- 常世には
時間という
概念はありません
また
こころに
男性・女性という
概念もありません
月: 2023年8月
真ん中の編 (その10)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
あとがき
万物はすべてに意志があります。自然に咲く花は生まれてから花開き、命が終えるまでの一連の行動自体が意志で在るということです。同じようにひとは生まれ、いのち尽きるまで、それ自体が意志であるということです
意志を持って生まれ、意志のままに生きて、いのち尽きるのです。あなたの意志を意識してください。あなたの意志を、あなたが生きる理由に気付いてください。あなたは意志をもって生まれてきているのです
生きているもの、いのちあるものはすべてに意志があります。その存在自体が意志であるということです。自然に生きる木々や草に至るまでそれぞれに意志がありそこに在るのです。
そして過去に生きていたひとの言葉や行動にも意志が在るのです
意志とは言葉であり、行動であり、生命そのものであるということです。そして意志は過去と未来をつなぎ言葉として、行動としてさまざまに在るということです
ひとはこころが放つ言葉(「志」)を理解すると、欲のままに高ぶる感情は落ち着き、容易に制御することができるようになります。言葉とは意志のことでもあります。感情を制御することはすなわち欲を思いのままに抑制することができるということです。言葉は意志でありそれが言霊と呼ばれる所以です
あなたが放つ「志」の言葉自体が意志であることを常に意識をしてください。その言葉は祝詞や念仏など多々ありますが、その言葉に囚われることはありません。あなたの大切な言葉を発すればそれでよいのです。その代表的な例が「志」の言葉です
ただ「志」もまだ決められないのであれば「志」の根本である「ひとを助ける」、「命あるものを助ける」など自分がそうしたい、自分が楽しくなる言葉であれば何でも構いません。その言葉自体が意志で在るのです
感情は因果、強欲の意志であり、こころは良い因果、摂理、「志」の意志があるのです。これらは互いに引き寄せ合いもともとはひとつの意志で在ったということです。真ん中とは中心という場所のことだけでなく、あの世もこの世界も含めて万物すべてはひとつでありその真ん中にただひとつあなたの意志が在るということです
真ん中の編 (その9)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第八章 意志のあり様
われわれが気付くべきことは、こころはあなた自身が感情によってつくった因果に気づかせてくれたことに感謝をして、ひたすらに反省をすることで、その因果は良い因果へと変わります。自然のままにある良い因果は、意志としてただそこに在るだけです
自然のままにある良い因果をわかりやすく伝えるのであれば、それは「命あるものを助けること」であり、互いの意志が助け合う行為、それが良い因果です
こころは感情を制御して意志のままにあり、それを支えるのが「志」の言葉です。その言葉はこころを更に強くしてどんなときでも感情に負けないこころつくりだします
こころや良い因果、摂理(自然の法則)、そして「志(言葉)」は意志そのものです。そして同時に感情や強欲、因果もまたそれ自体が意志であるということです
ひとはこの先、どの方向に進んでゆくのでしょうか。こころは感情に支配されるのか、またはこころが感情を制御するのか・・・でもそうした左の考えかた、右側なのかを選択をすることではありません
こころにとってひとが持つ多彩な感情の享受はとても大切ですし、感情は「志」の言葉をつくりこころがこの世界を少しでも良い方向へ導くことに役立っているのです。そしてひとはそれぞれのこころのあり様でこの世界を地獄であったり、天国であったりとさまざまな世界を創り出しています
ひとの社会は法を基準にこの世界を創り出しています。そしてその中でさらに個々のひとたちは自身の「正しい」と「間違い」を基準にそれぞれが独自の世界を創り出しています。その「正しい」も「間違い」もこころのあり様次第でそれぞれに解釈は違います
このようにして互いの意志において分け隔てた考えかたは比較としてわかりやすいものですが、例えば陰陽とは善悪のことではありません。互いを必要とする「感情とこころ」のような関係のことをいいます
そして大切なことはあなたの感情の良い部分と、こころの良い部分が互いに助け合うことが何よりも大切であり必要なのです。あなたひとりがこの世界をどうにかしようとすることではありません
ひとりひとりがそのことを意識すればただそれだけでよいのです。このようにして本来は感情とこころが互いに助け合ってひとつになることが答えです
良いも悪いもその意志は常にその真ん中(ひとつ)にあることを教えてくれているのです
真ん中の編 (その8)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第七章 理性(こころ)~その2
理性とはこころであること、そのことを理解できましたでしょうか。そして理性と会話をすることができたでしょうか。ではこんどはまた別の角度から理性(こころ)をお伝えできればと思います・・・
それではあなた自身の良くないこといくつか挙げてみてください・・・
実はいまそれを考えているのは感情ではなく理性が中心となって自身の悪いことをいくつか挙げているのです。自身の理性に間違いはありません。でも感情は平気で自身に嘘をつきますが理性は決してうそはつきません
あなたの中に在る理性は絶対です。もし少しでも自身の理性を疑うのであればそれはあなたの感情が、あなたの欲がうそをついて理性の言葉を邪魔しているのです
どれが本当なのか、何が正しいのか、と不安になることもあるでしょう。一度整理をしてみましょう・・・
感情で考えるのが意思で、理性で考えているのが意志です
いまあなたが強欲のことを考えいているならば、それは「違う」と意識を示していることがあなたの理性です。強欲とはひとのこころを傷つけることです。でもその行動を否定する意識こそが理性です
もしあなたがひとにうそをつき騙してお金を得ようとすれば、それはやってはダメですよといる理性が必ず働きます。それをやってはダメですよという声が必ず聞こえてくるはずです
大抵はその理性が感情のままの行動を止める働きをするのですが、ひとはそれを振り切ってでも欲を求めてしまうのです
通常では感情(欲)のままに考えていることに理性が歯止めをかけている状態が普通の状態です。こころは常に感情を制御できるようにしているのです。
そしてこころを強くする源泉が「志」であり、こころを支えるのもまた「志」であるのですその「志」の根本は「ひとを助ける」ことです。ひとを助けることとは、意志とは、良い因果とは、自然の法則とは何かというその気付きを伝えてあげることが「ひと助け」で在るのです
真ん中の編 (その7)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第六章 理性(こころ)~その1
ひとに在る感情とこころについてもう一度お伝えします。感情とは本能から生まれた喜怒哀楽を代表とした意識です。そしてこころとは意志のことです。その意志とは「志」でもあり自然のままにただ在るということです
こころは「理性」として表現をするのがわかりやすいと思います。感情のままひとに迷惑をかけるような行為をしようとすれば、それに歯止めをかける役割をするの理性です
あなたの意識には強欲に近い感情のままに行動をしようとすれば、必ず「それはひとに迷惑がかかるからやってはダメですよ」という意識があるはずです。その理性が強いか弱いかの違いがあるだけです
感情である意識はその理性ともっとたくさんの会話をしてほしいのです。そのいつも一緒にいる理性と仲良く、楽しく会話をしてください。これはだれにでもできることです。その行動をする・しない、している・していないがあなたが一番最初に始める第一歩です
そのあなたの理性と「何故なぜ質問」の会話をしてください。途中でわからなくなればその言葉をWEBで検索したり、本を読むなりして、その会話を続けてください。そして考えかたや答えは決してひとつではありません。あなたがしっくりとする感じの言葉、行為を大切にしてください。もちろん途中で変えても構いません。大切なことは常にあなたの理性と会話をすることです
これは素直であればあるほどに、または素直になろうとすればするほどにその会話は続いてゆきます。親がこどもに良く伝える教えのひとつに「ひとに迷惑をかけてはいけません」とありますがその意味は「ひとのこころを傷つけてはいけません」ということです。
親からこどもへと、育ててくれたひとからこどもへと教える言葉、伝わる言葉は言霊です。その言葉自体が意志であるのです。意志とは行動であり、行為のことです。その行動とは自然の法則である行動を指し、その法則とはただ自然のままに在るということです
以前にお伝えしたお花の「意志」を思い出してください。それが自然の法則です。感情は大切ですが、でも感情を制御する理性がもっと大切なのです。その理性(こころ)と仲良くすることができればこの世をもっと楽しむことができます
真ん中の編 (その6)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第五章 感情とこころ~その2
(前章からのつづき)
ひとの高ぶる感情を抑制するのは理性です。そして理性もまたこころのことであるのです。理性の在り方もまた育った環境次第でさまざまにあるのです
こころとは意志のことであり、意志とは良い因果のことであり、良い因果とは自然の法則のことです
ひとの役割である「助ける」とはこころの役割のです。だから「助ける」とはひとの「感情」を慰めてあげることではなく、「こころ」を助けるということです。こころを助けるとはこころに意志や良い因果や摂理を気付かせてあげるということです
いまあなたが感じていることのほとんどは感情の意識です。いま見ることも、書くことも、考えていることもあなたの意思(感情)で考えていることです。ではこころはどこにあるのでしょうか・・・
もう一度伝えますがこころとは「意志」のことです。その意志とは「志」のことです。別の伝えかたをすればその意志とは、「志」とは、その言葉(言霊)のことを指しているのです。その言葉自体が意志であり言葉を放つことが「志」でもあるのです
でもそれはこの世で、ひとであるから成せることです。この世では身体があって言葉があるためわかりやすいのですが、この身体もなくこころだけになったら意志とは「志」とはどこにあるのでしょうか。以前にあの世もこの世にあるとした考えを伝えています
それは実体のない意志であるあなたのこころは、「志」とは、自然のままにただ在ることが「意思」であり「志」であるということです。そしてひと以外の自然に生きているものそれぞれが意志であり「志」であり「こころ」であるということと同じです。あなたの「志」がただそこに在るというだけです。
前章でお花の意志を例え伝えましたがそのお花の生きる様、それ自体が自然のままに在り、意志であり、「志」であり、こころであり、その行動が良い因果であるのです。そのこころである意志とは必ずそこにあるのです
それがあの世とはこの世にあるということです。この世も、あの世もひとつの世界でありすべては「こころ(意志)」はそこに在るということです
真ん中の編 (その5)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第四章 感情とこころ~その1
こころ、意志、良い因果がすべて同じ意味であることは先に述べた通りですが、それは自然の法則(摂理)のすべてに関わる言葉や行為が同じ意味であるということです。そして自然の法則もさまざまにあるのです。次に記す文章は以前より伝えている自然の法則の一例です
花はただ花を咲かせるため一生懸命に生きています。そして花開くと昆虫が蜜を求めて集まります。そして花はその昆虫に花粉を運ばせて受粉をしてもらい次の花へと生命をつなげています。それは花を咲かせるためにただ純粋に、他の生きものと互いに助け合い、そして次の命へとつなげる姿はそれ自体が意志であり良い因果そのものであるのです
ひと以外の生きるものはみな「生きること」、それ自体が意志であるのです。ひとも本来はただ「生きること」だけに、あるがままであったひとはあまりにも摂理からかけ離れてしまったのです。自然の一部であることを忘れてしまっているのです
その原因にあるのがひとの感情から生まれる強欲です。こころはひとが感情のまま欲を満たそうとする行為に慣れてしまうことで本来のこころの意志に気が付かなくなってしまっているのです
でも欲が悪いのではありません。強欲がいけないのです。こころが強欲に振り回されて感情を上手に制御できなくなってしまった結果です。欲のままであったほうがこころは居心地が良いと慣れてしまった結果なのです
このようにひとの本能から生まれた感情(意思)と身体に宿るこころ(意志)があることをまずは理解をしなければなりません
感情も純粋に喜怒哀楽の表現であればよいのですが感情は欲に変り、やがてその欲は際限のない強欲となりこころを操るのです
こころは本来意志のままにあるものですが感情とともに在ることで強欲へと意識が変わってゆくということです
これが感情とこころの相関関係です
つづく
真ん中の編 (その4)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第三章 あなたにとって・・・
あの世とはこの世界の反対側に在ります。それはちょうどこの世を映す鏡があの世であること言っているのです。それは水鏡も同じです。この世で水鏡に映る世界があの世であるとしているのです。鏡とはあの世とこの世をつなぐ境界面としてあるのです
そしてこの世ではあなたのこころに映る鏡はあの世を映し、あの世で、こころはこの世界を映す鏡であるのです
あの世のある場所が大切なのではありません。あの世とした世界があるということを知ることが大切なのです。あの世があることは宇宙の彼方を知ることと同じです。こころが存在するための仕組みとして在るだけです
以前にあの世について記していますがそれ以上を知ったところでどうというわけでもありません。それほど深掘りをする必要もないのではないかと思っています
この世があの世とつながっているからあの世について触れているだけです。そしてあの世における世界を創っている仏の思想は面白い考えかたです。この世を知るためにあえてあの世を創り出している世界観はとても大切なことと思います
なんどでもお伝えしますがみなさまにはみなさまそれぞれの~らしさである世界観があってよいのです。またそうであらねばならないのです
もちろんだれかの考えに寄り添うことや、仏の考えかたに共鳴すること、さまざまな教えから派生したあなた自身の考えかたがあることなどさまざまにあることが大切なのです
辿り着く場所は一緒です。でもその方法が大切なのです。その方法が~らしさであり、困難でもあるからこそのこころの成長であるのです。その方法に優劣など関係ありません。気付きを知ることに早い、遅いもありません
先人のかたたちが、先に気づいたから後世のひとに教えてくれているだけです。今度はあなたがその先人のひとになればそれでよいだけです
意志をもてば、あとは自然のままで良いのです
こころを知れば「志」のままにあればそれでよいのです
因果に気付けば良い因果に逢うことができるということです
真ん中の編 (その3)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第二章 真ん中
以前に真ん中とは、ものごとの考えかたはひとそれぞれに左側と右側があってそれでも考えかたは常に真ん中でなければならないと記してきています。でもその究極には左側と右側とした二次元の平面ではなく、球体とした円の中心であるということを想像してみてください
その考えかたとは左右だけでなく全方位からの中心であるとした考えかたをしなければならないということです。きっとその球体を地球とイメージするかたもいるのではないでしょうか・・・
中心という漢字は読んで字のごとく、こころの中に在るということです。それはこころのあり様は常にさまざまな事象に対して中心に在るということです
ではこころの中心とは何でしょうか。こころとは意思であり、良い因果であるとした意識については前回の「こころと意志と良い因果」で記した通りです。でもその中心とはどのようにイメージしたらよいでしょうか
こころの中心にある考えかたというのは場所を言うのではなく考えかたの基本となる判断についてのことを指しています。その真ん中であることを示すためにひとは感情を中心とした考えかたをするのではなく、こころを中心とした考えかたをしなければならないということです
それはあなたが「~らしさ」で掲げる「志」こそがあなたのこころの中心であり、あなたの思考の源泉にして、すべてであるということです
「因果はひとの強欲である感情によってこころを支配して生まれるものです」
「良い因果(こころ)とはこころの真ん中にある「志」によってひとの感情を支配してあなたらしさで物事を判断する意志であることです」
感情で考える「意思」ではなく、こころで考える「意志」こそがひとのあり様を変えることができるのです
真ん中の編 (その2)
右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第一章 する側とされる側
以前にもお知らせをしましたがひとの社会において引き起こされる事件、事故での被害者となるひとについてそれは偶然ではなくすべてが必然であるのです。そして被害者となる、ならないの違いは被害者自身の因果によるものなのです
被害者となるひと(される側のひと)は前世でひとを殺めてきた経験をしており、加害者となるひと(する側のひと)は、逆に過去でひとに殺められた経験をしています。このようにする側(加害者)とされる側(被害者)は互いに同じことをしている因果でつながっているということです
ひとの感情から生まれた強欲はひとのこころを傷つける行為を繰り返してきているのです
「する側」と「される側」は表裏一体です。する側もされる側も現在、過去とその行動は強欲のままにこころの闇に支配されて相手のこころを傷つけ、傷つけられてきているのです
「する側」は過去に「される側」としての憎しみの感情が心地よく、「される側」は過去に自身が「する側」として強欲の感情をいまもそののままに携えており「する側」の感情を引き寄せているのです
そして実際に被害者となってもその因果に気が付いていないため、なぜ自分だけが被害者になったのかと悩み続けるのです
ひとのこころを傷つける因果には「する側」と「される側」での引き寄せの法則としてある種のグループのような存在があり、それは相手のこころが傷つく深さによってさまざまにあるのです
被害者となるかたのほとんどは自身の因果に気付いておらずに成す術もないままに「必然」として巻き込まれてしまうのです。そして本人はなぜ自分が被害者となったのかをわからずにこころは彷徨うのです
そして被害者を知る周りのひとはなぜあんなに良いひとが・・・として悔やまれるのですがその被害者となった原因であるこころの闇にはどんなに身近なひとでも気が付かないのです。なにせ本人すらも気付いていない場合もあるのですから・・・
因果に気が付くことはこれまでずっと伝えてきている通りです。簡単に言えばこころは素直であり、相手に感謝の気持ちを常に忘れないこと、そしてすべては理由があっての必然であることを理解しなければならないのです
ひとである以上は大小の違いはあれど必ず何かしらの因果を抱えています。だからこそ、ひとで在るのです