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- あるべき姿~生きる理由についての編
あとがき
強さとは身体的に相手と競い合う強さであったり、精神的な強さなどさまざまにあります。そして耐える強さもまた肉体的に、精神的に耐えるという強さなどさまざまあるのです
わたくしごとですが・・・腹筋にチカラを入れて敢えて腹筋が吊るようにすることで、それを我慢することで手っ取り早く筋力を鍛錬していたら、そのまま肉離れとなってしまい1か月間ほど笑うこともできず、咳をすることもできずひたすらにうつむき加減の姿勢で過ごしたこともあります(笑い話です)
または怖い夢をみてひたすらに重い気を受けてそれをかわすためにこちらもチカラを込めて耐えていたら朝起て鏡を見たら右目の血管がほとんど切れて真っ赤になってしまったり、または寝ている時に足の脛が吊ることはとても痛く、ほとぼり冷めるまで歩けなくなるくらいにひたすらその痛みに耐えたりと肉体的強さ、精神的に耐えるという強さにかけてはだいぶ鍛えられたという自信はあります
更に遡れば小学4年生の時は自転車で高速のスピードに怖くなり横転して右足の太ももを30針縫う大けがをしたり、また中学生の頃に腹筋を鍛えすぎて成長期の柔らかい背骨が耐えきれず圧迫されて脊髄分離症になり更に無理をして運動をしていたら下半身不随になる寸前にまでなったりと枚挙にいとまがありません
そして極めつけは20代では深夜にバイクで自損事故を起こして身体だけタクシーの下部に突っ込み腹部を強打して痛みに耐えてうずくまっていましたが、そこから家も近いためそのまま、またバイクに乗って家に帰りましたが横になって休んでいたら痛みで寝ることもできず意識を失いかけて自分で救急車を呼んで病院に運ばれたこともあります。そして結果は脾臓破裂して内出血を起こしていて手術で開腹したら血が溢れ出て血液が足らずぎりぎりで助かったことなどもありました
このように常に痛みに耐えては身体がギリギリの状態であったことはいまも忘れません。別に好き好んで耐えているわけではないのですがそれは結果としてそうであったということ・・・情けない話です
このように過去を思い出すたびに、ひと一倍にいまを生かされていることに感謝の気持ちが絶えないのです。もちろん脾臓破裂の時でさえ搬送されているときに看護師さん輸血が足りません危険です!危険です!と叫んでいてそれをなぜか冷静に聞いているわたしはひとを勝手に殺すなと思っているほどでした。そのうち麻酔で気を失ったのですが・・・。ただこれまで自分が死ぬと思ったことは一度もありませんでした
それで気づいたことがあるのですが強さとはただひたすらに信じていることなんだと・・・それはなにをではなく・・・自分が信じていることを信じるという意志が大切であると云うことです
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第八章 これまでの学び
これまでの学びを少し整理してみます。ひとには脳で考える思考と本能のままにある感情、そして身体に宿る「魂」という意思があります。そしてその魂をこころへと成長させるための役割として、あなたを守る神さま(こころ)があるということです
もちろんあなたにチカラを貸してくれる神さま(こころ)たちはあなたのこころのあり様次第で変わりますがこころへと成長させるためにその中心となって役割を果たすのはあなたを守る神さま(こころ)であるということです
この世も、あの世も天国も地獄などもまたあなたのこころの中にある世界です。そしてすべてはこころの成長のためにその世界の意味がさまざまにあるだけです
それはそもそもがこの世も、あの世も天国も地獄もひとの因果によってつくられた世界であるからです
あなたを守る神さま(こころ)はひとの身体に宿る「魂」を「こころ」へと成長させることが役割であり、あなたの脳にある思考や「魂」の意識よりもそのすべてが一歩先を歩く「こころ」であるということです
「魂」のあり様とはもともとがひとの身体にある本能である「欲」から強欲が生まれ、その強欲が因果となって現れたことがはじまりです
そしてひとにとって都合の良い独自の社会を形成してきたのです
こころの成長とは「魂」が以前のように自然(こころ)の一部であった「あり様」に戻すことが役割です。原因があっての結果とはひとがつくりしことの秩序のひとつです。そして理由があっての必然とは自然が作りしものの摂理であるのです
われわれは決して身体はひとつであってもさまざまな意識によって在るのです。わたしがこうして書き綴ることも常にだれか(こころ)の意志がチカラを貸してくれているのでしょう
この身体には脳で考える思考、本能である感情、身体に宿る「魂」、そしてそれらすべてを守るという意志があるのです・・・それが「あなたを守る神さま(こころ)」ということなのです
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第七章 こころの成長
こころの中にすべての世界が存在しています。あの世と呼ばれる世界も、地獄という言葉のイメージもこころの中にあります。そしてそれは身体があるこの世についても同じで、あなたのこころの中に存在しているということです
ただこの世は物資世界であるために必然とこころ(魂)は身体に宿ることをしなければなりません。そしてこころ(魂)を成長させているのです。ひとが生きる理由とはこころを成長させることです。それはひとを成長させることにもつながるということです
この身体には脳で考える思考や本能のままにある感情があり、あなたを守る神さま(こころ)があります。それぞれの意識は常に葛藤をしてそれぞれの成長を補い合っています
脳で考える思考は身体の機能の一部です。そして感情の根本は本能(欲)です。そして本能もまた摂理(自然の法則)の一部であるということです
物質世界にあるこの考えは、あの世での精神世界にあってもその意識は同じものです。本来は精神世界にある摂理(自然の法則)を具現化しているのがこの世であるということです
さらにもっと大局的に考えればこの世もこころの一部であるということです。ひとりひとりがそれぞれに独自に世界を持っているということです
基本的には他のこころとはことばを使ってなど意識的に交わることはありませんが、それぞれがこころの成長に必要な世界をそれぞれに持ち合わせているのです
あの世もあなたのこころの中に内包されている世界です。あなたのこころのあり様次第であの世の世界もさまざまにあるのです。そしてひとそれぞれに、あの世の世界もあるということです
この世では物質世界によって生み出される因果である悩み解決してゆくことがこころの成長であり生きる理由です
そしてこの世での物質世界にあってのこころの成長と、あの世である精神世界でのこころの成長はこの世での物資世界での経験があるからこそその延長線上にある精神世界でのこころの成長はつながっているのです
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第六章 一瞬・・・
障がい者のひとはその存在自体が普通なのです。普通でないわれわれが言うことに一切の価値はありません。普通でないわれわれとは欲に満ちたあり様のことを指しています。ひとは欲に満ちていると障がい者のことなどはほとんど気にしません
本来は目を向けて学ぶべき存在を気にも留めないのです。ましてや毛嫌いをして意識して避けるものがいるほどです。自分とは違うという意識です。それは自分がもしそうなったらと考えると耐え切れないために逃げてしまうのです
だれでも一度は考えたことがあるはずです。もし自分がそうだったら、自分のこどもがもしそうなったら、親がもしそうだったらと・・・でもそのように考えることはほんの一瞬だけであり健常者であるみなさまが当たり前であることに慣れきってしまっているのです
障がい者のかたは決して特別なことではありません。ただこの世で、生きてゆくためにたくさんのひとのチカラを借りているだけです。だからこそ、その気持ちに応えるために当たり前のこととしてこころに受け入れなければならないのです
そして障がい者の親にしてみれば子を育てることは、それがごく普通なのです。普通というのは当たり前であるということです。親が子を育てることは当たり前ということです。ひとが勝手に分け隔てた考えかたをしてしまっているだけです
その当たり前から目を背ければそむけるほどに、それはやがて自分の身の周りに起きるようになります。それは原因があっての結果です。そしてその出来事が起きたときにはなぜ自分だけが・・・とばかりに嘆くのです。受け入れることができないひとにとって「気づき」であるということです
この世もあの世も一切がこころの中にある世界。その中で起きる出来事などはほんの一瞬です。その一瞬とは風が吹けば消えてなくなり、また新たな世界をつくります。こころの成長のために目の前で起きる出来事はすべてがそうあるだけなのです
いつでもどんなときでもあなたの目の前に起きることのすべてはこころの成長のために在るとして受け入れてください。どんな悲劇でも、耐え難い事象でもあなたにとって必要だからこそ起きているのです
それはあなたの因果として起きているということです
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第五章 「ひと」と云うあり様の成長
前章の最後に「ひとがこころを成長させるのではなく、こころがひとを成長させている」と伝えています
そしてこころがひとを成長させることでこころもまた「学び」をして成長しているのです。そのこころとはあなたを守る神さまのことを云うのです
わたしが伝える神さまとは先人たちのことであり、あなたの思考よりも一歩先を歩くこころのことを伝えています
身体に具わる脳が考える思考や、本能にある感情とは別に身体に宿る「魂」があります
そして、それらを含めてが「ひと」であり、その「ひと」を守るために「こころ」があるということ・・・そのこころとはあなたの一歩先を歩く神さま(こころ)であるということです
前述の通り「ひと」とは身体の機能である脳が考える思考や本能である感情、そして体に宿る「魂」で成り立っており、「魂」にある意思は常に脳の思考や本能である感情と対峙しており、その三様は常に葛藤しながらこころが成長をするために互いに補い合っているということです
「ひと」を守る「こころ」は生まれた時から身体に宿る「魂」とは別にありその「魂」をこころへと成長させるためにさまざまに手を貸してくれているのです
そして「魂」が「こころ」へと成長するほどに、もっと成長したいとするほかのこころたちが集まってそれぞれの「~らしさ」で「魂」の成長に手を貸してくれているのです
上記にあるもっとこころ(魂)を成長させたいとするこころたちとは依り代とする身体を持たないこころたちのことです。そして良い因果であるさまざまなこころたちもまた連鎖をして互いに助け合うことでひとつの「魂」を成長させるべく相乗効果を生み出してゆくのです
このようにして「魂」は自らの因果を経験しながら成長し、その都度さまざまなこころたちからのチカラを借りながら「魂」から「こころ」へと成長してゆくのです
こころの成長とは、決してひとりだけのチカラではないことに気づいてください・・・
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第四章 こころの存在
この世も、あの世も・・・そして過去も、未来もすべての世界にこの意志(意思)がある限り「こころの成長」があるだけです。そのためにすべての事象があるのです。それはこころの中にそのすべての世界があるということです
こころ(魂)の中にあるひとそれぞれの世界・・・その言葉が正解かどうかもわかりません。いま生きているこの世界すら仮想空間なのかもしれません。もちろんこの世界と並行した別世界があることを提唱しているかたもおります
ただわれわれは身体があり生きることでこの世界に縛られているとも云えます。でもそれはひとがつくった社会の中での話しです。それはこの身体にある脳による思考の世界の話です。でもこころだけはこの世界に限らずすべてにおいて縛られずに存在してあり続けているのです
でもこころ(魂)が身体に宿る以上は脳で考える思考に抗いながらもこの身体の脳の思考や身体を上手に制御してゆかなければならないのです。それゆえにこころは依り代として宿るこの身体を大切にしなければならないのです
こころにある摂理(自然の法則)についてはこの身体にも本能として携えています。それを良い因果として「気づき」を得るためには「善い行い」をしなければならないということです
これまではひとが考える脳の思考に基づいて気づきを記してきましたがこころの成長における一番の行いはひとのためにとした「善い行い」をすることです
そしてひとの身体に宿るこころ(魂)はひとが脳で考える思考やひとの本能である感情といつも対峙しているのです
このようにしてこころを意識した「ものの見かた、感じかた、考えかた」もあるということです
こころ(魂)が中心であることを知りながらもあえてこころ(魂)を成長させるためにこころはこの世界に身を置いてこころを成長させてゆかなければならいのです
ひとがこころを成長させるのではなく、こころ(魂)がひとを成長させるということです
それがこころは神さまと言われる所以です・・・
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第三章 守りるべきこと
ひとは必ず守らなければならないものがあります・・・
いま自分が生きていることは過去からのつながりでいまを生きています。そして守りたいもの、それは未来へつなぐこどもたちのことを云うのです
そのこどもたちに想いを託して更にその先へと想いをつなぎいつの日かそれぞれの「志」として成し遂げられるようにと期待をするのです
われわれはそのこどもたちから学ぶべきことがたくさんあります。こどもは考えるよりもまずは行動が先です。だから無邪気なのです。でもおとなはあれこれ考えては理由付けをして結局は行動をしません。都合の良いおとなの理屈をこねるのです
こどものこころは摂理(自然の法則)に近い存在です。そのこころのあり様をおとなは大切に守らなければならないのです
気づくべきこと、守るべきこと、それは「志」をつなぐことでありそれは大切なことどもたちを守ることです
おとなはその未来をつなぐこどもたちに「志」を引き継いでゆかなければなりません。そのために教えが必要であるのです。できるだけ摂理(自然の法則)に近い状態であるときに「志」を伝えてゆくのです
もちろん学校の教育で教えてゆくことができれば一番良いのですが「志」を教えるなどなかなか上手くゆきません。そのためにまずはおとなが学ばなければなりません
もちろんわたし以外にもその気付きを与えるかたたちはたくさんいます。SNSは短期間で効率よく目的を叶えることができますがそれでもまだまだです
それでもおとながあれこれに考えるよりもこどもの無邪気な行動のあり様がいまは必要であることがわれわれの役割でもあるのです
そしてひとを守るためのこころ(意志)というものがあるということを忘れてはいけません
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第二章 こころの認識
「こころ」という存在に気づいたときに、あなたはいまのこころのあり様を意識します。いまはどの程度なのか、その先はどうなるのか、その深さはどのような状態であるかということを・・・。そしてもしこころを実体化させるとどうなるのかなどとも考えてしまうのです
ただこころを意識してみても成長段階にあるこころはその意識よりも脳の思考が優先されているのでたとえ念を込めて実写化できてもそれは大抵がもがき、苦しみとも感じる強欲にまみれた姿となって現れるだけです
もちろん本来のこころには姿・形などの実体はなくただ意志があるだけです。こころのあり様がその時々の成長段階で勝手にイメージをしているだけです
こころとの接し方もさまざまです。わたしは直接に見えることはありませんがその代りに自然の空にある雲がその形を現わしていつもそばにいることを教えてくれています。そして多くのことに「気づき」を与えてくれているのです
例えば息吹として風を感じることもそのひとつです。突き抜ける風もあれば、ふわっと包み込む風もあります。特に神社や自然に触れている時に感じることが多くこころとこころが語り合っている時間として意識をしています
こころとこころには言葉での会話などはありません。そもそもこころには言葉が無いので当然です。言葉とはひとの脳にある言語機能によって発せられているだけでこの身体にだけあるものです
だからこころはひとの身体を使って言葉を伝えているだけです。それを言霊と呼びこころのあり様を言葉にして現わしたものです
そのためあの世でもこころとこころの認識や会話などで交わることはありません。すべてがこころの成長のために在るだけです。ではあの世ではこころが成長するための事象などがあるのでしょうか
たとえば天国や地獄などがイメージされることでしょう。もちろんあの世でもこころを成長させるためにさまざまな事象があるだけです
あの世でも、それぞれのこころのあり様次第で必要なことがただ起きるだけです
- あるべき姿~生きる理由についての編
第一章 平等にあること
われわれはこころを成長させるためにさまざまな役割を担います。そのことについて意識をして対応するかたもいれば、無意識の内に行動をしているひともいます
役割とは「志」のことです
その役割を意識しているかどうかは生きる理由について理解をしているかどうかがとても大切です。そしてすべての生きものは「生きる」とはつながることを意味します。動物も植物も昆虫など・・・すべての生きるものは無意識のうちに補い合ってつながってゆく「行い」をしているのです
ただひとにはこころ(魂)があります。身体にある「意識」とは別にこころ(魂)の「意志」があります。そのこころ(魂)を成長させることがわれわれの生きる理由であるということです
たとえば「生きる」ということについて、おとなにはさまざまな境遇があります。こどものいないおとな、障がい者の親、ひとり身によるこどもの親など、このように限定した環境でもそれぞれにあります。仕事をしているひともいればそうでないひともいる、生きるという大きな括りで考えたらひとたちは無数にその境遇があります
ではなぜこうもさまざまに違うのか考えたことはあるでしょうか・・・
これらすべてはこころを成長するためにそれぞれに与えられた環境であるということです。それが生きる理由です。こころはこの世に生まれてくるときに一番こころ(魂)が成長する環境でひとに宿り生まれてくるのです
だからこそ、いまあなたの環境は理由があっての必然なのです。あなたの境遇はこころの成長のためにただあるだけです。それがすべてなのです。こころの成長はその時のこころのあり様次第でもっとも成長する環境が与えられるのです
そしてこころが成長するために与えられる環境は、そのときのこころのあり様次第ですべてが平等なのです。こうして輪廻を重ねながらこころ(魂)を成長させてゆくのです。われわれはまずその事に気が付かなければなりません
どんな境遇にあってもこの生きる理由を理解してください。こころを成長させるという意識があるかないかではその結果もまるで違ってきます
いまあるあなたの環境が問題なのではありません。あなたにとってこころの成長のために必要だから、いまのあなたの環境があるということです
こころを成長させてゆくことがわれわれの生きる理由なのです。それは生きるものすべてが平等であるということです
- あるべき姿~生きる理由についての編
まえがき
2020年は「因果について」、それは原因があっての結果であると云うことを伝え、2021年は「神さまはいない」をテーマにして神さまを信じないかたでも道理というものを記してきました。そして昨年は少しだけ神さまの意識に触れてみるということを伝えてきましたが今回はもう少しだけ深く広くにお伝えができればと思います
これまでの神さまに触れるというお話も随所にありますが改めて意識をすることで考えかたが違って感じることができれば幸いです。また以前はよくわからず流していた文章もなんか今度は言っていることがわかるなどの気づきもあればうれしく思います
みなさまにお伝えをする書き物としていながら本当は自らの魂がこころへと成長するための言葉の数々です。わたし自身のこころ(魂)のあり様がまだまだのために読まれるかたにとってはそんなの当たり前といったことがこれまでにも多々あったことでしょう
でもそうでないひとがいるのなら一緒に読んでいただきこころ(魂)が成長してくれるのならそれ以上の喜びはありません。わたしの考えはひとりが万人を助けるのではなくひとりがひとりを助けることを目的にたくさんのひとのこころ(魂)が成長すればよいとの考えです
その理由ですがはじめから万人を助けたいなどと思うひとのほとんどは邪(よこしま)な考えをもつものです。そしてそうゆう考えをするひとに対してはそれこそ、ここぞとばかりに邪悪な意識はチカラを貸すのです。そして結果、そのひとは誤解をして傲慢になりそのチカラを過信して囚われてゆくのです
万人を助けるとはそれは結果の話です。誰でもそんな簡単にひとのチカラで成すことはできません。でもひとりのひとを助けることなら、なんとかできるかもしれません。だからこそできるだけおおくのひとがこころを成長させなければならないのです
ひとがこころを成長させるために因果を例えるならそれは「因果とは原因があっての結果である」ということです。そして「志」を掲げるものは良い因果のことを「理由があっての必然である」ということを知っているのです
それでは本編をご覧ください・・・
まえがき
目次
第一章 平等にあること
第二章 こころの認識
第三章 守るべきこと
第四章 こころの存在
第五章 「ひと」と云うあり様の成長
第六章 一瞬・・・
第七章 こころの成長
第八章 これまでの学び
あとがき
以上
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