その先の扉 (その10)

水面に映るご神木のあり様
あとがき

これまで幾度となく説明をしているあなたを守る神さまについて、いまあなたはどのように解釈をしているでしょうか。もしそんなものはいないと割り切るようであればそれでも構いません。きっと自分しか信じることができないのでしょう。それはそれですごく大切なことです。神さまを信じなくても十分に生きてゆくことはできます。こころさえ成長しているならばその細かな仕組みなど知らなくても何の問題もありません。

わたしの伝えている書き物は「こころ」をわたしなりに説いているだけです。「信じてください」としているものではありません。「こころを成長させてください」としているだけです。

これまでに「こころの成長」について様々に伝えてきましたが、「こころ」とは普遍なのです。「すべてはこころを成長させるために出来事(事象)がある」だけです。
いまわれわれの身近に起きる出来事に対するわたしたちの感情などどれほどに小さなものなのでしょうか。そして神社においてはその個々の些細なことを神さまにお願いをしてもそんなことに神さまはチカラを貸してはくれません。逆にそれくらいのことならあなたを守る神さまにお願いをするか、自分自身で何とかしなさいと怒られることでしょう。

あなたのこころが成長すればあなたを守る神さまのこころも成長します。だからこそあなたを守る神さまにはどうしても追いつけないのです。ですがあなたのこころが成長しているある時にあなたを守る神さまと自らが同じ意識であることに触れていると感じることが必ずあります。それはあなたを守る神さまのこころとひとつになっているということに気が付くのです。その時あなたは更なるその先の扉に導かれてゆくのです。

大切なことはあなたのこころにある「志」が高ければ高いほどに、広ければ広いほどに、深ければ深いほどに合わせて大神さまはあなたのその願いを叶えてくれるように協力をしてあなたを助けてくれるのです。

現世でも常世でもこころの成長の例えはこれまでにみなさまにお知らせしている通りです。普遍であるこころに寿命などありませんしこころのあり様とは「志」と同じようにどれだけ広く、どれだけ深くに考えられるか、ただそれだけです。そしてその先にある自然に宿る神さまは限りなく「無」に近いこころがあり、更にはその先にある広大な宇宙をも「こころ」と言い表すことができるのです。

これまでの「その先の扉」をご覧いただきありがとうございます。
 
2020年11月吉日

その先の扉 (その9)

水面に映るご神木のあり様
第八章 自然のままに

こころは過去もいまも未来へもとつながっています。この「時間と空間」は「線と点」のようなものです。

過去を知るとは「因果」に気づくことです。その「因果」とは原因と結果のことでもあり、因果の原因となるひとの「感情」は、その時のこころのあり様を計り知ることができるのです。このことを理解すると時代とはただの線であってその長さとは因果を点で繰り返す回数が線として現れているだけなのです。

こうして過去の時間とその時の点である因果の空間、いわゆるその時に起きた出来事はさして必要ではなく言い換えればただあるのは「因果」による「原因と結果」でしかなく、いわゆる時間は必要としなくなるのです。時間を必要としない概念は常世のことでありそれは「こころ」のことです。

すべての過去に起きた事象やこれからの起きる事象のすべては因果による原因と結果です。そしてその因果の原因となる相手に対する強欲の感情はこころを成長させることで少しずつ無くなってゆきます。このようにしてゆけば、自然と因果も無くなってゆき因果によるその結果である争いや事件・事故が無くなってゆくのです。すべてはつながっているのです。

そしてこのことを繰り返してゆけば未来がどうなるのかは自然とわかるようになるのです。

このようにして因果や原因と結果、理由があっての必然、自然という言葉の使い方、自然に宿る神さまとは限りなく「無」に近い、とする意味などこれまでの「理の書」からのつながりもまた線であるのです。

すべては「こころを成長させる」ということが頂点にあり、過去にあった出来事や、いまそこにある出来事は「こころを成長させる」、そのために派生する事象にしか過ぎないということであり個々の「正しい」、「間違い」などの感情は必要としないのです。

それが「自然のままに」ということです。

その先の扉 (その8)

水面に映るご神木のあり様

第七章 その先の扉

ひとは言葉なくして行動はできません。言葉があるからこそ行動ができるのです。だからこそ「信念」・「志」が必要なのです。そしてその「信念」・「志」があなたの「役割」でありその役割に尽くすことが生きる理由です。

われわれは先人たちからの想いを未来のひとたちにつなげてゆかなければなりません。その理由は未来のひとたちにそれぞれ自らの「信念」・「志」に気づいてもらうためです。それはわれわれも同じであり、先人たちの想いがいま自らの「信念」・「志」に気づくきっかけを伝えてくれているのです。このようにして先人たちの色あせない時代の想いをつないでゆかなければならないのです。

余談ですがわたしはねこを飼っているのですが最近そのねこから学ぶことがいくつかありました。そのひとつに、われわれひとの都合をねこに伝えても言うことは聞いてくれませんがねこの都合で伝えればその気持ちに応えてくれます。ねこは何度も同じことを繰り返します。それはまるでひとの子どもと同じです。もう一回、もう一回と同じことを繰り返すのと一緒です。その想いでねこに接してみてください。

話を戻します。最近ふっと思ったのですが、こころが転生をするのはひとの身体だけでもないのかということです。

そして転生する時代もこの現世だけではなく隣にある別の現世で、しかも時代はAD1400年くらい(こころのあり様次第です)に転生をすることもあるのではないかということです。こころを成長させるためにもっとも最適な環境とは何もひとの身体だけではなく動物や植物に宿ることも必要なのでしょう。またはわれわれがイメージをしている地獄(想像)の世界なのかもしれません。更には「宇宙」という世界にまで視野を広げれば限りない転生先の想像をすることが可能となります。

何度も伝えるようにわたしの書はひとりが100人を助けるのではなく、100人が100人を助けることを第一に考えているのでわたしの伝えることはそのためのきっかけにしか過ぎません。一滴の雫が水面に落ちて波紋となればそれでよいのです。これも自然が教えてくれていることで、それがわたしの役割です。

なにが事実なのか、なにが正しいのか、どうして不条理であるのかということではなく「こころが成長する」ためにわれわれが想像することはすべて「ある」ということなのです。われわれは想像をすることでそれらをさまざまな言葉によって言い現わしますがその言葉とは無限に広がる新たな可能性でもあるのです。想像を言葉に現した時点でそれが「ある」のです。できる、できないではなく言葉に発した時点でそこに「ある」のです。

われわれはすべての起きる事象に対して乗り越えてゆかなければなりません。それは耐えるということではなくすべてを受け入れること、そして何より行動をするということです。

身の回りで起こる耐えがたいこと、我慢ができないことはこころが成長するために敢えて試練としてそこに「ある」ということです。だからこそ争いの悲しみや憎しみ、災害の苦しみや嘆きなどは無くならず、逆に必要とされるのです。そしてその当事者となる、ならないはこころのあり様次第です。その中でひとは何ができるのかを試されているのです。こころが成長するようにと・・・

そこにある出来事のすべては「こころを成長させる」ということが頂点にありそのために派生する事象があるというだけです。だからこそ「事実なのか」「正しいのか」「不条理である」などはあくまでも己が自身だけの小さな問題でしかありません。すべては「こころを成長させる」ための事象があるだけです。

そして自らに問いかけるのです。「こころ」という「意識」はなにか、そのはじまりはいつなのかと。そう考えたときの答えである「こころ」とは・・・

遥か太古の時代で自然のままに生きていたひとは「強欲」という「因果」が生まれた、その瞬間に「こころ」という意識に目覚めたのです。

この意味についてはま次の書でお伝えをしてゆきます。


その先の扉 (その7)

水面に映るご神木のあり様

第六章 それぞれの想い

前述の通りにいま起きていることに対するあなたの感じ方は点でしか見ていないことが多くあります。それゆえに点で捉えるとは衝動的に駆られることもあるでしょう。
争いに対する意識は、平和な時代に生まれた時の考え、そして戦火の中で育ったときの考え、それぞれにその時のこころのあり様次第でその想いはさまざまにあるものです。それではなぜこれほどまでに争いは無くならずに繰り返してきているのでしょうか。

争いを点で捉えればただの殺し合いでしかありません。争いを肯定するつもりはありませんがその当時のひとたちの気持ちを線で考えてみてはいかがでしょうか。

争いの根本は強欲に端を発しますがその産物として、ひとを助けて幸せにしようとした信念・志が生まれるのです。相手もまた同じ信念のもとで争い、勝者は殺めたものの想いを背負いながら自らの信念を貫き通そうとしただけなのです。殺めた数だけ責任は重くのしかかりその想いに報いるために争いを終わらせなければならなかったのです。ひとを束ねるものはその想いのほどに尊い志の役割(行動)であったのです。尊い「志」を掲げ高ければ高いほどに、広ければ広いほどにその「志」に対する因果は生まれません。

先人たちの「信念」、「志」の想いをどのようにつないでゆくべきでしょうか。それをひとりですべて背負う必要はありませんし、みなさまのこころが成長すればその時のこころのあり様次第でさまざまにそれぞれの手段(役割)で先人たちの想いをつないでゆくことができるのです。

現代においてもどんな事件、事故であれすべての事象について双方の当事者には原因があっての結果であることを受け入れなければなりませんが、その当事者以外の第三者のわれわれにもその事件・事故の因果について教えてくれているのです。テレビや新聞で事件・事故の情報を共有するのは第三者であるわれわれに対する未然防止による注意喚起の意味でもあります。瞬時に知る事件・事故などに対してみなさまにはさまざまに意見・感情があるでしょう。そこからわれわれは学んでゆかなければならないのです。

それでも決して答えはひとつではありません。その時のそれぞれのこころのあり様次第で受け取り方はさまざまにあるのです。だから「~らしさ」がそれぞれに生まれてゆくのです。

答えや教えをひとつにしようとしてはいけません。答えをひとつにしようとするから傲慢である我の強さによる因果が生まれるのです。それぞれのこころのあり様が違う以上、ひとつにする必要もないのです。それにわれわれのこころが成長すればするほどに自然とひとつになるものです。それが自然の「役割」なのです。

課題がむずかしければ難しいほどに、答えはわからなければわからないほどに、その先にあることは点で考えずに線で考えることであなたらしさによる新たな役割に導かれてゆきます。そしてその線が長ければ長いほどにあなたのこころの成長へとつながってゆくのです。

自らの答えと他の答えが違っても構いません。あなたの答えが正しいのか、間違いなのかではありません。他の答えが正しいのかどうかでもありません。なぜならその判断はあなたがするものではないからです。あなたはただ自らの信念・「志」を正しいと思って行動している。それでよいのです。そしておのずと結果は自然に導かれてゆくものです。

もう一度伝えます。あなたのこころのあり様と他のこころのあり様は違います。それをひとつにしようとすることはあなたの我の強さです。なぜ理解をして相手を認めてあげないのでしょうか。それは相手の考えを自分の思い通りにしたいとするだけの傲慢でしかありません。

あなたの信念・志とは「あなたらしさ」だからこそ、あなただけのものなのです。それは相手も同じです。あなたの考え方を限定せずに受け入れて無限に広げてみてください。そうすれば必ず次の扉がみつかります。それがこころの成長でもあります。


その先の扉 (その6)

水面に映るご神木のあり様

第五章 それぞれの考え

われわれが生きる「生命」とはひとだけでなく動物や植物にまで及びます。そしてわれわれもまた自然の一部であり自然に生かされているのです。

生命の倫理については環境破壊などいくつもありますが良く例えられるのが食における生き物を殺めることの問題があります。それは生業としている者たちが主な対象ですが、生業には食の安定供給という理由があってのことでしょう。そして倫理の観点として一般消費者にもその影響が及んでいるのも事実です。一般的な意見としてあるのが動物はダメでお魚はどうなるのか、植物にも命があるというなら、野菜なども食してはいけないのか、果実もダメか、それではわれわれは一体何を食べて生活すればよいのかと言ったような右寄りの議論となることは容易に察します。

極端に左か右に振り切った意見の方がわかりやすいからそのような考えを引用します。この課題に対してみなさまはどのように考えるでしょうか。植物の生命についてはどのように捉えるかなど様々に課題があるでしょう。わたしなりにその想いのひとつとして、ただ単に遥か先人たちの自然のままの生活を想像すればわかることと考えます。それは生きるための必要最低限を食してくださいとしているだけです。これも「自在の書」で伝えましたがその考えかたは左や右ではなく真ん中で良いのです。

たとえば上記のように食における日本の文化をあえて伝えるならば日本人は古来よりご飯を食べる時「いただきます」、食べ終えたら「ごちそうさま」と言いますが、これは生命ある動物、植物に対して感謝の気持ちを伝えているものです。そして必要最低限のものを食せばそれでよいのです。これも先人たちの想いです。

この感謝の気持ちもまた過去からのひとたちによる動物や植物などの生き物に対する感謝の気持ちの想いであり、そしてこの先も動物や植物に対して共存をしていくことを伝えているものです。このようにして先人たちもまた自然の法則(摂理)をわれわれにその想いとともに伝えてくれているのです。誰に教えを乞うものではなく風習として語り継がれてわれわれに伝えてくれているのです。

ひとが強欲のために過剰に生き物を殺めることには因果が生まれます。ただひとが生きるための必要最低限に動物を殺めることに因果は生じません。そこには自然との共存共栄があり適者生存があるからです。決して弱肉強食ではないことを理解してください。

ここでは食を例えにした問題を提起していますが過剰な食材の廃棄など原材料につながる生き物の価値観や生命の倫理などに対する感謝の気持ちがいま失われているのは事実です。もちろん少数ではありますがそのことを声に出して多くひとに訴えているかたたちもいます。でも生業としている生産者との考えは左と右の意見に相分かれてしまうことでしょう。それはコインの表と裏です。互いの考えは真逆のため相容れることはありません。

このように真逆の対立する考えについて真ん中の答えを求めることが必要なのですが、その答えを導くためには点で考えるのではなく線で考えなければなりません。
点で考えてしまうとどうしてもその場での解決をもくろみ、その結果感情に身を委ねてしまいます。そうではなくものごとは線で捉えて広く、深くに考えるのです。例えば点で考えると「いまをどうしよう」と考えてしまいますが線で考えると「未来をどうしよう」となるのです。そのための行動をすればよいのです。「未来をどうしよう」と考えれば必然的に対象者はいまの真逆の考えである相手ではなくなり新たに未来を創る子どもたちへの教えに変わるのです。

同じ行動でも「未来をどうしよう」と考えれば必然的に次世代への子どもたちへの教えをすることが大切であると気付くものです。

あなたが正しいと思う考えを真逆の考えをする相手に伝えるのは何の問題もありません。それは信念ある行動であり大切なことです。ただそこに答えを見出すことは困難であり、逆に何故こんなにも想いを伝えているのにわかってくれないのだろうと嘆きの感情が残ってしまいます。

他を否定するのは構いませんがそれを感情に表せばあなたの傲慢でしかありません。点で捉えた個々の考えで判断した行動の果てはあなたも相手もそれが原因であり結果となって現れるだけなのです。それはあなたが納得する、しないではなく相手が理解する、でもありません。それは原因があっての結果であり、理由があっての必然でしかありません。そしてそれを受け入れなければ憎しみとなってまた新たな因果が生まれてしまうのです。

植物の花はただきれいに咲かせるために一生懸命なのです。それが役割なのです。だからこそ花を見たひとはそれをきれいだと感じて花はみなに好かれるのです。もちろんきれいに咲くこと以外にも昆虫に蜜を与えてはその代わりに身体に花粉を付け運ばせて次の花たちへと生命をつなげているのです。しっかりと未来のために意志をつないでいるのです。このような摂理(自然の法則)の中でわれわれは生きていることを理解しなければならないのです。

その先の扉 (その5)

水面に映るご神木のあり様
第四章 生きる理由

これまで争いごとはいつの世も繰り返し行われてきました。そしてそれぞれの争いには「因果」が付きまとうものです。

いつの時代に生まれようともその時のひとたち個々のこころのあり様なのです。そしてその時代に生きたことはあなたのこころが何かを学ぶべきために必要とした環境であったことに間違いありません。

その状況に生まれたことは紛れもなく原因があっての結果です。その必然に気づくのであれば「志」を見つけるでしょうし、何もわからぬものはまた同じ「因果」をくりかえすのです。

どのような時代であってもその時のあなたのこころのあり様次第で必要としていたからこそにその環境と対峙しているのです。あなたが生きていることには必ず理由があるのです。だからこそいま問うのです。「あなたは何のためにいま生きているのでしょうか」と。

過去に何の原因があって、いま結果としてあなたは生きているのでしょうか。必ずあなたがいま生きていることには理由があるのです。ただなんとなく生まれてきて欲のままにその時代を生きたなどは絶対にありません。それは身体のつながりある先人たちに失礼であり、あなたを守る神さまにも申し訳ないことです。

いつの時代にあっても争いに善悪を決めるものではありませんし、もちろん優劣の比較をするものでもありません。ただこころを成長させるために必然としてあるだけです。

いま起きている事象もすべて原因があっての結果として起きているのです。そのことを理解しなければなりません。不条理だと嘆いていることもおかしな話なのです。原因はすべてわれわれにあり、その理由もすべてわれわれにあるのです。

われわれは何百年単位で常に同じことを繰り返してきているのです。それはみなさまも理解をしているはずです。こころが成長しなければは近い将来に、また争いなのか疫病や天災なのかと同じことを繰り返すだけです。

ただいつの時代に生きても「こころ」は必然として自らに与えられた環境にあります。その環境で学ぶ必要があるからこそ生まれてきているのです。

以前にもお伝えしましたがあなたのこころがもっとも成長する環境で生まれてくるのです。

たとえそれがどんな環境であってもいまの自分にとってこの環境に生きて学ぶことが必要だからこその必然なのです。

そして争いがあるからこそ「ひとの役に立てる」というひともいるのです。争いがあるからこそ「そのひとらしさ」で、ひとを助けることができるひともいるのです。平和に必要なひと、戦乱の世に必要なひと、それぞれの「~らしさ」とはこころのあり様次第でさまざまな環境が与えられるのです。


その先の扉 (その4)

水面に映るご神木のあり様

第三章 行動すること

ひと助けとは困った人を助けることだけではありません。例えばあなたのこころがいまよりもっと成長させることもひと助けのひとつです。それはあなたのこころが成長すればするほどにあなたの信念・志は「~らしさ」で他のひとを助けるからです。このようにしてひと助けとはいろいろに考えることができるのです。

たとえばわれわれは愛するひとや家族に対して常にひと助けをしていることに気づいているでしょうか。それは相手を楽しませたり、喜ばせたりすることもひと助けであり、あなたが相手を喜ばせれば、相手もあなたに対して何かしらの行動を返してくれます。このようにして感謝の気持ちや恩返しを無意識のうちにしているのです。

そして親はこどもに対して危険な目に合わないよう事前に察知をしてこどもを守るなど、そして病、災いからの未然防止につながることをさまざまにしています。同じようにこれらの行動はあなたを守る神さまもあなたに対してしていることにお気づきでしょうか。

このようにしてわれわれは未来のひとのためにもひと助けを考えなければならないのです。先人たちの想いをつなげるとは前章でもお伝えしていますが、その他にも未来のひとたちのためにできることはたくさんにあります。

何度も言うようにひと助けとは言葉ではなくて行動です。ここでその行動についての一例をいま一度お伝えします。

行動とはあなたがいままで「しなかったこと」、「できなかったこと」を「すること」を指しています。それは変化といってもよいでしょう。身近なことで言えば募金をすることも一つの行動です。もしいままで一度もしたことがないというならぜひやってみてください。募金の金額ではなく募金をする行動が大切なのです。

その次に行動してほしいことはあなたがこれまでに生まれ育った環境から学んだことをあなたの長所として、得意に活かして行動してくださいということです。あなたが変わることが大切なのです。

余談ですが障がいのあるかたたちは自らをもって、わたしたちにいろいろなことを教えてくれているのです。それは障がいのかたを支える方たちも一緒です。すでに役割(行動)をもって生まれてきているかたちです。分け隔てることなど必要ありませんが学ぶべきこととしてこれほど尊いものはありません。

話を戻しましょう。前述の通りにもっと言い方を変えればあなたの長所を前面に出してくださいということです。そして短所は自分でなんとかしなくてもよいです。心配をせずともあなたの短所は他者が補ってくれるものです。長所も短所も同時になんとかしようとするから時間がかかりいつの間にか行動することを忘れてしまうのです。

または漠然と大きなお題目を掲げてしまうから中途半端に終わるのです。しっかりとした「行動」の見つけ方のポイントはこれまでも何度か伝えていますが、まずあなたが楽しくなることが大切なことです。例えばスポーツを通して、趣味を通してなど、ひと助けにつながる行動はいくらでもあります。まずあなたが楽しくなることが重要なのです。難しく考えなくとも大丈夫です。

本当に特段なにもないというかたもいるでしょうし、内向的で行動自体が苦手なかたもいるかと思いますがひとを楽しくさせてあげたり、喜ばせてあげることも行動です。ひと助けとはそこから始まるのです。ぜひやってみてください。


その先の扉 (その3)

水面に映るご神木のあり様

第二章 未来ために

転生をするこころは過去もいまもそして未来へも時空でつながっています。
先人たちのつながる想いを知り、未来を変えてゆくこと、いまわれわれにできることはそれぞれに役割を見つけて信念・志の行動で未来のひとたちに伝えることです。

別の機会でもお伝えをしていますが大切なことは過去の事実を知ることではありません。史書とは大まかな出来事の史実です。想像やあるべき姿、思い込みがある中で何が正解であるのかさえわかりません。ただその時代に生きたひとたちの背後には万人の想いがあり、それぞれのこころのあり様などさまざまにあるのです。

このように、ひとことで歴史の事実と言っても見る角度、知る内容によってさまざまな想いがあるものです。歴史について何をもって事実と決めているのかさえよくわからないものです。このようにして史実は無数の解釈が成り立つのです。あくまでも「そのような考え方による出来事があった」でしかないのです。これは過去に遡れば遡るほどに歴史の事実とはその意味が曖昧になるものです。

史実の書物を残すのも大切ですがそれよりも行動をしてその想いを残すほうが遥かに大切なことなのです。そしてわれわれが行うひと助けで未来を変えるのです。でもひとりのチカラではどうにもなりません。だからこそより多くのひとがこころの成長をさせることによって未来を変えてゆくのです。

われわれは何百年単位かで大きな因果を繰り返しています。いまを知ることで過去に気づき、そして過去を知ることで未来のために何をすべきかがわかるのです。
それは先人たちである、あなたを守る神さまに感謝の気持ちを伝えて、先人たちの想いを未来につなげることです。そしてその先人たちの想いをつなげることは未来のひとたちへのひと助けなのです。

転生を繰り返している過去の自分(こころ)に気づき、先人たちであるあなたを守る神さまの想いを知り、その想いを未来のひとへつなぐことが未来のひとに対するひと助けとなるのです。それはあなたが次に転生をする未来の己が自身(こころ)のためへのひと助けでもあるのです。過去の己(こころ)が未来の自身(こころ)に想いをつなげることを繰り返しているのです。


その先の扉 (その2)

水面に映るご神木のあり様
第一章 つながりとは

前回の「はじまりの書」の後半で自然に宿るこころとは「無」に限りなく近い神さま(こころ)であると伝えています。そしてはじまりの書の「はじまり」とはこころのあり様次第で役割・志に気づくことを「はじまり」としています。

因果を知る(因果を消す)、ひと助けをする(役割、志を知る)、無に近づく(自然に近づく)、これらはこころを成長させる段階においてとても必要なことです。
「はじまりの書」であなたを守る神さまはあなたよりも一歩先を歩く神さまと伝えています。

多くのひとがこころを成長させれば、われわれそれぞれを守る神さまもまた更に成長をします。そして相乗的にこの現世にあるこころ全体がボトムアップされるのです。その結果で輪廻全体を巻き込んで多くのこころの成長が飛躍的に加速されるのです。

われわれは未来のためにいま過去について気づかなければなりません。過去を知ることで未来のためになにができるのかということです。まずは10年、20年先のこの現世のためにいまの10代、20代のひとたちに何を伝え、そしていまの子供たちになにを教えることができるのかということです。その積み重ねが更なる先の未来へとつながるのです。

同じようにしてこれから積み重ねる信念、役割の行動は何百年後かのひとのため、そして何千年後かのこの現世のために大切なこととなるのです。これがつながりというものです。過去からのつながりだけでなく、未来へのつながりのためにいま行動をしてこころを成長させることが必要なのです。

このことも過去のひとたちが教えてくれています。幾千年もの前のひとたちのつながりでいまも教えてくれていることなのです。それがどこからがはじまりであったのかはそれぞれのこころのあり様次第なのです。

はじまりとはこころのあり様次第でそれぞれに違います。そしてそのはじまりとは未来のひとを助ける行動をすることがはじまりでもあるのです。そして先人たちの想いはいまも自然を中心に至るところに語り継がれています。

ひとつの例としてわかりやすく伝えるのであれば、最近では昭和の戦中、戦後のひとたちをイメージしてください。その当時は物資がなく、食べ物すらない時代です。ただそんな時代だからこそひとは辛抱強く、忍耐強いひとたちがたくさんいました。この辛抱強く、忍耐強いとは欲が少ないということでその結果この時代のひとたちは互いに助け合うなどして因果の少ないひとたちが多かったのです。

そして更に過去を遡ればこのような時代は幾世代にも限りなくあり、ただ同じことを繰り返してきているのです。何もできずに辛抱強く、忍耐強く生きるひとたちにとっては戦いを終わらせてくれるひと、または平和を導いてくれるひとに対して感謝の気持ちとともに神さまと崇めてきているのです。

それは戦中・戦後だけでなく天災もしかり、また地方においては身分の違いで抑圧された環境に生きたひとたちなどすべてが辛抱強く、忍耐強くに因果の少ないひとたちであったとも言えるのです。

われわれはそのひとたちの想いを知り、いまその役割に気づき、何百年後かのひとたちのために、何千年後かのこの現世のためにいま役割に気づき尽くしてゆかなければならないのです。

今度は前述とは違い更に遡った先人たちのその想いの例をお伝えいたします。
山を登拝するたびに思うのですがはるか古のひとたちは後人のひとたちに山を登りやすくするために、草木を分けて地面を踏み鳴らしては路を創り、そしてさらに危険な場所にはけがをしないようにと階段を付けて登りやすくするなどして、後人のひとたちへの安全を願う気持ちを込めて道を造ってきているのです。

いまも残るその登山道は何十年、何百年と想いをつないできた歴史があるのです。このような歴史を知ることは神社や寺院、祭祀の場所だけではありません。こんな身近にも過去のひとの想いが詰まっている場所があるのです。

わたしはただひたすらにその想いをつなぐ気持ちに対して感謝の気持ちを込めて登拝しています。だからこんな険しい路(道)でも楽に登れるのだと、けがをすることもなく登ることができるのだと・・・

このようにして先人のひとたちが歩んできた行動・行為は後人のわれわれにさまざまに教えてくれているのです。

われわれはまず、そのことに気づくことが先人たちに対する感謝の気持ちによる恩返しなのです。ただの山路でも数人の想いが数十年の時を経て、更には数千人にのぼりその間にもその想いは語り継がれ、壊れたら造りなおして、滑りそうであれば岩を砕いて歩きやすくするなどして数千年後には数十万人ものひとたちがその道を通れるようにしてくれているのです。

山路ひとつをとっても長い歴史を経ての先人たちの想いが詰まっているのです。そしてその間に絶えずそれを観てきた自然に宿る神さまたちはずっと見守ってくれているのです。

それは登山道だけに限らずにいまの国道、県道などもそうです。先人たちがずっと歩んできた道なのです。そしてその道を維持するひとたちの努力があってこそのいまがあることを決して忘れてはいけないのです。当たり前のことがどれほど大切なことかについて気づいてください。

このようにして先人たちの想い(後人たちへのやさしさ)はさまざまにあり、語り継がれてきているのです。これも先人たちのわれわれに対するひと助けです。

自然に触れるとこのようなことも気づかせてくれるものです。

その先の扉 (その1)

水面に映るご神木のあり様

まえがき

「その先の扉」とはこころの成長における過程の一端をお伝えするものです。最近ブログで「己が自身」というテーマでカテゴリーに「神さまはいない」とした解釈でのこころのあり様、つまり神さまという言葉使わずに神さまを信じない方にも対象とした言葉を書き綴っています。神さまを信じる、信じないなどその考え方も千差万別であり自由意志です。

わたしの書き物はひとの精神的な成長、いわゆる「こころの成長」を促しているものです。そこに「神さま」という言葉を使っていますがわたしが伝える神さまとは荒唐無稽の存在ではなく先人(祖人)たちのことを示しているものです。

そしてこの身体は先人たちからのつながりのある器として「こころ」を宿しているのです。「こころ」とはその成長度合い(こころのあり様)によってさまざまにその意識が存在しています。

この身体になぜ感謝をしなければならないのか、それは先人たちからつながる想いが情報として遺伝子に蓄積されていることや、脳には潜在意識として記憶がされているなどそれだけに尊い身体であるということなのです。

そしてわれわれが神さまとしている先人たちは何度も転生を繰り返してはこころを成長させているので、そのこころのあり様は限りなく「無」に近いものです。もちろん先人たちのこころのあり様もさまざまにあり、先人たちもまた信念・志の役割に尽くしてこころを成長させているのです。

転生をするときにそれまでの記憶はすべて「無」となりますが、その「無」となった記憶はこころの潜在意識にもあるものです。顕在意識は脳が判断をしていますが、こころにある潜在意識ではあなた自身が転生前の先人であった時の記憶が残されているのです。いわゆるあなたの前世についてのことなどです。そして「因果」もまたこころを成長させるために引き継がれているので、その「因果」を知ればおのずと過去の自身にも触れることができます。

少し整理しましょう。脳にある潜在意識とは過去からつながる身体がそれぞれに行動をしてきた記憶です。その時、そのときの身体にはさまざまこころが宿っておりましたがいまのあなたのこころとは関係ありません。またこころにある潜在意識とはあなた(こころ)が過去に転生をして身体に宿っていた時のこころのあり様の記憶のことです。

古代のひとが行っていた祭祀については現存する発掘された遺跡の年代を調べてみればBC3000年~BC2000年頃の縄文時代からがはじまりであるとわかりそこには遺跡も残されています。一説にはBC5000年頃とも言われていますが、その頃からすでに故人を敬うという行為が祭祀として行われてきているのです。

われわれはどうしても名が残る先人たちに気が惹かれてしまいますが、名がわからずとも高い志を掲げ役割としての行動をされてきた方はたくさんいます。その先人たちすべての方に対しても感謝の気持ちを伝えなければなりません。

この「その先の扉」とはその先人たちの想いの一部をみなさまにお伝えができればと思いで書き綴りました。

どうぞご覧ください。


その先の扉~目次

まえがき
目次
第一章 つながりとは
第二章 未来のために
第三章 行動すること
第四章 生きる理由
第五章 それぞれの考え
第六章 それぞれの想い
第七章 その先の扉
第八章 自然のままに
あとがき