[志]のままに(その8)

因果について~「志」のままに

第七章 信頼

信頼とは・・・ひととひとが信じ合う気持ちのことを信頼とよく言いますが、わたしの場合は飼っているねことの信頼関係もあります。信頼とはひとだけでなく、他の生命との信頼でもあるのです。そして信頼の意味とは相手の生命の尊さを敬うことです。

それはねこからも、昆虫からも、植物からも、雨や山など自然からも多くのことを教わってきています。そして本来は相手を信頼すれば必ずお返しをしてくれるということです。そのお返しとは摂理に対する気づきを与えてくれることです。

いにしえのひとたちによる自然崇拝とはそうゆうことから始まっているのです。ただしはじめは自然と互いに尊重し合う信頼であったものがやがては欲望における願い事へと変わってしまったのです。ひいては生贄などとした行為をしてまでも自然に願い事をして我を通そうとしてきたのです。

わたしがよく言う「こころの闇に手を貸すもの」とはこころのあり様のことを言っているのです。そのこころのあり様が未熟であればあるほどにこころを宿す身体を強欲な意識の存在としてあなたが勝手に想像をする悪魔や鬼として具現化させて利用しているだけのことです。わたしはこの類についてはあまり語ることはしませんが知るべきことはとても大切なことです。

信頼とは互いを尊重する気持ちのつながりのことです。信じ合うことではなく「志」を認め合うことでもあります。

以前にもお話をした通りに信頼とは本来必要としない言葉なのにひとが都合よく比較対象の意味した言葉として利用しているのです。例えばですがこの現世を強欲にまみれた地獄と例えるから天国という言葉を必要とするのです。それと同じようにもともとは信じるという言葉は当たり前であったのにひとを欺き平気でうそをつくようになったがために「信じる」「信頼」という言葉が生まれたということです。

良い因果の輪廻においてはこのような比較対象を意味した言葉は存在しませんでした。ただ強欲が生まれたのと同時にひとはこころのあり様で裏切られる(うそをつかれる)という疑念が生まれ自らもまた都合よく嘘を積み重ねては摂理である良い因果とかけ離れてきたのです。

[志]のままに(その7)

因果について~「志」のままに

第六章 尽くすこと

ひとはこころが想像した時点でその想像をした未来がそこにあります。そして「志」に気づいた時点でその成し得た状態の未来のこころがいまそこにあるのです。

ひとが一生かけて「志」に尽くすことの最初の一歩はいつからでも遅くはありません。たとえあなたの寿命が明日であっても気づいた時点であなたの一生が救われます。救われるとはそれまでの人生の中でこころ溢れるほどの一番幸せに満ちた状態であることを言うのです。それは成し得た状態の未来がこころにはすでにあるということです。

この想像をするということは時間を超越した感覚であり、空間を超えた意識はいわゆる並列した別の次元に行ったり来たりすることのイメージです。以前にも記載をしましたがひとが想像をすることは必ず成し得ることができるのです。

これまでもそこに「ある」としたこころのあり様について「その先の扉 第七章」でも説明をしていますが、それは想像をした時点ですでに成し得た状態にこころは「ある」ということを説いているのです。

「志」が見つからないものはそれが無理だと思い込んでいるだけです。だから想像をすることができず「志」が見つからないのです。

「志」とは無理やりなことではありません。「自然のまま」にこころの底から湧きあがってくるものです。だからこそあきらめることなく続けることができるのです。こころのままに突き動かされるのです。

「志」に尽くすこと、それは雑念もなく無意識(潜在意識に触れている状態)のうちに成せる状態のことを言うのです。

この世界の過去を知ることができるものは未来を理解することができ、さらに「志」掲げるものは未来を想像することができるのです。

[志]のままに(その6)

因果について~「志」のままに

第五章 価値とは

たとえわからないことがあっても思考を止めてはなりません。パズルのピース合わせが止まったら一旦そこは開けといてその先のピースを埋めてください。例えばわたしが書き物を続けられているのは常に自分に問いているからです。その繰り返しで考えが続くのです。書き綴ることで思考が浮かんでくるのです。

言葉で道理を問いただすことは知識に値しますが、行動で道理を問い質すとそれぞれのこころのあり様次第で次につながる道が開けます。

自然が「無」に近い存在としているのは摂理を保つ行動をしてただそれを繰り返しているからです。だからこそ自然はそれ自体が「意志(こころ)」であるとも例えられるのです。ここで言うことの「無」とは雑念がない意志としたほうが理解しやすいでしょう。

ひとの社会における行動の結果とは「試験に合格(結果)をするために勉強(行動)をする」、「仕事で成績がアップ(行動)したから昇進(結果)した」などによる定量での価値基準がほとんどです。

そしてひとの社会において定量の結果は他のひとに対しての存在感を示すものであり、他のひとに認めてもらいたいがための行動です。それはあなたがただ満足をしたいがための感情です。その結果は自己満足に過ぎません。定量での結果とは比較対象をした一律の判断です。これが現代におけるひとの価値感です。ただこのような比較対象をする概念がこころを惑わすようになるのです。

ところがこころの成長おける結果とは定性での価値基準であり結果は一律ではありません。ひとそれぞれに違うものです。定性の結果とはあなただけの答えです。千差万別でありひとそれぞれのこころのあり様次第ですべて違うのです。あなたの結果はあなただけのこころのあり様次第によるものです。

それはひとが判断をするものではなくあなただけの答えです。そのことを大切にしてください。このように定性ではさまざまなこころの成長があるのです。こころの成長における結果とは信念や「志」であり「あなたらしさ」であることはこれまで説明をしてきた通りです。

たとえすぐにこの社会を変えられなくてもおとながこどもに教えることはできます。そして子どもはおとなの行動を観て育ちます。「志」が見つからないものは必至に探せば導きによって必ずわかるようになります。そうしてわれわれが未来のひとに伝えて変えてゆくのです。

自然は限りなく「無」に近い存在です。そして「無」とは限りなく雑念のないこころを言うのです。それが摂理(自然の法則)ある行動(つながり)となるのです。

[志]のままに(その5)

因果について~「志」のままに

第四章 導き

導きとは何でしょうか。
「直観」や「自然のままに」とは神さまの領域です。われわれがさまざまなことをネットで検索をするのも、気になって本を読むことも、あなたが興味を惹かれることなどはすべて導きです。ただそれが正解で「ある」のか間違いで「ある」のかはあなたのこころのあり様次第です。

「ある」のはあなたのこころのあり様次第であり、それはただあなたが進む道として「ある」だけです。こころを成長させるために導かれるということです。ただこころが歪んでいれば当然別の世界の意識に導かれます。すべてはこころのあり様次第で「ある」ということです。当たり前のことなのですがまずはそのことを受け入れなければなりません。

こころの成長に近道も回り道もありません。いまのこころのあり様次第で必要なことが起こるだけです。そして導きを意識できるかどうかもあなた自身です。導きを感じて自然のままに進むことが大切なのです。そこに何故はありません。すべてが必然であるということだけです。

いまのあなたはどんなこころのあり様でしょうか。悲観するばかり、楽しいことばかり、逃げてばかり、チャレンジすることばかりなど・・・。ただどのような状態がいまあなたに起きていてもそのことを受け入れてください。

いまあなたの周りで起きている事象はあなたが起こしていることと理解して下さい。
昆虫の蟻が巣を作りそれをひとが踏みつぶしてもまた巣を作ります。雨で巣が崩されてしまっても土を掘り起こしまた作ります。どんな状況であってもありは生きるために巣を作ります。この意志そのものが摂理の一端です。

そしてこれはひともまた同じです。現世での人生も、輪廻をして繰り返しをすることも蟻と同じです。摂理に生きるどんな生命も種の保存、適者生存のために進化をします。生命は地球という意志、自然という意志に対して淘汰をしながらこれまで進化をしてきているのです。生命はこうした強い意志でつながってきているのです。

そして導きとはこのようなことを言うのです。導きとはつながりを意味することであり摂理の情報は身体の遺伝子に刻まれ、こころの潜在意識に記憶されるのです。われわれはこころを成長させるために自然の意志によって導かれているということを理解しなければなりません。

[志]のままに(その4)

因果について~「志」のままに

第三章 神さまはいない

もう一度伝えます。良い因果とは摂理のことであり、この書でも伝えている通りで摂理とは自然の法則のことです。いま一度想い返してみてください。摂理とはあなたが掲げる「志」のために必死に尽くして生きることです。そこにはすべての生命との共存共栄があり、更にはひとを守り、生命を助け、そしてその先の未来の生命を助けるためにこの想いをつないでゆくことです。これが良い因果のことであり本来のこころのあり様なのです。

この摂理を輪廻させることが良い因果の世界となります。自然はこれをひたすらに続けていますがひとだけができないのです。

例えば山を登拝している時に左から鹿が右側の離れた場所にいる鹿に「ひとが来たぞ」と警戒の鳴き声を発します。そして右から鹿もそれに応えます。ほかにも小鳥は何やら頻繁に会話をしています。このようにして動物は発する鳴き声で意思疎通の会話をしていますが動物の会話にうそは絶対にありません。

でもひとは容易に嘘をつきます。それは自分の都合が良いようにするためです。これはうそをつかなければならない問題をつくった相手が問題ではなく、自らのこころとの葛藤における問題です。ただし自然を理解すれば、摂理を知ればひととの葛藤が無くなりうそをつくという感覚もなくなります。うそをつく必要が無くなるからです。

自然が生まれる遥か以前での地球が創生される過程で火山の噴火で溶岩が地表に流れ出して固まりそれが岩となります。そして長い年月をかけてその岩が少しずつ風化して砂となり、同時に植物が生成され、その植物が腐葉して砂と同化し土となりその積み重ねが大地となります。この当たり前のことにわれわれはなかなか気づきません。自然の岩も砂も土もただそこに「ある」ものとして認識をしているだけです。それがなぜとはなかなか思わないのです。

この点で見ただけの「ある」という認識ではなく自然が生成されてきたつながりであることを意識しなければならないのです。そして自然だけではなく地球創生もまた意志そのものであるのです。

ひとは自分たちのチカラではどうすることもできない自然に対してその意志を神さまとして崇めてきており、このような自然崇拝の信仰は世界の各地でも同じようになされてきています。

ただし自然を神さまと敬い崇めてもその結果は絶対ではありません。ましてや神さまに願いごとをするものでもありませんと以前より伝えてある通りです。神さまにはただ感謝をするだけです。

この感謝の意味とはいま生きていることは先人たちからのつながりであることに感謝の気持ちを伝えるということです。

願いごとなどはひとの勝手な都合であり、天災しかりわれわれは決して自然に対して抗うことはできません。ただ神さまがわれわれに期待をしていることはそれぞれがこころを成長させてくださいとしているだけです。それは摂理さえ理解をすれば天災とて何も畏れる必要はないということ。前述にもあるこれまでの道理を知れば、そのつながりに気づけばすべてを受け入れることができます。

われわれがつながりに気づいて、理解ができるのであれば先人のかたを含む自然の神さまに願いごとをする必要がなくなります。自然と感謝の気持ちだけしか感じなくなります。われわれがこの現世で良い因果の世界を創り出せばよいのです。そして神さまたちはそれを望んでいるのです。

自然のさまざまなあり様を神さまと崇め、さらには地球創生の成り立ちさえもその意志として神さまと崇めることについて間違いではありませんがわれわれはそのあり様(つながり)を最初に理解しなければなりません。

神さまにはすがるのではなく、お願いごとをすることでもありません。ただ感謝の気持ちを伝えるだけであり、われわれのこころが成長すればそれでよいのです。そうすればやがて神さまは必要としなくなります。

[志]のままに(その3)

因果について~「志」のままに

第二章 摂理とは

「志」高く仰せられる神さまは、「志」を掲げるひとのこころに対して協力をしてくれます。それは願いを叶えてくれるものではありません。協力をしてくれるということです。

そこにはあなたの努力なくして神さまは決して協力はしてくれません。あなたが何もせずにあなたの願いだけを叶えてくれる神さまは絶対にいません。

もしあなたが何もせずにあなたの願いをある程度を叶えてくれるものはあなたのこころの闇に手を貸すものだけです。そのものはあなたを上手にコントロールするので気を付けてください。

そして摂理とは自然の法則のことです。いま一度想い返してみてください。摂理とはあなたが掲げる「志」のために必死に尽くして生きることであり、そこにはすべての生命との共存共栄があり、更にはいまこの現世のひとを助け、生命を助け、この先の未来のすべての生命を助け想いをつないで礎となることです。これが良い因果であり本来のこころのあり様なのです。

この現世(ひとの世)に惑わされないでください。そのほとんどが強欲でありあなたが執着をする思いはこころの成長のためには何の役にもたちません。われわれはすぐそばに答え(自然の法則=摂理)があることに気づかないのです。気づかないほどにひとのこころは自然から離れてしまったのです。

わたしは以前に神さまは答えを教えてはくれませんとお伝えしていましたが、ひとの生きかたについてわたしなりに学んだことをお伝えいたします。

こころの成長とは「志」に尽くすことであり
その目的とはひとを守り、他の生命をも助けることであり
そしてこの想いを未来につないでゆくとことです

これが「ことわりの書」からつながるわたしの想いであり良い因果を理解して行動する言葉です。そしてこの良い因果とは摂理(自然の法則)のことでもあるのです。もちろん「志」はみなさまがそれぞれに自由に掲げるものです。


摂理については「こころの起源」でその多くを説明しています。摂理に沿った考え方、生きかたをすることがわれわれ本来の生きる姿であり役割であるのです。

[志]のままに(その2)

因果について~「志」のままに

第一章 こころと身体

身体の潜在意識とこころの潜在意識はどのように違うのでしょうか.

この身体にある潜在意識はひとの進化の過程における記憶であり、遡れば生命の起源をも辿り地球創生の頃からの記憶となります。それほどまでの情報量であるためひとの遺伝子など未知の部分が多く残されているのです。

それではこころの潜在意識とはどのようなことでしょうか。

われわれひとのこころは自然と共に歩んでいます。更には自然が生成される前からの大地や海など地球自体が創られている頃からのつながりです。こころの潜在意識もまた身体にある潜在意識と同じように意志をもった地球誕生の頃からの情報が記憶されているのです。

前回の書である「こころの起源」ではもともとは自然と一緒に「良い因果そのものがこころであった」ことや、良い因果とは摂理であるとことをお知らせしています。自然に生きる、動物や植物との共存共栄をもとに互いに助け合い、ただ真っ直ぐに「志」にある役割のままに生きていること。これを良い因果(こころ)ということを説いています。

この自然に生きる動物や植物のすべてに良い因果としてこころが宿っているのです。自然の良い因果とは人類が誕生する前からの自然に生きる動植物に宿る良い因果であるこころのことを言います。もちろんそのこころを本能とする場合もあります。

その良い因果であるこころたちがひとのこころの起源となるのですが、更に遡り自然の生成以前に至る地球の創生にまでこころ本来の起源は遡ることになるでしょう。そしてこころの潜在意識とはこの地球をも含むすべての生命における良い因果のことを言うのです。それは自然のままに「ある」ということです。

自然の意志である良い因果とは生命に基づくものですが地球創生にまでつながるものでもあります。それは生命の根源であり自然よりも更に深い「無」に近い意志でもあるのです。

身体にある潜在意識とこころにある潜在意識はそれぞれに分け隔てをした「点」で考えるのではなく、すべては重なり合ってつながりである「線」で考えればそのふたつが交わる共通の答えが見つかるのではないでしょうか。

身体がつくられる生命の起源にまで遡りそれをつながりとした「身体の潜在意識」と転生を繰り返しこころを成長させる「こころの潜在意識」のはじまりはともにひとつであるということです。

[志]のままに(その1)

因果について~「志」のままに

まえがき

言葉とは都合のよいものです。言葉とはひとを育てることができますが同時にうそを付いて傷つけることもできます。でもそれは言葉が悪いのではなくそうした言葉を利用するひとがいけないのです。どんな言葉でもそれを扱うこころのあり様で違うものです。そして言葉とは行動を伴ってこそ信頼されて、はじめてひとのこころに伝わるのです。

わたしの場合、その言葉と共に行動もまだまだ道半ばです。多分この現世で終わることはないことでしょう。この身体の寿命を迎えるまで探求し続けていることが容易に想像できます。この先、生涯をかけて探求し続けるのでしょう。

もちろんそんなに簡単にわかるものではないと初めから承知しています。たださまざまに道しるべや気づきを与えてくれます。こちらで記載をしている言葉は自分で理解をしているようでもできていないことがたまにあります。そして綴り続けることでその理解が深くなることも事実です。書くことでつぎから、次へと言葉が浮かんでくるのです。綴ればつづるほどにさきへ先へとつながるようになるのです。

昨年5月から始めた因果についてをテーマに「こころ」を説いてきました。最初はブログのまとめを目的にはじめた書き物。「理の書」で終わるはずが書き終えた時にはすでに次に書きたいことがすでに浮かんでいました。前述の通りにつづれば綴るほどにつながってゆくのです。そしてこちらもまた記載している最中すでに次のシリーズが頭に浮かんでいます。

「神さまに感謝の気持ちをもっと近くで伝えたい」がここ2年くらいの想いです。近いも遠いもそんなこと同じであるともわかっています。でも言葉で表現をするとこのようになるのです。ただこの言葉の本当の意味はもっと近くで伝えたいとの「近く」とはもっとこころを成長させたいという意味です。もちろん距離の意味もあるのですが・・・

龍神さまに、わたしを守る神さまに、この気持ちを伝えたくていまがあります。この身体の寿命が尽きる時もこの想いは変わりません。
そしてさまざまな場所に赴くことで

たくさんのかたたちと出会い
たくさんのかたたちの想いに気づかされ
たくさんのかたたちのやさしさに触れています 

そして

たくさんのかたたちに感謝の気持ちを伝えるために
もっと、もっと近づいてゆければと思っています。

それでは本編にご期待ください。

目次

まえがき
第一章 こころと身体
第二章 摂理とは
第三章 神さまはいない
第四章 導きとは
第五章 価値とは
第六章 尽くすこと
第七章 信頼
第八章 感情
あとがき

以上

己が自身 (その187)

やさしい雰囲気をまとうお姿
ここに記載を

していることは

まずは己が自身で

行動をしてください

としたものです

言葉で綴るほど

簡単ではないことも

承知しています

ただ本来

われわれは

自身で問題を

解決して

道を切り開いて

ゆかなければならないのです