- 神さまはいない~意識の編
あとがき
よくもわるくもひとが意識する想いはさまざまな感情を引き寄せます。その想いが強ければ強いほどに似たような感情は引き寄せられてくるのです。そして行動をすればさらにその意識は他を引き寄せてきます。
今回みなさまの内なる想いである第一章から第八章までのタイトルの言葉について意識をして行動に取り組めばあなたの不安、ストレスなどは減ってゆくことでしょう。すべてはこころのあり様です。
その想いを強く意識をして行動することが大切です。最初はなかなか上手くゆかないかもしれませんが何度も行動をしてみてください。あなたの身体です。ぜひ自らの意志で脳をコントロールできるようになってください。
未知の体験をできないと思えば絶対にできません。このできないと思うことは防衛本能によるものなので当たり前の話です。できないという先入観が身体を制御してしまうのです。ただ逆に自分は何でもできると意識をすれば身体はある程度は順応をして必ずできるようになります。あとは継続した意識付けをこころがけすることです。
「病は気から」は一番わかりやすいたとえですよね。ただ基本的に悲観的なひとや常に自分は悪くないとして他責にするひとなど、思い込みや我の強いひとはわかりやすいものです。考えかたひとつでいかようにもなるということです。
ひとの性格は生きる環境によって養われます。生まれつき戦争をしている国で育った子供と平和な国で育った子供は命に対する考え方などまるで違います。これは極端な例えですが同じ日本で育ったとしても生きた環境の違いで考え方は違います。そのことを理解してまずは相手を知ること、己自身を知ることから始めなければなりません。
何事もの自らに適当な理由付けをしてあきらめることは簡単です。でもあなたが行動をすることは必ずあなたの為になることです。あきらめずに意識をして行動を続けてください。
2021年5月吉日
カテゴリー: 神さまはいない~意識の編
2021年5月1日~11日
意識の編 (その9)
- 神さまはいない~意識編
第八章 小さな息吹
登拝をしていると植物の小さな芽が必死に生きようとしている姿を目にします。ただその小さな芽はそこを歩くひとによって踏みつぶされても植物は何も言えずそれでもまた成長しようと試みます。ただひとにはその踏みつぶされた感覚を理解できます。ただわれわれはそのことに気づかない、気づこうとしないのです。そんな小さな息吹の雑草を意識したところで価値に値しないという想いがあるからです。
ただその小さな芽はわれわれにいろいろと教えてくれているのです。踏みつけられても生きようとする強い意志があること、またそれを他のひとが助けてあげなければと言った意識を教えてくれていることです。この小さな芽が気づかせてくれた「助ける」ということを教えてくれていることはわれわれにとってとても大切なことなのです。
自然の教えとはひとにさまざまな気づきを与えてくれるものです。それはとてもわかりやすく順序立てた流れであり、それはいわゆる原因と結果です。もちろんひとの勝手な都合などは一切ありません。
小さな芽が生きようとするその時の気持ちをひとに教えてくれているものです。踏みつけてはいけないと言う事ではなく、この小さな息吹の想いに気付いてほしいと教えてくれているだけです。これはひとだけにしかわからないことであり感情があるから気づくことができるのです。
ただあるものはそのことに気づいていながら敢えて踏みにじるひともいます。わかっていながら踏みつけるのです。このようにしてひとの意識とはさまざまにあります。踏みつけることで生命に対して憎しみを放つものたちです。それは日常に起きる事件・事故がそれを物語っています。
ひとはみなが平等です。ただそれと同時に不平等も平等であるのです。別の書でこの世界こそが地獄であると記載をしています。現実に起きていること、それが事実です。この憎しみは至る所にありひとの感情と同化して隙あらばこころは取り込まれてしましまいます。
一通りの人生を生きてきたひとならばすでにおわかりでしょう。たとえそれがわからなくともなんとなくでもわかっているはずです。そのことに意識をするきっかけがないだけです。
ひとだけが気づき、ひとだけが行動ができて、ひとだけが多くの生命を助けることができるのです。ひとには可能性があります。だからひとは自然界の頂点に存在しているのです。だからこそすべての生命より信じられて期待されているのです。
意識の編 (その8)
- 神さまはいない~意識の編
第七章 緊張
精神的な重圧や緊張、不安、ストレスなどを感じる感覚はみな同じです。違うのはその起きうる状況だけです。みなさまもいずれかの経験はしたことがあるでしょう。ただこれは自分でその感覚を作り出しているだけです。すべては自らの想いでその感覚を作り出しているのです。これらは未知なる状態に対するひとつの防衛反応です。
ひとは普通に防衛本能が働くため無意識のうちに身を守る行動や考えをします。それは本能といってもよいでしょう。一体何に怯えているのでしょうか。以前にひとは自然界で頂点に立つものであると表現をしていますが実はその本能のままに怯える対象であるのが自然そのものです。天災にはひとのチカラで抗うことはできません。ただひと以外は自然と共存をしているのに、ひとだけは独自の社会を築いてきたがために自然とは共存をせずに自然からだいぶ離れてきてしまいました。
だからひとは自然に対して常に緊張や恐怖を感じているのです。社会の中で体感をするプレッシャーや緊張とは明らかに違うものです。ひとが無意識のうちに畏れを抱く自然とはそれを意識する、しないではまったくその感覚はまったく違います。常に意識をすることで畏れではなく自然の一部となって敬い感謝をすることが大切なのです。
ひとは自然に対して無意識に防衛反応を示すため意識をしなければ大体は真っ先に保守的な思考となってしまうのです。これは身を守るための本能であり仕方がないのですが常に変革の行動を意識すれば保守的に陥ることはなくなるようになります。
ひとは安心をするために行動をパターン化します。それを変えてみることを試してみてください。変えるとは、時間を変える、電車であれば車両を変えるなど意識をして変えてみるのです。または同じ通勤途中でも一日の行動について今日は何をしようかと意識してみるなど常にその行動や意識を変えてみることが大切です。
その習慣を身に付けてみてください。そのようにすることで緊張や不安、ストレスなどは減ってゆきます。ひとは保守的であり無意識が楽だからこそ気づいたときには不安やストレスを抱えるようになるのです。
常に変革の行動を意識することは脳の活性化にもつながりこれまでと同じ不安やストレスではなく新しくさまざまな感覚を身に付けることができるようになるのです。
意識の編 (その7)
- 神さまはいない~意識の編
第六章 理想
ひとの社会において経済学者やアナリストがマクロ経済における社会の理想を論じてもそれは富裕層や中産階級の構成比が多少代わるだけで、貧困層がなくなるわけではありません。資本主義であればばなおさら当たり前です。
ただそれでもいまより良い世界を創るために理想を掲げますがこれまでもそうであるように何も変わりません。
そしてひとはいまの生活環境について社会のせいやひとのせいにしますがあなたがいまいる環境はあなた自身が創り出していることを理解してください。資本主義のせいだ、社会主義だったらよいのに・・・など何かのせいや誰かのせいにするなどは論外です。誰かに、何かに依存をした考えかたの方が楽だから、流されたほうが楽だからそうなるのです。
行動もできない年齢の子どもは別として、根本的にどのような社会であってもいまあなたがいる環境を創っているのはあなたのこころのあり様で創られているのです。「こころのあり様」とはあなたの感じ方次第、考え方次第、行動の仕方次第ということです。
ひとの世を変えるのは社会ではありません。われわれそれぞれのこころのあり様が社会を創るのです。ひとりひとりが「志」に尽くして生きることが大切です。「志」の短所は他のひとにある「志」が補えばそれでよいだけです。
ひとはこのことに気づくために争いや環境破壊、災害が起きたときに気づくのです。そして世界そのものを一旦リセットされなければわからないのです。これまでそうして同じことを繰り返してきているのです。
そしてこのまま100年先の世界ではひとさえも必要としなくなっている世界であるのかもしれませんし、または文明が一度リセットされた世界になっているのかもしれません。
でもたとえどんな世界になろうとも「こころ」はその社会に飲み込まれたままであるのか、または「志」の意識を保ちながら転生を繰り返しているかいづれにしても同じことを繰り返されているだけの世界です。
あなたがいま、「志」を掲げて意識をした考えや行動をするのならばこの繰り返される因果の世界から抜け出せるかどうかにかかっているのです。
意識の編 (その6)
- 神さまはいな神さまはいない~意識の編
第五章 判断について
後悔しない人生を歩むのではありません。こころの底から満足のゆく人生を歩んでください。後悔しない人生とは後悔することが前提にある言葉です。
ひとは失敗から学び、つぎに活かして成長をします。そのこと自体はとても大切なことです。
でも上記にあるふたつの考え方は大分違います。後悔をしないために判断をするものではありません。後悔をするしないは自身の都合です。たとえその結果が後悔をすることになってもあなたのこころが判断をしたのであればその結果はあなたにとって必要だから起きているだけです。
選択の判断が正しいか、間違いかは本来どちらでもよいのです。大切なことはあなたのこころの底で判断をすることなのです。それにその結果を他人にどうこう言われようとも関係ありません。もちろん他人に相談をするのは構いませんが判断を委ねるものではありません。
あくまでもあなたの価値観で判断をするものです。この価値観とは「あなたらしさ」であり、「志」であり、「こころの底にある声」ということです。
いまあなたがいる環境はあなたがこれまでさまざまな判断をした結果として「在る」のです。誰のせいでもありません。あなたの判断で創り出した環境です。
「志」なく、もしいまの環境に満足をしていないのであればこれまでのあなたの判断は純粋なこころで判断をしていないことです。ひとに流された判断であったのか、欲のままに判断をしたのかなど、その積み重ねによっていまが在るのです。
「志」のままに判断ができていれば迷うことなど何もありません。このように「志」が有るか、無いかで判断に迷うことが圧倒的に少なくなり、悩みも減るものです。それは後悔しない判断ではなく信念からの判断であるため意志が強くなれるのです。その結果、後悔することはないのです。
意志が強いと我が強いはまったく違います。意志が強いとは志があることであり、我が強いとは欲のままに在るといったことです。われわれはみなそれぞれが掲げ「志」のままに生きてゆかなければならないのです。
意識の編 (その5)
- 神さまはいない~意識の編
第四章 信頼
なぜひとを信頼できなくなるのでしょうか。
前の書での「志」のままに~第七章でも信頼というテーマで記載をしていますが今回はその範囲をもう少し狭めてこの社会の中で生きることでの信頼について記載をいたします。
信頼をする、できないは相手の問題ではなく自らの感情によるものです。相手に裏切られたから、そもそも信頼に値しないなど理由はさまざまです。
ひとを信頼して裏切られたことの痛みとはなんでしょうか。よく「信頼していたひとに裏切られて悲しい、もうだれも信頼をすることはできない」などという感情の表現がありますがそれはただの悲しいという感情でありほかのひとを信頼できないなどとはそのほかのひとがいい迷惑です。裏切られたとする自身の感情に同情してほしいがための承認欲求です。良い言い回しでは純粋ともいえるでしょうが・・・
またはひとに裏切られて当然、裏切られるひとがよくないから裏切られたとする考え方もあります。またはそんなことは当たり前でいちいちそんなこと気にしないとするひともいます。
わたしはよくこの自己満足という言葉を使いますが我の強いひとほどこの傾向にあります。自己顕示欲や承認欲求のあるかたも一様に我が強いです。
前述のように言葉で書いてみるとよくわかります。ただ我の強いひとたちはこれをおかしいとは思わないのです。自分と考え方が違うひとは必ず会社にいます。でも多様性あるひとがいる会社ほどこころは成長するものです。
今回のテーマである「信頼できない」について
1、信頼していたひとに裏切られたからもうだれも信頼をすることはできないとする考え
2、ひとはそもそも信頼するべきではないとする考え
3、裏切られるひとがそもそも悪いとする考え
4、信頼する、裏切られるという感覚すら必要としない考え
5、たとえ裏切られても信頼し続けるという考え
6、裏切られないために信頼をするという考え
7、特定のひとだけでなくすべてのひとを信頼するという考え
8、お金をもらえれば裏切られても構わないという考え
9、いまではなくもっと前に裏切ってほしかったという考え
10、相手に同情をする考え
11、個人的には許せないが立場上仕方がないという考え・・・
自分軸、相手軸、時間軸、第三者軸、男性軸、女性軸、環境軸(生活感や国ごとの違い)、会社での立ち位置軸などによっていくつもの考えはあるものです。更には組み合わせによる自分軸+時間軸・・・などさまざまです。そしてその考えかたは決してひとつではなく、育った環境にもよっていくつもの考えがあるのです。あなたはどのような考えに該当するでしょうか。
この世は欲にまみれた世界であり欲望のままに生きるひとがほとんどです。純粋なひとほどその中で生きることはとても困難です。だからこそこころの成長が必要であるのです。
余談ですが上記に対するわたしの考え方は「相手がどうこうではなく自分が相手を信じたならば、その信じた自分を信じればよいだけです。それは自分だけは自分を裏切らないということです。相手を軸に考えるからこころが惑わされるのです。自分を信頼していればよいのです。
意識の編 (その4)
- 神さまはいない~意識の編
第三章 その先へ
いまわれわれが生きている中で「こころの成長」を意識しているひとがどれだけいるのでしょうか。ほとんどのひとは考えたこともないでしょうし僅かながらにいたとしてもそれは無意識に実践をしているかたです。それほどまでにひとは意識をしながら行動をするということができないのです。そして行動することにおいて意識をする、しないではその結果が天と地ほどの開きがあるのです。「一生懸命やっている」というのは当たり前でありだれもがそう言います。
常にこころで意識をさせるとそれを感じとる脳や身体が反応して他の想いが引き寄せられるのです。みなさまご存じのようにひとが想像することはこれまでほとんどが実現されてきています。
行動をしながらまさにその時「こころを成長させる」ことを意識して行動をすればその瞬間がすでに変わってくるのです。
そしてこころの成長とはさきへ先へと進むことです。ただ行動には必ずある時にその先はどうしたらよいのだろうかと考える時期が訪れます。思考が尽きたとき、大抵は上手くゆかなくなったときに立ち止まってしまうのです。
それでもその答えは必ずそれまで行動をしてきたことに隠されています。「こころの成長」とはその積み重ねであり、その経験は決して無駄ではありません。いろいろな選択肢がある中で突き進んできていますが立ち止まった時は一旦後戻りをして何か見逃したきっかけはなかったかを探してみてください。
大切なことは思考を止めては絶対にいけません。ひたすらに考えれば考えるほどに必ずその糸口が見つかります。そしてその糸口をきっかけにしてまた進んでゆくのです。「こころの成長」とはその繰り繰り返しです。こころの成長を意識してみてください。
ビジネス用語に「選択と集中」という言葉がありますが企業にあって「会社を成長させる」ためにコアビジネスを「選択」してそこに経営資源を「集中」して投下するというのは、個であっても「こころを成長させる」ために「志」を見つけてそこへ常に「意識する」ということと同じです。状況は違ってもひとの内面的な思考です。「会社はひとなり」とあるように企業であっても個人であっても考え方に大差ありません。
意識の編 (その3)
- 神さまはいない~意識の編
第二章 意識の違い
ブログに掲載をしている「己が自身」では神さまという言葉を使っていません。神さまはいないものとしてこころの成長のためにどうあるべきかを綴っています。ひとは弱いものでなにかと困ったら神さまを頼りにします。それでは何もこころは成長しませんし、そもそも神さまへは感謝の気持ちを伝えるものであって個人的な頼み事や願いごとなどにチカラを貸してはくれません。
ここに記載をしていることはまずは己が自身で行動をしてくださいとしたものです。それはわたしもまた自戒の気持ちを込めて綴っています。言葉で記すほど簡単ではないことも承知しています。ただ本来はあなたの問題を誰かに解決をしてもらうのではなく、自身で問題を解決して道を切り開いてゆかなければならないのです。
できないことの言い訳を他人に話すことはただ同情をしてほしいがための行動です。それを自らに対して言い訳をするなどは聞いたことがありません。さらには自分で何もせず、何もしない自分に都合よく言い訳をしてその場を回避するなど甘えた感情まき散らしているのです。すべてはこころのあり様なのです。
地面にある幅30センチの白線の上を歩くことはたやすいことですが標高2000mにある幅30センチの稜線を歩くことは並大抵ではできません。最初は四つん這いになって渡るのが精一杯でしたが最近はやっと立って歩けるようになりました。
それでも一歩先の目の前に集中をして「大丈夫、問題ない」として自分に言い聞かせて渡ることしかできません。本当は10m先を見て渡りたいのですがゴツゴツとした岩の稜線で歩きづらいためまだまだその程度なのです。たかが真っ直ぐに歩けばよいことなのに恐怖がそうはさせてくれません。
でも地面の上では安心をして歩けます。安心とは無意識の状態のことです。それを標高2000mではとても無意識でいられません。そうではなく地面で白線を歩く時も常に無意識ではなく意識をして歩くことです。それができるならば両サイドが谷底の稜線でも恐怖を抑え込むほどの強い意識を保つことができるはずです。それは経験によって成せるのです。
信念・「志」とはひとを助ける言葉であって、プライドとは自身の我の強さを表した言葉です。後者には何の価値もなく役に立ちませんが、前者にある「志」の言葉を強く意識をして行動すれば必ず良い結果が生まれます。
意識の編 (その2)
- 神さまはいない~意識の編
第一章 ひとの悩み
われわれは常に対人関係が付きまといます。この対人関係による葛藤の原因はそのほとんどが自分の思い通りにならないことへの苛立ちから生まれるものです。煩悩にある諸々の欲、怒り、愚痴や言い訳などはいずれも相手があってのひとの感情から生まれます。ひとは常に感情をコントロールしなければなりません。
ひとは悩みが尽きないものです。悩みとは姿、形を変えて次から次へと現れます。そしてひとである以上は常に感情に翻弄されるために悩みを一切無くすこともできませんが減らすことはできるのです。
ひとはみな悩みに悩んでいます。そして悩みからは答えを導き出すことはできません。だから悩み続けるのです。でも悩むのではなく「考える」と意識してみたらどうでしょうか。考えるようにすれば必ず答えを導きだすことができます。
そして悩みから逃げずに悩みと向き合ってください。ひとの人生は思い通りにはなりません。その思い通りにならないことをどうしたらよいのか考えてください。そもそもあなたのその悩みは一体どうしたいのでしょうか。
あなたの意思が弱い、あなたの我の強さが邪魔をしているなど悩みが解決されない理由はひとによってさまざまです。ただ悩むのではなく考えるようにすればいろいろな答えが導かれます。
悩みという思考を取り除いて「考える」ことを意識してください。そうすれば常に前を向いて歩き続けることができるようになります。常に悩むのではなく考えてください。冷静に時間をかけて答えを導きだすために考えてみてください。
若年層のかたに手を差し伸べることは簡単ですがおとなが頭ごなしに当たり前のことを偉そうに伝えても相手は理解してくれません。こどもだろうが若年層だろうがそのひとなりに自身の考えが在るのです。まずはそのことを聞いてあなたが相手を理解しないことにはあなたの言葉で相手を理解させることはできません。
自分は何に悩んでいて、それで一体どうしたいのかを考えることが大切なのです。
意識の編 (その1)
- 神さまはいない~意志の編
まえがき
今回(全6回)から記載をする内容は「神さまはいない」として短編ブログにある「己が自身」で掲載していた言葉についてもう少し前後の脈らくを付け足してわかりやすくしたものを中心に綴っています。神さまという言葉は使わずとも「こころの成長」ができることを書き記したものです。
これまでの書を含めてわたしの経験を軸に記載をしたものなのでみなさまにとっては文章を否定する考えもあれば、どこか一部だけでも共感することがあるかもしれません。また読み手にとってはそんなこと当たり前と思うことや、そうゆう考え方もあるのかと気づきにつながる言葉があるかもしれません。
前回の「因果について」をまとめた全6回の書は少し偏った世界観を表現する場面がいくつかありました。それもわたしの想いであることに違いはないのですが探求心を深めるあまり少しずつ道理を理解した言葉で綴るよりも感覚で伝えるようになってきて言葉だけがひとり歩きをしようとしている文章に気づき、所々に切り上げていました。ただそこに向かって書き綴ることを否定はしませんが優先順位の問題であり、いずれは記載することになるとは思います。
またはある部分の一節ではみなさまに伝えるということよりも自己満足に近いものを感じたこともあります。もちろんそんなことは書き手の自由であり当たり前として気にすることもないのですが私の目的はできるだけ多くのひとが「こころの成長」をするための気づきを伝えることが目的です。書き手の自己満足などは必要とせず読み手にとって必要とする気づきにつながる言葉でなければなりません。
今回からの連載についてはできるだけ社会の中で、日常生活の中で直面をする問題に対していかにこころの成長につなげてゆくのかを書き綴ったものです。似たような啓発書はいくつもありますがわたしらしさでの記載をしていますので少しでもみなさまのお役に立てればとの思いです。
もちろんわたしはいまも社会の中で働いていますが、だからこそ真逆にある自然に対して理解ができるのかもしれません。自然にある考えを知ることで社会の中で生きることがとても楽しくなるのです。そして欲の世界にいるからこそ欲に染まった世界と葛藤をしながら己が自身を見出すために必死になっているのかもしれません。
それではこれより本編に入ります。
目次
第一章 ひとの悩み
第二章 意識の違い
第三章 その先へ
第四章 信頼
第五章 判断について
第六章 理想
第七章 緊張
第八章 小さな息吹
あとがき
以上