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- こころの成長とは
あなたにとって
新しい性質が
具わる(そなわる)
ということです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
あとがき
比較対象をした考えかたはわかりやすいたとえ話です。代表的な例としてある「善」と「悪」、ただ本来は二極対象ではなく「善」の中に「悪」があるということです。それはあくまでも「善」を成長させるために「悪」があるということだけです
そして同じように理解するにあたりこころの中にこの世もあの世もあるということが挙げられます
こころの中にあるこの世はあなた次第の人生の世界です、そしてあの世もまたあなたが想像をしているだけの世界です。こころの中にある世界はそれぞれのこころのあり様でつくられている世界です
あなたはこの世を地獄と感じるのか、そうでないのか、たとえこの世であってもこころないひとにとっては空虚の世界のように感じているなど・・・みなさまが感じるこの世界はさまざまにあるでしょう
脳の進化やひとの社会の発達などどうでもよいということです。もちろん便利になることは良いことかもしれませんが本質はまた違います。そして本来はこの世を地獄と感じようが天国と感じるもこころのあり様次第であるだけです。ただ感じることのすべてはこころの成長のためにあるということです
そのことに気づいている、そうでないとは天と地ほどの考え方に開きがあります。またわたしの言うこころないひととはこころに気付いていないひとのことを云います。そしてひとをあざむき、憎しみ、傷つけ、殺めるようなひとはこころがないのではなく、強欲の意識に支配されて「こころ」を見失っているだけです。こころとは誰にでもでもかならずあるものです
もちろんわれわれが使う言葉によるこころないとは思いやりがないという表現で使うことが多いです。それはもともとこころとはやさしさを表現するものであるからです
われわれが生きる理由とはこころの成長であり、そのためにすべてが在るのです。そしてその教えは自然から多くの学びであるということです
これまでもその自然からの教えはさまざまに記載をしてきましたが、たとえば空を見るのが好きなひと、雲が好きなひとは、いつも顔を上げていないさいと天が教えてくれていことなど、ささいなことでも自然からの教えはあるのです
こころ穏やかに、謙虚であればあるほどに自然からの教えに気づくことができるのです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第八章 摂理(自然の法則)
大木が何百年、何千年と生き永らえているのは絶えず新芽を成長させているからです。大木の至る所にある枝の片隅で新芽は生きながらえます。そしてその新芽もやがては大きな枝となり新たな新芽を生み出すのです
自然は成長するだけです。その生き方は大木がわれわれの小さなこころである新芽を成長させていることとまったく同じです。さまざまにこころを成長させているのです。大木は大地から教えという栄養を授かり新芽といい「こころを成長させて」大木となります。それがこころ(自然)の摂理というものです
ただこの自然にはどうしもなくてはならなくい欠かせないものが太陽なのです。太陽があるから自然が成り立つことはすでにみなさまはご存知です。だからこそ古より世界中のひとたちは太陽を神さまと崇めてきているのです
ひとである脳の進化は成長を続けてきておりとくに科学の分野では目覚ましい進歩を遂げていますが、それでも脳にある未使用領域や遺伝子の解明など未知な部分がまだまだおおくあり、とても自然を追い越すことなどはできません
ただ追い抜く必要すらないのかもしれません。それはひとの役割ではないということです。ひとはあくまでも自然の一部であり「こころの成長」という役割があるということだけです
こどものころにみなさまはどうして空や海が青いのか不思議に思ったことはないでしょうか。空が青いのも、海が青いのもなぜ青いのか・・・もちろんすでに解明されていますがたとえ科学がなくとも、たとえその理由がわからなくてひとが生きるのに困ることはありません。ただ「青い」と意識しているだけです。さらにはたとえ色の認識がなくてもそこに海が在るとした認識はあります。ただそれだけでよいのかもしれません
極論ですがひとは脳の進化など必要ないのかもしれません。どうでもよいのかもしれません。それらはたまたまひとの社会における副産物でしかないということです
脳の進化とは欲の追求であるからです。脳の進化とはひとの役割ではありません。ひとの役割はこころの成長のために在るということなのです
そしてひとはこころの鏡であるということです。その鏡(ひと)はこころに対してこの世を地獄のように見せることもあれば、鏡(ひと)はこころを神さまのようにも映しだすこともあるのです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第七章 脳の進化
この先についてはどのようになるのでしょうか。この先とは100年後以降の話です。自然とひとの世界における大局的な動向については道理である自然のあるがままであることには変わりありません。ただひとがその環境に適合できるかどうかだけであり、それが異常気象であるのか地震などの天変地異であるのかはわかりません
ただひとには自然を解明する科学があります。この先も自然のあるがままであることには変わりませんが、ひともそれなりの進化を遂げてきており万物に至るまで変えようとしていきています。でもそれはすこし度を越えて自然にも害を及ぼすようになっていることも事実です
AIやクローン技術を活用して人工的な生態系さえも創ることが可能となっています。これらは自然とはかけ離れたものでひとはそこまでのチカラをかざすようになってきています。そしてひとはこの先どこへ向かうのでしょうか
ひとにある脳の進化とは物資の進化であり欲の追求です。確かに生活は便利になりましたがそれはひとの社会においての話です。ひとがただ生きるということについては別にいまも昔もなにも困りません。逆に因果の頻度が多くなり未熟な魂が多くなっていることも事実です。あくまでもひとの進化はひとの都合でこの社会が必要だとしているだけです
でもこころの成長は精神の進化です。これまでこころの成長ばかりに意識をしていましたがそれと同時に脳の進化にも目を向けた時にひとはこころの成長と共にあらんことが容易に想像できるのです
こころの成長が脳の進化に追い付かずに創造と破壊を繰り返してきているのです
脳の進化をこころの成長によって制御できる日がくるのでしょうか・・・こころの成長において「気づき」の先にあるひとの未来の姿とは・・・
脳の進化とはいわゆる技術的な発達に代表されるものですが根本的にはひとの本能から生ずるさまざまな欲望の追求です。そしてそれを正すのは「こころ」の役割であるということです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第六章 こころの中にあるあの世
あの世とは精神世界です。その世界であなたはこころのあり様次第でこの世で体験をした五感で想像しているだけの世界です。精神世界であるがゆえ、その想像もこころのあり様次第でさまざまに想像することができるということです
感覚的には夢を見ているといった感覚です。夢の中では自分の身体はありません。でも確かに見ているという感覚はあります。それはただ意識が想像をしているだけなのです
それはこの世で体感をした五感のイメージがそうさせているだけです。あの世の感覚とはこの世でずっと寝ていて永遠に覚めない夢を見ているような感覚であるということです
以前より伝えている通りこの世もあの世もあなたのこころの一部であるということです。こころのあり様次第でいまのこの世界があるということです
この世があるからあの世が理解できるのです。そしてあの世があるからこの世が存在しているのです。この世もあの世もこころの成長のためにあるということで、どちらか片方だけでは決して成立しない世界であるということです
このようにしてすべてはこころを成長させるためにこの世からあの世へは意識ある記憶はすべて引き継がれるのです。そして本当にこころが成長したのかどうかを確かめるために次にあの世からこの世へと転生をするときには意識ある記憶はすべてを消されてからまたこの世に転生をするということです
これを繰り返すのがこころの成長です。ひととしての経験はこころが成長するためのひとつの過程であるということです
いまはひとに宿りこの世にいるからどうしてもこの世が中心としたお話の仕方をしてしまうのですが前述から伝えているようにあなたがいま生きている世界(この世)もあの世である世界もあなたのこころの中にあるものです
このようなイメージを常に意識していると次第にすべてはこころが中心であることがわかるようになります
こころ(魂)の成長がすべてであることに気がつくのです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第五章 悪魔とは
この世を天国と感じるのか地獄と感じるのかはひとそれぞれでしょう。こころの痛みをしるほどにこの世は地獄と感じるでしょうし、未熟であればあるほどに欲のままのあり様として天国と感じるものです。みなさまのこころにはこの世がどのように映っているでしょうか。地獄でもあり天国でもあると気づいているひとはどれだけいるのでしょうか・・・
邪悪な魂の存在にとってはこの世は天国でしかたないのです。なんでも思いが叶うことができるのですから当然です。ひとの念とはその想いが強ければ強いほどにチカラが増します。そしてその悪い念はそのチカラを利用してひとの魂を操ろうとするのです
悪い念の源泉のほとんどは欲望です。そのために身体に宿る既存の魂を「騙し」、そして「操り」、自らの欲を満たそうとするのです
鬼や悪魔は良い因果から離れた強欲によってつくられた因果の慣れの果てです。因果が因果を呼び、憎しみ、強欲などを増幅させた意識であり。本来のこころから遠く離れた存在であるのです
たとえばもしあなたが慈悲(慈愛)のこころをもって鬼や悪魔と呼ばれる「魂」を助けようとする役割にありその「意志」をもって行うことをしてもチカラ至らず逆にその身がボロボロにされ、逆にあなた自身のこころが取り込まれてしまうでしょう。でもその「意志」を諦めさえしなければ、またあの世からこの世の鬼や悪魔を助けてあげればよいのです
あの世は無限です。しつこいと言われようが何と言われようがそれがあなたの「志」であるならば相手が気つくまで助けてあげればよいのです。どちらの信念・「志」が強いかそれだけの違いです
あなたのこころの中にあるこの世に棲む鬼や悪魔は因果ということを理解していません。もともとは因果から生まれたものたちです。善のことを忘れてしまったわけではありません。強欲のあまりに気付かなくなっているだけです
善である慈愛(慈悲)のこころで邪悪なものに対して道理を理解してもらえるようにすれば良いだけなのです。それが因果であることを教えてあげることが大切なのです
その役割あるものは絶えず繰り返すだけでいつか気づいてくれるまでひたすらに続けるのです。このひとを助けるという「行い」は因果を理解したものだけができる行動です
気づいているでしょうか・・・その「行い」をしようとする「こころ」こそがあなたのことを守るあなたの一歩先を歩く神さま(こころ)であるということです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第四章 こころのあり様
そのむかし地域によって障がいのあるひとは忌み子として村の離れに置き去りにされたり、先祖の祟りなどと言われては疎外され、その現実を直視しないようにしてきました。その名残からなのか障がいのあるひとを別者としてこころから受け入れるひとが少なくなっていることも事実です・・・
事実として受け入れるためには・・・障がいのあるひとはその子を大切に育ててくれる親の元で必ず生まれてくるのです。障がいのあるひとに宿るこころたちはその身体、自らをもってひとに教えを伝えるためとした役割を担っているだけです。われわれはそれほどに障がいのあるひとから学ぶべきことが多いということです
もしあなたが障がいのあるひとだったらと・・・、こどもが障がいのある子であったらと考えたことがあるでしょうか。当事者である場合、支える立場の場合、または通行中にいつも目にしている光景であったりと、あなたの目の前に現れる出来事や光景はあなたにとって学ぶべきこととして起きているということを理解してください
それはあなたに「こころ」があるからこそ気づかされるのです。その器(身体)が障がいがあるだけの話です。障がいのあるひとに宿る「こころ」はあなたのことをよく見ていることを忘れないでください
そして目を背けようとするわれわれが普通でないのです。その存在自体が「普通」である傷害のあるひとたちに対して「普通でない」われわれにさまざまな教えを授けるために存在していることを理解しなければなりません
その地域によってものの見かた、考えかた、感じかたはさまざまにあります。でもそれはたとえ龍神さまであっても例外ではなく西洋では邪悪の象徴であることと同じです
障がいのあるひとを忌み子とすればあなた自身、因果を繰り返し、こころの未熟さを教えてくれるひとだと気がつけばあなたはさらにこころを成長させることができるのです
どんなに耐え難い環境であってもそれはあなたにとって必要だからこその出来事です。それを受け入れる覚悟さえあれば、あなたが耐え難いとする環境などは今後あなたに起きることはありません
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第三章 こころないひと
待ちを歩いているホームレスのひろをみると大体のひとが目に生気が感じられません。もちろん一般のひとでも生気がまるでないひともおられますが・・・こころ感じられずに脳の思考を停止しているからこころとの葛藤がないのです
生気とはこころとの葛藤です。そもそもが「こころ」の存在すら気づいていないのでしょう。これはある意味でただ生きることを目的とした本能によるものだけです
たとえば手入れがされていない神社に神さまは宿りません。そのことと同じです。こころが宿る器(身体)がすさんでゆくとこころもその存在も弱くなります。身体が存在する以上はこころが身体から離れることはありませんが、これはこころはあって無いようなこととなるのです。それはこころに気づいていないということです
でも老人や痴ほうのかたなど一般的な会話が成り立たなくなってしまっているひと、または障がい者のひとでもこころを宿しています
こころは無いようでも、実はこころははっきりと自身を見据えているのです
こころないひととはさまざまなあり様がありますが、やはり代表的にはこころないひとの意味とは大抵は思いやりがないひとのこと、つまり思いやりに反した行動をするひとのことを言います
たとえば虐待やこころを傷つける行為、ひとを殺めるなどをするひとのことが例えられるでしょう。邪気によってこころが操られていたりするとこころの存在を感じなくなります
ある意味でこころないひととは逆に「こころがある」ということ、その存在価値を感じさせてくれるのです
これもまたこころを成長させる環境にあるということです。何も考えたくない、何もしたくないという脳の思考を行動すること(会話を含む)に変えて、こころの存在を身体にある意識として気づかせてあげなくてはならないのです
あなたの身体に宿るこころ(魂)は何とかしてあなた(身体~脳で考える意識)にその存在に気づいてほしいだけなのです
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第二章 知ること
それでは前章の続きですが、この世やあの世のことについてそれを知ったところでそれが「何なのでしょうか」という疑問が抱くかたもいると思います。その理由についてお伝えをしたいと思います。あの世やこの世について最近は語ることがなかったので改めてお伝えができればと思います
前回のテーマである「生きる理由」について思い出してください。われわれはただ生きているのではありません。ひとそれぞれに理由があって「生かされている(活かされている)」ということです。あの世からこの世に転生をするときはそれまでの記憶はすべてリセットされます
でもこの世からあの世へと移る世界ではこの世からの記憶は消されずにそのままこころに記憶は残り、あの世(精神世界)での使命としてこころを成長させるのです。この世も、あの世も、どの世界においてもその時のこころのあり様で何をするべきかを学んでゆくのです
こころを成長させるためにあなたの目の前で起きることは必然です。あなたにとって学ぶべきこととして必要だからこその事象であるのです。そしてそのことに気が付かなければ何度も同じことを繰り返します。それはあの世であってもこの世であっての変りはありません
あなたに起きることはすべてが必然であり学びであるのです。その学びをあなたは気が付くかどうかなのです。学ぶことに終わりはありません。そうして学び続けることでこころはひとの思考よりも少しだけその先がわかるようになるのです
あなたはいまを「生きている理由」について理解をしているでしょうか、自分に足りないことが何かをわかっているでしょうか・・・
是非にこころに語り掛けてみてください。「正しいとは何か・・・」あなたが脳で考える思考に対して常に「違うだろ」という声が聞こえてくるはずです
それは自分の思い込みなのか、強がりなのか、そう思いたいだけからくる感情なのか・・・いずれもあなたが脳で考える思考の根本は「欲」であるのでそれを理解すればおのずとこころの声が自然と聞こえてくるでしょう
こころの声とは、あなたの「理性」であると理解するとわかりやすいかもしれません
- あるべき姿~本当の自分とはの編
第一章 すこしだけ深く
こころ(魂)が身体に宿る理由とはこころ(魂)はこの身体に宿りながら、この身体を使って因果を経験しながらこころを成長させているのです
ひとがつくりしこの社会にはみなが共有する秩序があります。われわれはその秩序に準じた物質世界の中で生きていますが、これはひとの進化の過程のひとつです。でもこころ(魂)の考えかたは少し違います
この世も、あの世も、地獄などの想像する世界もすべてこころ(魂)の中にある一部であるということです。だからこの世界もまたこころ(魂)の一部ということです。そしてみながそれぞれにこころ(魂)の中で自由な世界を創っているのです
この世であなたは脳の思考と感情によって、ひととしての人生を送っています。そしてあなたが作り出しているその世界はあなただけの世界です
ただひとの人生とはかならず因果が伴うのです。その因果を経験することでこころは成長しているということです
繰り返しますが「こころ」はこの世でひとの身体に宿ることで因果を経験してこころを成長させます。そしてあの世である精神世界でもまたこの世の因果のイメージを引きずってひたすらに因果によって苦悩するのが普通なのです
未熟なこころはあの世での精神世界を理解できずにこの世のイメージをそのままに引きずって悩み続けるのです
そしてやがて転生するチャンスがかならず訪れます。またはじめからやり直しです。そしてまたこの世であなたはどのような生き方をするのかが問われているのです
因果はこの世界でしか経験することしかできません。物質世界であるからこその因果であるのです
それゆえにこの世は「因果の世界」であると云われるのです
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