はじまりの書 (その5)

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第四章 こころのはじまり

この身体はこころが宿る依り代です。この身体ははるか以前よりつながってきている大切なものです。

こころとは本来は神さまのことです。そしてこの現世ではこころを成長させるために因果を消してゆかなければなりません。

余談ですがよほどの我が強く、因果に縛れているものはさらなる邪悪な意思によってこころ奪われ、この身体を操られてしまうのです。

こころが身体から離れてこころだけの状態となったときにこれまでのように身体を使って言葉を発することができなくなります。同じように見るということについて視覚も身体があってこその脳の認識です。これも身体がないのでできません。このように身体があってできていたことすべてができなくなりその感覚だけが経験値として残るのです。そのことを知るとはじめてこころが常世にあることに気づきます。

身体のないこころだけの状態で話をしたり、見たりするというのはあくまでも現世からの経験値によるイメージでしかありません。自分で勝手に想像をしているだけで相手には伝わりません。だから常世のこころは現世のひとに言葉で話かけることができないのです。※第三者を使って利用する場合もありますが話がそれるので省きます

常世ではこころのあり様次第で見る世界や感じる世界がそれぞれ違います。これは現世でも同じことが言えます。こころのあり様次第で環境が違い、出会うひとも違うのです。この現世でもひとそれぞれの価値観はみな違うのと同じです。ある意味で価値観とはこころのあり様のことでもあります。

常世での役割のひとつに感情を消してゆくということがあります。いわゆるものを見るから、会話をするから感情が生まれるのです。そして相手があるからこその感情が欲に変わるのです。この意識はたとえこの身体がなくとも現世での経験値ゆえにさも実体としてさもあるかのようにイメージをします。ただし、いずれは因果に気づき、虚無であることを知るようになります。

このようにしてやがては、ひとの身体で経験した五感をもすべて必要でないことを知るのです。こうしてその先にある「人助け」、そして「無」へと誘われてゆくのです。

こころの成長に終わりはありません。現世から常世へと、そして常世から現世へと転生するときに記憶が消されて「無」となることも、そして「有」となって身体を得ることもそれぞれがはじまりです。

冒頭にあるように、この身体はこころとつながる依り代です。「理(ことわり)」知り、「自在」に志を身に付けて「はじまり」へと向かいこころを成長させてゆくのです。

はじまりの書 (その4)

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第三章 意志の強さ

現世でよく「こころが強いひと」と言いますがこれは「意志が強いひと」のことです。こころの成長とは意志の強さとして現わすこともできるからです。

前述よりお伝えしているように因果を消すことは現世でしか消すことはできませんが常世では感情を消すという役割があります。そして現世での因果を消すということと同じように常世での感情を消すことは意思の強さを持って叶うことができるのです。

そして感情を消すとは因果を知り得ていなければできません。逆に言うと因果に気づけば自然と感情は必要としなくなるのです。因果とは感情が創り出しているからです。

現世でひとの経験をしてきた「こころ」はさまざまな感情が創り出したイメージの世界を常世にまで引きずってきます。現世から常世に移った時のこころのあり様次第で現世でそれぞれに執着していた感情によるイメージの世界が心地よいのです。

大抵の場合は年老いて現世から離れる場合はその時点で長く生きている分だけこの世の何たるかを知っています。そのため強欲である者は少なく自然と常世へとゆけるのです。

そして常世では現世から引きずってきているその執着した欲(感情)をひとつひとつ消してゆきます。常世をどのように感じるかは、その時のこころのあり様次第でどのようにも感じることができるのです。

現世で因果を消すこと、常世で感情を消すこと、この両方にとても大切なのが「意志」の強さです。この書では「意志」と「意思」を使い分けています。「志」は決して揺らぐことのない信念であり行動です。こころが成長するためにはどうしてもこの意志の強さが必要となります。この意志の強さをもって「志」が守られて「役割=行動」が見つかるのです。

まずはあなたらしさの「意志」をイメージしてみてください。またはとても大切にしていることや信念などでもよいでしょう。何度も言いますが意志とは言葉よりも行動が大切なのです。それはあなたが楽しくなるような、または笑顔になるような行動を言葉にしてもよいでしょう。

はじまりの書 (その3)

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第二章 常世の役割

常世は現世の延長であり、こころを成長させるという目的は現世と変わりません。それでは常世でのこころの成長とは何でしょうか。

現世では因果に気づき、因果を消してこころを成長させますが、常世では感情を消してこころを成長させることです。現世で因果を消すことについては以前にも伝えてきましたが、では具体的に常世での感情を消すとはどのようなことでしょうか。

現世での「脳とこころ」の葛藤と同じように、常世ではこころが現世から引きずる感情とそうでないとする間違いを正そうとするこころとの葛藤です。常世では身体がないので感情は必要ありません。

それでも現世で経験をしてきたこころは大抵の場合、現世での未練を残したまま常世にまでさまざまな感情を引きずってくるのです。それを消してゆくのが常世での役割です。もちろん現世で因果に気づいているものであればさほどむずかしくは有りません。

現世で断捨離をすると運気が良くなるといいますが、それと同じで常世でも必要ないものは断ち切ることでこころは成長するのです。未練を残すとこころが成長しないのです。

常世では「感情を消すことができても、因果は消すことができません」 
 
常世では身体がないので感情は必要としません。だから感情は消すことができるのです。常世での感情とはそもそも身体がないのでイメージでしかないのです。常世にあるのはこころだけです。そして当然に因果を創ることも消すこともできません。因果とは感情があってのことです。 常世に因果を持ち込めばその因果に気づくまで苦しみ続けるだけです。

因果を消すことができるのはあくまでも現世だけです。だから転生があるのです。たった一度の現世だけではそのひと自身のすべての因果を消すことはなかなかできません。だから何度も転生をして因果を消してゆくのです。

常世は感情を消す世界(場所)であり現世は感情を創り出す世界(場所)です。現世でひとが持つ感情は相手があってはじめて感情から因果へと変わるのです。でも感情を必要としない常世では相手もいないため因果を消すことはできないのです。それがこころを成長させるための常世・現世のそれぞれの役割です。

常世での感情は現世に未練のあるイメージにすぎません。またイメージだから感情を消すことできるのです。それが常世でのこころの成長なのです。

では具体的に常世での感情を消すとはどのようなことでしょうか。それは因果に気づき、理解をするということです。因果を理解することでその原因となる感情は必要ないことを知り、消すことができるようになるのです。感情を消してゆくとはこころを浄化させてゆくということです。ただし因果を残していれば感情を消すことができません。因果そのものが感情で創られているからです。故に因果に気づくまで苛むのです。常世で因果を消すことはできませんが因果を知り理解をすることはできます。

常世の根本は「無」です。ただ「無」であるがゆえにいかようにもイメージをもってさまざまな世界を創り出すことができるのです。現世に執着をしているこころは現世での感情のイメージをそのまま常世にまで引きずります。それでも常世で因果を知り理解をするものは少しずつ現世からの感情を消してこころを成長させてゆくことができるのです。

また逆に我の強さや欲深さなどで自分の思い通りにできていた現世と違って常世ではそれがどうにもできない世界です。そもそも現世では対象となる相手がいるからこその強欲であり欲深さですが常世ではその相手がいません。だから現世で強欲に執着をしたこころはこの感情の罪を償うべく自ら勝手に相手を創り出したイメージの世界で因果に気づくまで、もがき苦しむことを繰り返すのです。

常世では現世から引きずっている感情が創り出したイメージを映しだしているだけです。そのイメージの世界に未熟であるこころは翻弄されてしまうのです。欲におぼれて周りが見えなくなるのは現世と同じです。

はじまりの書 (その2)

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第一章 現世の役割

ここで少しだけこれまでのおさらいをします。

現世での役割とは因果を知り、因果を消すこと、そして最終的にはひと助けをすることがこころを成長させることだと伝えてきました。現世は因果の世界であるがゆえに因果の何たるかを中心に伝えています。

そして現世では「因果を消すことができても、感情は消すことができません」

自らの因果に気づきこころ改めることで因果は消えてゆきます。ただし因果を創り出す原因であるひとの感情は消すことはできません。感情があるからこそのひとだからです。

自らの因果を消すことができるのはほかの誰でもなくこの現世であなたが創り出した因果は、あなた自身でしか消すことはできないということです。たとえ血縁関係であっても他人の因果を消すことは絶対にできないのです。

ひとは欲があってこそ、感情があるからこそ因果を創り出しています。そして現世だからこそ因果を創り出すことができ、そしてまた消すこともできるのです。因果を創り出しているのは感情です。ただこの感情はひとにしかありません。よほどの方ではない限り現世で自らの感情を消すことなどできません。それは常世での役割です。

現世の仕組みとは因果に気づき、その次に因果を消すことをするのですが、はじめは簡単な因果を消すことから始めて次第に大きな因果へと進みます。こうしてひとつずつ消してゆきこころを成長させてゆくのです。

ひとつの例ですが、この現世で因果に気づかないまま更なる感情の罪を犯したものは例え因果を知らなくてもいけないことをしているという自らの罪は知り得ています。ただ引き返す勇気がなく、またその方が楽なので現世で感情の罪をさまざまに重ねてゆくのです。最初は小さな因果です。それは自らにとって楽で都合が良いものなのです。

例えば嘘をつくといったことなどがそうですが、その小さな嘘の繰り返しがやがてひとのこころを傷つけるような大きな嘘となるのです。

そして因果を残したまま現世を終えると、その因果を常世まで引きずってその因果に気づくまで苦難にさらされるのです。そのもがき苦しむ苦難とは自らが勝手に創り出したイメージの世界であることにさえ気づかないのです。

転生を繰り返すのは現世で自らの因果をひとつひとつ消してゆくためです。現世での苦しみも常世での苦しみもこころが受ける苦難は同じです。現世で因果に気づかないものは常世でも因果に苦しみ、悩み続けるのです。

はじまりの書 (その1)

やや左向きで中心より少し上にある両眼でこちらを見据えているお姿にお気づきください
まえがき

以前にも記載をしましたが
改めて掲載します

「わたしをお守りくださる、神さまたちに
感謝の気持ちを伝えます」


辛い思い出 いくつあったのだろう
楽しかった思い出 
どれくらいあったのかな

きっとこの身が滅ぶ時に気付くのでしょう

やはり辛い思い出のほうが
多かったのかもしれない
でも生きてきてよかったと
思うのは何故だろう

それは辛かったことが納得できたから 
その理由がわかったから

瞬(まばた)きひとつの人生 
そんなに悪くはなかった

同じ想いをするひとは 
どれくらいいるのだろうか
たくさんいるといいな

つぎに生まれてくるときも 
そうでありたい

ただその時にはあなたのように 
ひとを助ける役割として

あなたがわたしに
たくさんのしてくれたことを

今度はわたしが守るひとと
一緒に乗り越えて行きたいな

そのひとはわたしに
気づいてくれるかな・・・

つながりとはこうゆうことも
伝えているのでしょう

ひとにこころから
幸せだと感じてもらうこと

そして神さまをも喜ばせるとは 
そうゆうことですよね

いま神さまは喜んでくれているかな
もちろんわたしは幸せでしたよ

たくさんのこと 
教えてくれてありがとうございます

みなさまがこの気持ちに
気づいてくれたなら

もっとたくさんのひとが
幸せに満ち溢れたた世界となるのかな

あとすこし・・・
まだ やり残したことがあります

つぎのひとたちにこの想い 
伝えてゆかなければなりません 
あともうすこしかな

これがわたしの常世に向かうための 
はじまりです


【はじまりの書】
まえがき
目次
 1、第一章  現世の役割
 2、第二章  常世の役割
 3、第三章  意志の強さ
 4、第四章  こころのはじまり
 5、第五章  常世と現世の関係
 6、第六章  大切な「身体」の役割
 7、第七章  ものの見かた、
        考えかた、感じかた
 8、第八章  神さまの因果
 9、第九章  常世でのひと助け
10、第十章  神さまを越えて
11、第十一章 常世とはこころ
あとがき
以上

「自在の書」(その33)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
あとがき

ひとは悩みが尽きません。これはひとの欲が尽きないのと同じです。そして何で悩んでいるのかさえわからないひともいます。このようなかたに悩みの云々を説いたところで結局は、それがわからないから悩んでいるという答えしか返ってこないでしょう。

これは悩んでいるというよりも自分の意思が弱いだけです。異質な世界で育った子どもであれば別ですが誰しもこころの奥底にかならず自分の答えは持っているのです。それを承知した上で接してあげるとよいでしょう。悩みに対してひとつひとつを丁寧に解決するのか、根本から変えるのか、まったく別のことに意識を向けさせるのかといろいろとあります。いずれかでもよいので奥底にあるあなたの答えは「正しいですよ」として引っ張り上げてください。

みなさまの考えはいかがでしょうか。それぞれに方法・手段があるものと思います。
悩みもまた因果であり欲であることに気づけばさほど難しくありませんが、ただそんな簡単なものではありません。

そして悩みとはひとと比較をした相手があってのことです。悩みになやんでいるのです。もしかしたらそもそも悩んでいないのかもしれません。脳が悩んでいるふりをしているだけなのかもしれません。それくらいに相手のことを考えたら広く深く尽きないのです。そして相談相手のかたも答えを見失い悩んでゆくのです・・・

「こころを惑わすのは他人ではなく自らのこころ」です。悩みとは大体「意思」の弱いひとに多いものです。その悩みで自分が傷つきたくない、ただそのことだけです。さらに悩みの本質とは欲が原因なのです。あのひとと比べて、わたしは悪くない、あのひとよりも、もっともっと・・・、その悩みが因果であり強欲であるから悩むのです。すべてはこころのあり様次第です。バランス良い意志を保ってください。何度も伝えますがほどほどの欲であれば生きる活力となるので構いませんが人を傷つけるような強欲がダメなのです。

この書でわたしが伝えたいことは「意志の強さ」です。強欲も意思の強さと同じでは?と思うかたもいるかもしれませんが根本的に「欲」と「志」は違います。ひとによってですが意思の「思」であれば「欲」と同じでしょうが「欲」と「志(こころざし)」はまるで違います。「欲」は己のための感情ですが「志」はひとのための行動です。

わたし自身もただ理解をしている、納得しているだけではだめですよね。こころざしも道半ばです。ただ幸いなことにいまは言葉がたくさん湧き出るようになり、こうして書き綴ることができています。こころの葛藤も年を重ねる度に以前よりも大分少なくなりました。また次に何かをしてゆかなければなりませんがもう少しだけ書き物をさせてください。

この「自在の書」は「はじまりの書」を書いている途中で現世(因果)についてまだまだ伝えたいことがあるとして変更させていただきました。まえがきからのつながりとしてこの「自在の書」について、意志のある行動についてみなさまのお役に立てればとの思いです。ご覧いただきありがとうございます。

2020年7月吉日


「自在の書」(その32)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
第五章 意志と因果

純粋な「こころざし」あるものに因果は起こらないものです。こころざしが高ければ高いほどに因果の原因となる強欲の感情が消えてゆくからです。

ひとが創り出した常世にあるイメージの世界とする地獄とは、じつはこの現世にこそ、その地獄の世界があるのです。それは辛い悩みが尽きないこと、虐待、DV、各種ハラスメント、いじめなどがそれです。ほかにも数多あります。因果とは「する側」の強欲であり、「される側」のひとにとっては地獄とも言えるのです。これも原因があっての結果です。

そしてひとを騙したり、傷つけたりと意の思うがままにして得ようとする強欲は「する側」からやがては「される側」となるのです。このようにしてこの因果を何千年も繰り返してきているのです。

神さまはこのことをわれわれが自ら気づくまで待っているのです。ひとが因果に気付くまで輪廻させているのです。

この現世はこころを修練させて、こころを成長させる場所なのです。こころのあり様次第でこの現世は地獄にもなるのです。いまこの現世をどう感じるかで、あなたのこころのあり様がわかります。大抵はつらいと思っているひとがほとんどでしょう。だからこそ強い意志が必要であり「こころざし」が必要なのです。それが生きる目的となるからです。

その答えは大自然にある育むチカラであると伝えています。例え遠くに行かなくても道端やアスファルトに咲く花でもよいですし、近くにある公園でもよいので自然に触れてみてください。触れてみてくださいとは、自然を考えてみてくださいということです。

なぜ自然に触れてみてくださいとしているのでしょうか。それは因果のように「する側」、「される側」もなくただ純粋に自然のままに強く生きているからです。動物や植物など自然の生き物には悩みがありません。悩みがあるのはひとだけです。そして自然に生きる者たちにもしっかりと役割(目的)があるのです。その役割(目的)をひたすらにやり遂げようとしているだけなのです。これがこころのあり様のバランスについてこれくらいでちょうどよいとすることなのです。

ひとは感情があるからこころの思いが左右されて因果を生み出しているのです。
もちろんこの感情があるから幸せを感じることができるのも事実です。

でも思い出してください。「理の書」でも似たようなことを記載していますが、幸せになりたいという欲は因果があるからそのように思うのです。地獄があるから天国をイメージするのです。もちろん純粋な幸せはありますが、それはもし因果がなければその幸せとは特別なことではなく、自然のごとく、ただ当たり前のことなのです。本来「幸せ」は欲の対象にならないのです。だからいま生きていることに感謝(幸せであること)をしてくださいとなるのです。当たり前のことに感謝をするのです。こうして天国をイメージしたり、幸せになりたいと欲することは因果があるからこその言葉でありイメージの世界であることを知るのです。

この現世で目的があって生きているひとはほんのひと握りです。ほとんどのひとが目的もなく、ただ欲の思うがままに生きているだけです。

いまあなたが生きていることには必ず理由があります。そのことに気が付かなければなりません。その「理由」について一番よくわかるのが「因果」なのです。因果に気づき、自身の因果を消してゆくことが、あなたがいま生きている理由(目的)です。
いまだに因果さえもよくわからないのであれば、いまあなたの悩みこそが因果であると知ってください。

この現世の世界はわれわれひとり、ひとりの持つイメージの世界が重なり合って創られているのです。過去があっての現在です。原因があっての結果です。そして現在があっての未来です。われわれは、いま未来のためにどう生きるのかを問われているのです。目的もなく黙って欲のままにこのまま生きるのか、それとも目的をもって生きるのか。

あなたはどちらを選びますか。


「自在の書」(その31)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
第四章 因果の本質

第一章こころの葛藤にある「#21わたしは悪くないのに・・・」を思い出してください。こちらでも因果の本質を記載していますが今回はさらに読みやすくしています。因果とはこの言葉をひとつとっても、「我の強いひとであるがゆえの因果」(する側)と「意思の弱いひとの因果」(される側)がそれぞれにあるのです。そして・・・

いじめるひとがいれば、
いじめられるひとがいる

ひとを傷つけるひとがいれば、
傷つけられるひとがいる

ひとを助けるひとがいれば、
助けられるひとがいる

これは当たり前のことですが悪い因果は自らが「する側」の場合、例えばひとをいじめているという、その行為をいじめと理解をしていないのです。または誰かに「いじめ」と指摘をされても○○のためと理由付けをして正当化しているのです。そして「される側」もまた自分が悪いのだから仕方がないと考えるか、またはわたしは絶対に悪くないそれなのに何故として振り払う勇気もなく、その悩みを解決できずにただただ感情に翻弄されて恨み・つらみが溜まり続けるのです。

さまざまな因果の事象に対して、あなたはその都度でどちら側でしょうか。する側でしょうか、される側でしょうか。もちろん、どちらでもない真ん中のかたですねよ。ただすべての因果の事象に対してすべて真ん中と言えるでしょうか。もちろんわたし自身もまだまだです。また、日常で気を付けていることは答えに悩んだらどちらが楽しくなるだろうか、または神さまだったらどちらを選ぶだろうと考えます。後者は神さま任せにしている訳ではありません。少しでも因果のない状態で判断をしたいからそのように考えるのです。

左があるから右があるのです。表があるから裏があるのです。でも真ん中であれば、中心であれば、それくらいがちょうどよいとすれば、因果など起こらなくなるのです。

因果とはあなたの我の強さです。「する側」と「される側」が必ずいるように互いに相反する表と裏があって因果が成り立つのです。そして因果とは

いじめるひとは過去に
いじめられてきた人です

そして

いじめられるひとは過去に
いじめてきた人です

ひとを傷つけるひとは、
過去にひとに傷つけられた人です

そして

ひとに傷つけられるひとは、
過去にひとを傷つけてきた人です

ひとを助けるひとは、
過去にひとに助けられてきた人です

そして

ひとに助けられるひとは、
過去にひとを助けてきた人です

「する側」と「される側」、どちらとも過去にいずれかを経験をしてきているのです。だから因果となるのです。「過去と現在」があり、それは原因があって結果があるのです。そして未来を決めるのはいまのあなたのこころのあり様次第です。いまをどうするかで未来が決まるのです。

これはすべての感情から生まれる因果に相通じるものです。この「表と裏」が「右と左」が「原因と結果」であることを示しているのです。このようにして原因があるから結果が生じるという「理(ことわり)」を知るのです。さまざまな因果の状態を理解できるようになるのです。

我の強さによる感情から生まれる因果とは「する側」と「される側」があり

過去には「する側」で、
現在は「される側」、

または

過去に「される側」で
現在は「する側」として、

さまざまな事象に対して輪廻をするのです。

ではなぜこのような輪廻をするのか、それは「こころの痛み」を知るためです。こころは純粋であるがゆえに何色にも染まるのです。「する側」と「される側」を経験することで相手のこころの痛みがわかるようになるのです。こうしてひとにやさしくなれるのです。ひとに親切にすることができるのです。ひと助けをすることができるようになるのです。

「わたしはこれが因果の
  本質であると考えています」

「こころの痛みを知る」ことは我の強さが無くなってきていることを言うのです。こころの痛みを感じることはみなさんも前世やこの現世で必ず何かしらの「する側」と「される側」の経験で感じたことがあるはずです。わたしの場合は何故か笑顔ない老人の孤独(特にひとりで食事をしている光景)に対する虚しさと幼いこどもへの虐待に対する怒り、それは憎しみに近いほどの感情を10代後半から「こころの痛み」として感じるようになりました。

ただこの怒り(憎しみ)について相手を傷つければそれでよいのでしょうか、それで気がすむのでしょうか、でも所詮その気持ちはその行動のあとに1,2時間続くだけです。そして強い憎しみを持てば持つほどにそれが自分に返ってくるのです。成すべきことは「する側」「される側」ではなくこころに受け入れなくてはならないのです。

こうしてこころのあり様はこのどちらかに在るのではなく「これくらいがちょうどよい」とする「真ん中」の感情を保つことで因果に囚われなくなるのです。このバランスを保つことが大切なのです。そのバランスを保つ良い例が「大自然」にある育む流れなのです。

これが現世の本来あるべき姿であり、こころが成長したあるべき姿なのです。
一日の中で1分間だけでもよいので自然の姿を想い返してください。こころのあり様について自然のごとくバランスを保つようにしてください。

「自在の書」(その30)

第三章 因果の苦悩

自らに何か感情的にとても嫌なことが起きた時にそれを因果として解釈をして理解することが大切です。必ず原因があっての結果なのです。決して感情に身を任せないでください。

例えば仕事などでミスをして注意をされたり、指摘されることは、それ自体の「ミス」、「注意」、「指摘」は因果ではありません。この場合でのあなたの因果とはミスをして相手に言われたことで生まれる自らの感情のことを指しているのです。それは「ミス」したことを他人のせいにする、「注意」されたことに腹を立てる、「指摘」されたことに対してわたしは悪くないとして聞き入れないなどと生じる感情のことを言うのです。

嫌な思いとは自分を正当化して相手を否定しようとするから嫌な思いが増していくのです。自分のミスは素直に反省して、次にミスをしないようにすれば良いだけです。そして自身の我を抑え込めばよいのです。このようにして因果を消すことができるのです。そして神さまはあなたを試しているのです。このひとはどのような反応をするのかと・・・

何度も言いますが因果とは相手が問題なのではありません。嫌なことがあった時に生じるあなたの感情が、あなたの我の強さが問題なのです。そのことを冷静に理解してください。

嫌な思いをするのであれば自分を変えて次にまたミスを起こさないようにすればよいだけです。それを自分は悪くないとしてひとのせいにするからいつまでも同じことを繰り返すのです。

因果を消してゆくことを「我慢」や「苦痛」と感じてはいけません。しかしこれを繰り返してゆくと、ある時になぜここまで自分を抑えなければならないのか、自分らしさがなくなってゆくのではないかと思うようになるのです。どれだけ我慢をすればよいのかと虚しさを感じるのです。そして本当にこれで良いのかと不安になるのです。
でもこのように不安な思いとなるのは、やはりこころのどこかで自分は悪くないと思っているからなのです。だからこの因果を消そうとすることを「我慢」や「苦痛」と感じてしまうのです。素直になることが肝要です。

このように感じてしまうことを断ち切るのが意志の強さなのですが、これを一歩間違えてしまうと我の強さとなってしまうのです。間違えてはいけないのが我の強さは感情ですが意志の強さは行動です。この不安に思う感情を行動で消し去るのです。上記の例えで言うと、それは「この次にミスをしないようにすること」です。

嫌な思いをする自らの感情に対して志をもって消し去るのです。志ある行動をすれば笑顔になれます。楽しくなれるはずです。もしあなたに志がまだ見つからないのであれば、ひとからありがとうと言われることをしてください。またはあなたの長所とする行動でひとに親切にしてください。

言葉で伝えるほど簡単ではないことは百も承知です。わたし自身もこの繰り返しです。それでもわれわれはやらなければならないのです。つらくなったら何度も読み返してください。常にこころとの葛藤です。もちろん長所があれば短所があります。でも神さまはあなたに完璧を求めているのではありません。長所を伸ばしてもらえればそれでよいのです。長所はあなた自身が楽しくなることのはずです。この長所は神さまがあなたに与えてくれたものです。あなたらしさを示してくれればそれでよいのです。そうしてあなたの役割が見つかってゆくのです。

「自在の書」(その29)

第二章 身体の衰え

~常世への準備~

理(ことわり)の書で「脳とこころ」を取り扱っていますが、身体の思考を司る脳は常にこころと葛藤しています。それはこころを常に成長させようとしているからです。脳は子供から大人へと成長することに合わせて思考が形成されて性格が創られてゆきます。そしてこころもまた環境によって様々なことを経験して学びながら成長をします。以前にこころはひとに宿るとお伝えをしましたが、われわれの身体には寿命があります。

それでは年老いて、もし痴呆や障がい者となり身体が衰えて脳の思考が低下したらその身体に宿るこころはどうなるのでしょうか。

このことについて、こころは成長をしたままの状態を保っているということを知っておいてください。身体が老いて行動が制限されようとも、脳の思考が低下しようとも、身体に宿るこころは俯瞰して冷静にあなたを見据えているのです。

ひとを見た目で判断をしてはいけません。どんなひとにでも必ずこころは身体に宿っています。年老いた状態で病にかかっていても、障がいを患っても、こころは何ら変わりません。逆にいろいろと教えてくれることが多くあります。

もしあなたに関わるかたで介護などの助けが必要であるならば、あなたがどのような対応をするのか神さまが試していることもあるでしょう。例え重度の障がいのある方で会話ができなくとも、その方のこころと会話をするようにしてください。直接に相手のこころとお話をするのです。一方通行とはなりますが相手のこころは必ずあなたの声を聴いています。できるだけ声に発して話してください。

そしてわれわれは身体の寿命によりその役目を終えようとする時にひとが生きる意味を知ることができるのです。脳の思考は衰えてもこころが考えているのです。

もうすぐでわたしは死ぬのだろうか
・・・終わりではなくはじまりです

死んだらどうなるのだろうか
・・・常世があるだけです

何のために生きてきたのだろうか
・・・こころを成長させるためです

ひとのために何か役にたったのだろうか
・・・自らの因果に気づいたでしょうか

こころの依り代として宿るこの身体はそのお役目を終えて寿命が尽きるのです。
そしてまたこころだけの状態に戻り常世に向かう準備をするのです。

こころは身体の寿命が近くなると身体から離れてこころのあり様の姿を見ることができます。でも話をすることはできないのです。言葉とはひとの身体を使ってしか発することができないからです。身体から離れたらそれもできなくなります。だからほかのこころの姿を見ても無言だから怖く感じるのかもしれませんね。

こころには年齢の認識はありませんが身体には寿命があります。こうしてこの現世はこころが成長するための試練の場であり常世が中心の世界であることを知るのです。

「この身体はこころを成長させるための器です」
「この身体はこころとつながるための依り代です」

すべてはこころを成長させることが目的であり、それは常世でも同じです。
この身体を大切にしてください。この身体はこれまでのつながりがあり、いまを生きながらえています。つないでくれたご先祖さまに感謝をしてください。