた出来事(結果)であると理解をしてください
これまでもお伝えをしている通りにこころ(魂)とは精神であり、意識そのものです。そして、ひとであるこの身体を依り代として宿っています。ひとであるこの身体には動物の本能から進化した多くの感情を携えています。この身体には脳が意識する思考とは別にこころが存在しているということです
このようにさまざまな条件が重なって、ひとによって因果がつくられるということです。まれにひと以外でも因果のある生き物がいますが、それはあくまでも因果に支配されたこころ(魂)がその生きものに宿っているだけです
そしてこころは因果に気づかせるために何度も転生をしてこころを成長させるのです。ただし因果に気が付かないことにはこころの成長も何もありません。因果に気づくきっかけもこころのあり様でひとさまざまです
事件、事故を起こすものは因果に気づいていないものがほとんどです。因果によって事件。事故を繰り返すのは因果による結果として起きていることなのですが、本当は因果によって引き起こされる出来事は、因果に気付いてほしいがための出来事であるのです
それでも気が付かないものは死を迎える直前になって気が付くひともいますが、その時ではもうすでに遅く、あの世でひたすらに反省をしなければなりません。そしてまた転生をするだけです
良い因果の編 (その8)
素直であること~良い因果の編
第七章 因果の気づき
どうしたら因果に気づくことができるのでしょうか・・・
本来、ひとの感情である欲を自制させるのがこころの役割です。そして感情が優先して自制心を失った行動が因果となるのです。自制心を失った行動とはひとのこころを傷つける行動のことを言います
因果は誰にでも起きうることであるのです。無意識に相手のこころを傷つけることさえあるのです。そして因果とは言葉のとおりで原因があっての結果であるということです。因果応報という言葉はご存知のことと思います
因果応報とはひとは善い行いをすれば善い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということです。そして生きている限り因果とともにあり続けるということです
「悪い報い」があるとは具体的には現在・過去に自制心を失ってひとのこころを傷つけることをしたひとは、今度は同じ出来事が身に降りかかりこころを傷つけられるのです
そうして自らの因果に気づくまで続くのです。そのことを悔い改めて、同じことをしなくなるまで何度も続くのです
このことに気が付かないひとは「目には目を~」としてさらにまた新たな因果をつくり出して因果の連鎖をさせてゆくのです。冷静に考えればわかることなのですが感情に操られたこころはそのことに気が付かないのです。もっと別の言い方をすれば、その悪い感情は気づかせないようにしているのです
欲によってひとの感情を支配してこころを操ることなど簡単にできるのです。そのほうがひとは楽だから・・・だからと言って「欲」を無くせとしているのではありません。「生きるものを助ける」、「ひとのために・・・」とした善い行いが当たり前であると理解してください
それに因果とは、ひとのこころを傷つける行為が原因です。自身だけのほどほどにとした「欲」であれば何ら問題はありません。ひとの感情が消えてなくなることはありませんし、、ひとである以上は、「欲」も少なくすることはできますが無くすことはできません
感情も「欲」も、ひとであるからこその意識です。だからこそひとであるがために常に自制心をもった考えと行動が必要であるということです
良い因果の編 (その7)
素直であること~良い因果の編
第六章 こころのあり様
あなたのこころを本当に満たしてくれるものは何でしょうか。そのことを一度考えてみてください。あなたの欲求とはなんでしょうか・・・
でもあなたが本当に欲しいというものは手に入りませんし、そして本当に探しているものは見つかりません。どんなに得ようとしても、どんなに見つけようとしても叶うことはできないのです
それは、すでにあなたはもう持っているものだからです。すでに手にしていることに気付いてください。逆に言うと、すでに持っていることをあなたに気づかせることを教えてくれているのかもしれません
このことは、お金に囚われているひとには気が付くことはできません。ひたすらに物欲や金銭欲を欲するがままにこころを満たそうとするひとには、そのことは絶対に気が付かないのです。でもそれはこのひとの社会で生きている以上は仕方のないことなのです
ひとはこころのあり様次第でみなそれぞれにこころの成長が違うのです。ひとにはそれぞれにこころの役割があります
ひととのこころの成長度合いに優劣はありません。それにほかのひとのこころの成長など普通はわかりません。ただ稀に若くして明らかにこころが成長しいているひとと巡り合うことはあります
こころの成長に本来はひとの年齢などは関係ないのですがこの世界でこころが身体に宿る以上はその比較として「若く」として表現をしているだけです。それはすでにひとを守るという考え、ひとを助けるという意識に気付いているひとたちのことを云うのです
それがそのひとの役割であり、ほかのひとに「ひとを助ける」という気づきを与えてくれているのです。若くしてこころが成長しているひとは、それだけ多くのひとに気づきを与えることができるということです
あなたが本当に欲しいものである良い因果・・・、ひとを助けるという宿命はこころのあり様で気が付くか、そうでないかということなのです。そしてひとを助けるということの手段や方法は、みなそれぞれにある「~らしさ」を活かした役割があるということです
良い因果の編 (その6)
素直であること~良い因果の編
第五章 因果の数だけ・・・
公共の場でいろいろなひとを観ていると、どれだけのひとがこころを病んでいるのだろうと思うことがあります。みなは平静に様子を保っていますが因果に縛り付けられているひとがほとんどなのでしょう。そして因果のないひとなどは存在しません。因果があるからひとなのです
因果はなかなか表面上には現れません。だから通常の生活をしている時には気が付かないのです。ひとの妬み、恨み、辛みをいつも考えているようなひとには度々、上手くゆかない出来事が必ず起こります
ただそれが因果であることには気づかないのです。なぜ自分ばかりと言わんばかりに、その出来事を他責にすることでその因果はまたあらたな因果を呼んで連鎖をするのです
でも本当はあなたの目の前で上手くゆかないことばかり起きるというのは、あなたに因果を教えてくれているということなのです。あなたに因果に気づいてほしくてその出来事が起きるのです。良くないとされる因果が度々起きるのはあなたに原因があるとして教えてくれているのです
因果とはあなたのこころを成長させてくれるための出来事であると理解をしてください。決して因果は不幸ではありません。因果とともにあり続けることであなたは因果に気づき、その原因を素直に反省して、さらにはその因果を教えてくれたことに感謝をするのです
誰にではありません。「因果」に感謝をするのです。その素直な気持ちであなたの因果を良い因果に変えることができるようになるのです。そうしてこころは成長するのです
因果はチカラづくの感情で何とかなるものではありません。だから因果に気づかせてくれたことに感謝をして、あなたの素直な気持ちが因果を良い因果に変えてゆかなければならないのです
因果とともに在り続けるということは、あなたの因果を良い因果に変えて、それを積み重ねることで良い因果の連鎖を引き起こすのです
あなたの因果の数だけ、因果の深さだけ、こんどはそれを真逆である良い因果としてともに在り続けることとしてください
良い因果の編 (その5)
素直であること~良い因果の編
第四章 良い因果とともに その2
因果を理解するために、まずは自身の因果を知ることです。しかもできるだけ大きな因果を受け入れることです
因果は消えることはありません。ひとは因果とともにあり続けるのです。そして、あなたはその因果について反省をしなければならないということです。因果に気づき自身の行いを反省することで、つねに良い因果が生まれる環境がつくられてゆくのです
たとえ因果に気づいて反省をしていても、欲ですぐに反省を忘れてしまえば、またある時に因果の事象が起きてあなたに再度、気づかせようとします。決して因果は消えてなくなることはありませんが、その反省の深さに応じて事象が起きる感覚は長くなります。それは悪いことを考えなくなるということです。それが因果とともにあり続けるという意味なのです
あなたにとっての善い因果とは何でしょうか。どのようなことが善い因果と理解すればよいのでしょうか・・・
前述にある因果に気づきひたすらに反省の日々を送れば、善い因果にも気がつくようにもなります。それは日々生活をする中で悪いことが起きなくなる・・・たとえば、仕事でミスをする前に何かのきっかけで誤りに気が付きミスをしなくなるなど、それはいわゆる「運が良い」と言ったことが続くようになることです
それを偶然と捉えるのではなく必然と意識をすることが大切なのです。そして因果は反省をすることですが、善い因果の場合には感謝の気持ちを抱くことが大切なのです。だれにではありません。悪いことが起きないことに気づかせてくれた自身に対して感謝の気持ちを伝えるのです
善い因果のはじめはほんの些細なことなのかもしれません。それでもその小さな善い因果の連鎖はやがて大きくなり、大きな感謝の気持ちは「志」へとつながるのです
この世界は因果の世界です。因果とともにあり続けることが宿命です。因果に反省をしながらも自然のままに(純粋で素直であること)あることが大事であるということです。自然のままに在ることは善い因果を常に意識していることであり、善い因果を常に意識していればやがて「志」となるのです
自然とは良い因果のことであり、良い因果とは「志」のことを示します。因果とともに「志」に尽くしてゆくことが本来ひとの役割であるのです。そしてそれぞれ個々の「志」はお互いに補いながら、さらに大きな「志」へと成長し、やがては自然そのものである摂理となるのです
良い因果の編 (その4)
素直であること~良い因果の編
第三章 良い因果とともに
純粋で素直であるこどものこころは光そのものです。穢れを知らないこころであるこどもはおとなこそが見習うべき手本であるのです
でもひとは成長するにつれてさまざまなことを経験し、おとなになるにつれて因果をつくってゆきます。とくに家族以外のひととと交流する時間がおおくなればなるほどにこころは傷つけられてゆくのです。そうして大人になると苦悩の原因である因果があることが当たり前のようになるのです
こどもを手本にするその理由はなんでしょうか・・・それは未来の役割を担う存在であるからです。手本にするべきことの意味とは純粋で素直であることで良い因果のままにあるということ・・・それは自然のままにあるということです
あなたの周りのひとたちは、そのほとんどが因果で悩んでいるのです。それは、おとなになって、おおくの人が純粋で素直であるということを忘れてしまっているからです
そして因果は「純粋や素直」をとても嫌がるので仮に純粋で素直になろうとするおとながいたとしても、その空間はとても息苦しいものとなり、やがては因果に囚われてしまうのです
こどもが純粋で素直であることは自然のままに在るということです。自然のままにとは善い因果のままにということです
善い行いをしていれば自然と(悪い)因果を意識しないようになります。悪い因果はかならず欲のままによる感情から生まれるのです
純粋で素直であるということ、自然のままに在ること・・・そのあり様が自然と因果を意識しなくなるということです
そうして因果を意識しないようにするためには「善い因果を常に意識してください」ということです
自然のままにあるということは善い因果の連鎖をさせることです。善い行いのことが何よりも大切であるということです