ものの考えかたの編 (その11)

こころの成長~ものの考えかたの編

あとがき

わたし自身、自分と同じ過ちをするひとは過去に3人ものひとが現れては消えてゆきました。自分が無意識のうちにひとにしていることをその3人がそれぞれわたしに対して同じことをしてどんな気持ちであるのかを教えてくれていたのです

自身の因果が何であることなのかを教えてくれたその「する側」の3人は自身では気が付いていないので、今度は自らが気づくためにわたしからは離れてゆきました

母親もまた同じです。認知症を患いながらもどこかで冷静にわたしのことを見ており学ぶべきことを母親自身の行動でわたしに教えようとしているのです

必ずだれかが傍にいてチカラをかしてくれている・・・

それだけ夢中になって書き綴っていたのです。自然に溢れ出てくる言葉はだれかがわたしに話しかけてくれている言葉なのでしょう

こうして綴る言葉がわたしの話し相手であるとわかったときから、いつもそばにいてくれていることを感じる日々であるのです

いつでもどんなときでもひとりではないということを教えてくれたひとつのたとえです

真夜中の登拝などわたしのさまざまな無謀な行動に対していつもそばにいて守ってくれているみなさまに感謝の気持ちしかありません

以前にも伝えましたがわたしの行いで、もしどなたかを本当に怒らせてしまっているのであればわたしの行動に対して何かしらのストップがかかっていることでしょう

でもそれはわたしがいまこうして無事に生きていることがなによりの証です。もちろん回避しなさいというサインは何度かあったのも事実です。決してすべてが良しとされたわけではありません。まむしさんに威嚇をされてゆく道を閉ざされるなど、ほとほといい加減に呆れられているのかもしれませんが・・・

ただそばにゆきたい・・・感謝の気持ちを伝えたい・・・それだけです

理由があっての必然をよく理解をして「頂き」に辿り着くまでこころを成長させなくてはなりません。ただ、やっとたどり着いたその場所も周りを見渡すと景色はなくさらにその先へと続く道があるだけでしょう・・・

でもその時は以前のように「何故」という言葉を叫ぶことはなく「やはりまだその先があるのか」と楽しくなるような道であることにも気づくのです

ものの考えかたの編 (その10)

こころの成長~ものの考えかたの編

第九章 こころの成長~その2

前章からの続きです・・・

誰かのために・・・ひとのために・・・

たとえあなたが「ひと」であっても・・・またすでに他界をして常世にある精神的な「こころ」であってもこの世のひとを支えるといった「意志」は同じです

その相手とは、ひとであればあなたの家族など大切なひとたち、こころであればあなたが役割とする守るべきひとのことであり、ひとのために・・・とは相手のこころを成長させるための手助けをすることを云うのです

そして受ける側も「こころの成長」を意識していないと、その「教え」に気づくことはありません

こころに気づき、さまざまな「志」に導かれるひともいれば、因果もまた相も変わらずに手を変え、品を変えて強欲の限りの意識を強く保つようになるのです

そうして因果も広く、深くにこころを支配しようとして強欲である「意思」は自らを守るためにチカラが増すようになるのです

それが「天使と悪魔」や「仏と悪鬼」の対称的のように称される構図をひとはよくイメージをするものです

ただそれは善があるから悪があるのではありません。悪があるから善があるのです。もともとは善なる言葉自体がありませんでした。それは善が当たり前のことであったからです

ただ強欲によって悪が生まれたことで善が大切なことだと理解されるようになっただけです

そして善と悪という二極化をすることはこころを成長させるためにわかりやすい例えとして在るだけであり、あくまでも摂理(自然の法則)がただひとつあるだけです

確かにこの世は因果の世界ですが因果はこころを成長させるための役割であるに過ぎないのです

そしてこの世では「ことば」だけではなく「行い」をすることではじめて「善と悪」の意味を知ることになるです・・・

ものの考えかたの編 (その9)

こころの成長~ものの考えかたの編

第八章 こころの成長~その1

この世のはじまりは・・・

地球が創成されて自然が生まれその進化の過程でひとが生まれました。それは理由があっての必然です。そしてこころである本能は摂理の(自然の法則)ままにあるものでした

ただその後に感情から強欲が生まれて因果が現れるようになり、摂理(自然の法則)であるこころに気がつかなくなってしまったのです

ひとは自ら都合の良い社会をつくり独自の秩序を形成するようになりました。それが因果の世界のはじまりであり同時にそれはこころの成長のはじまりでもあるのです

それから後の長きにわたり圧倒的にひとにとって都合のよい強欲が支配する世界となりました。ただし強欲が大きくなるほどに比例して摂理(自然の法則)にも気付くひとたちもいるのです

そして摂理(自然の法則)に気づいたものはこころを成長させるためにそれぞれの役割を探してさまざまな「志」掲げ尽くすようになります

そして強欲もまた因果の輪廻をしながら姿や形を変えてできるだけ目立たないようにひとの感情を操るようになっているのです

それはこころが「意志」であるように強欲も「意思」のあり様であるということです
あなたを守る神さま(こころ)の役割とはこの世(現世)でひとを守る役割を担うことであり、ひとのこころを成長させるための手伝いをするということです。それは自らのこころさえも成長させることでもあるのです

ひとにとってのこころの成長とは気づきのことです。もちろん自ら気づくことなのですが、でも実際はだれかに気づかされるということです

その気づかされる相手というのがあなたの身近にいるひと(こころ)であり、あなたを守る神さま(こころ)からの教えのことを云うのです

そしてあなたがこころに気づいたのであれば、今度は逆の立ち位置となってあなたが大切なひとに対して気づきを伝えるという役割をしなければならなりません

それがこの世でこころに気づいたひとの役割なのです

その「気づき」とは・・・

因果を理解することでこの世界を知るということが「はじまり」です

ものの考えかたの編 (その8)

こころの成長~ものの考えかたの編

第七章 念い(おもい)・・・

ひとが思いを込めたものはとても愛おしく思うものです。特にこどものころの純粋な気持ちで遊んでいたものや使っていたものなどの想い出は記憶にも強く残ります

そしてひとは自然にやすらぎを感じるように、自然のままにあるこころはひとに宿り自然の一部として愛着が込められているように自然からの念い(おもい)を託されているのです

大切なものに気持ちが宿るのと同じように自然から放たれた良い念い(おもい)はひとに・・・こころに宿るのです。こうしてひとは自然から愛されているということがわかるのです

古来よりわれわれがこころを込めたさまざまな念い(おもい)は「神さま」と呼ばれるようになりたくさんのひとたちから崇められてきました。そしてひとはもちろんのこと「もの」や「事」であったりといまでは日本の伝統文化として続いてきています
お祭りなども「事」のひとつです。そして自然を神さまと称えるようにひとのさまざまな念い(おもい)はやがては万物に神さまが宿るという日本独特の宗教観へと変わり現代に至っているのです

こころとは自然の一部です。自然から放たれる良い因果を一番に感じることができるのもこころであるのです

今回のテーマの中で第二章と三章でこどものことに触れていますがそれはこどもであるほどに純粋で穢れないこころをもっているからです。それだけにこどもは摂理に近いこころにあるのです。それがこどもは可愛いと言われる所以です

みなさまにあるこどものころの記憶を思い出してください。それは良くないことも思い出してみてください。すべてはあなたのこころを成長させるために起きた出来事です。なぜ起きたのか・・・素直であるほどにその理由がわかるはずです

おとなになればなるほどに失ったものを見つけようとしています。それはこどものころにたくさんあったものを探しているのです。それは無邪気や天真爛漫、素直で純粋・・・など、おとなになるにつれて忘れてしまうのです。おとなになるということはひとと比較をすることで「欲」がひとつ、また一つと増えて、「欲」は段々と広く深くなってしまうことを云うのです

ものの考えかたの編 (その7)

こころの成長~ものの考えかたの編

第六章 こころのあり様

われわれはこころで感じたことよりも目で見たもののほうを信じます。それは感じたことよりも見たことが事実であると捉えているのです。感じかたはひとそれぞれですが見たものは同じだからということです

感じかたがそれぞれに違うことはこころのあり様次第がさまざまにあるということです

見たことは事実ですが感じることはひとさまざまにあるということです

だからこそ目で見たものよりもこころで感じたこと信じるのです。もしこころで感じることに自信がないのであればもっとこころを成長させてください。そうすればあの世でも困ることもありません

伝えかたを変えれば・・・

あなたがいまよりもっとこころを成長させることができればあの世である常世ではもっと楽しくなるということです

たとえばこの世で常にあなたに関わる相手はあなたのこころを成長させるためにいるということを理解してください。あなたに関わる相手とは友達、知り合い、会社での関わるひとたち・・・それはあなたが引き寄せているのか、引き寄せられているのかなどいろいろに理由はあるでしょう

逆にあなたのもとを離れてゆくひとはあなたにとって役割を終えたひとであるといことです。もちろん悪いことを考えて、悪いことをすればあなたに似たひとがあなたの周りに集まるでしょう。こころのあり様次第で環境も変わるのです

そしてあなたのこころが更に成長をするために、あなたにとって必要なことが起きているのです。あなたがいま生きていることには必ず理由があります。あなたがいま生きている環境、友人、会社の仲間、家族などあなたが関わりのあるひとや出来事などはすべてが「理由があっての必然」であり「原因があっての結果」であるのです

原因があっての結果とは因果のことです。それはひとの強欲について学ぶことです
理由があっての必然とは良い因果のことであり、こころを知るのです

この世もあの世もこころの成長のためにただ在るのです。そのためにすべての事象が起きているだけです

ものの考えかたの編 (その6)

こころの成長~ものの考えかたの編

第五章 時間

ひとであるこの世はまばたきひとつの人生です

でもそれはどうゆう意味なのでしょうか・・・以前にあの世(常世)と呼ばれる場所には時間という概念はないと伝えています。それはこころがただ在るだけの精神世界であるということです

常世では時間という概念はなく、こころのあり様がただあるだけです。こころのあり様とは「精神」のことでもあります。その「精神」が身体から離れて行く場所を常世と云うのです

こころとは身体の寿命が尽きて身体から離れてあの世において意識のままということです。その意識のことを一般的には「魂」と云われているものです

ひと(身体)の死後の世界があることを知ると、この世での富がどうした、お金がどうしたなどは所詮、優越感を得るための自己満足でしかないことがわかります

この現世にある時間とはもともとは摂理(自然の法則)から生まれたものです。自然のままに生きているからこその時間であるのです。ひとは太陽の動きや星の動きから時間という概念をつくりだしましたが、その時間とは自然のままにあるということだけです

ひとが探求をして止まない「この世とは何か」を例えるなら、それはこころの成長で未来を現すことができ、この身体のつながりで過去を知ることができる世界であるということです

そしてそのすべては「志」のつながりで過去から未来が「在る」のです。この過去と未来もまた時間を例えた言葉ですがそれが摂理でありただ自然のままに在るのです

そしてそのただ在るとは「良い因果」のことであるのです。それは過去も未来も良い因果がはじまりであり、終わりもまた良い因果であるということです。理由があっての必然、原因があっての結果とはすべてここからはじまっているのです。だからいま、みながそれぞれに何をするべきかに気づき「志」に尽くしてゆかなければならいのです

それがわれわれひとの役割なのです。特別なことでも何でもありません。ひとが自然の一部であることに気づけばそれでよいのです

ものの考えかたの編 (その5)

こころの成長~ものの考えかたの編

第四章 こころが育つ環境

あなたがこれまでに起きた苦難の経験とは学びです。もちろんそんな簡単に言葉で片づけられることとは思っていませんが、でもそれはすでに過去のことです。いつまでも過去のことを嘆いていても仕方ありません。以前よりお伝えしていますがあなたに起きる出来事は結果です。それは原因があっての結果であり、理由があっての必然であるということです

もちろんあなたに起きる出来事のすべてを因果として結び付けることではありませんがかならずなんらかの関連性はあるのです。特につらい経験ほど関わりは強いものです

われわれはこころがもっとも成長する環境で生まれてくるとしていますが、言い換えればそれぞれが役割を見つけるための環境でもあるのです。みなさまがそれぞれに役割を見つけて「志」に尽くすことはなによりものこころの成長です

こころがもっとも成長する環境とはあなたが役割に気づくための環境であるということです。ただその役割を見つける前に因果に気がつかなければなりません

ひとにとっての良いこと、悪いことは必ず原因があるということです。それはあなたが素直であるほどに理解することができるのです

一例ですが冨のある環境で生まれてくる理由とは冨よりも大切なことがあることを学ぶためにその環境にあるということです。またそうでないひとたちはもし富が無くなったらと考えると恐くて仕方ないという因果に苛まれるのです。そして更に富を得ようと強欲になるのです。ただ富があるという感情は自己満足です・・・あの世にお金はもってゆけません

たしかに生きるための冨は必要でしょう。ただ冨とはいつでも手放せることができる覚悟でなくてはならないのです。それなら最初からない方が良いのです。中途半端にあるからもっと冨がほしくなるのです

冨の使い方が上手なひとはさらに富を得るでしょうが根本的に「志」に冨は必要としません。「志」に必要であるのはあくまでも良い因果の行動です。だから裕福や貧乏と呼ばれる言葉には何の意味はなく、あるのはその環境でこころが成長しているかどうかだけなのです

いまあなたの目の前にある環境はこころが成長するためにあなたにとって必要な出来事が起きているだけです。その出来事を理解することで自らの役割に気がつくようになるのです

そしてやがては自然に「志」に導かれてゆくようになるのです。その「志」こそが役割であると云うことです

ものの考えかたの編 (その4)

こころの成長~ものの考えかたの編

第三章 こころの記憶~その2

純粋なこどもの世界のことはおとなにはわかりません。それはおとなの考えで理解をしようとするからです。こどもの世界のこと・・・おとなはこどもの話からしかわかりませんが、こどもは抽象的なことしか話さずに当の本人の意思さえもあまり言わないため本当は自分がどうしたかったのかがわからないのです。そしてこどももまたその答えがわからないから当事者なのに他人事のようにその情景の話をすることしかできないのです

こうしておとなはそのことに気が付かないままに・・・こどもは答えがわからないままに毎回、中途半端に続くのです。基本的にこどもは先に身体を動かします。「~したい」が先にあるのです。おとなはこどものそういった行動を忘れてしまい、結局おとなはあれこれ考えてはなにもせずにこどもが欲する答えとは違うものとなっているのです

ただこどもの行動や思考がよくわからなくとも、どんなことがあってもおとなはこどもを信じてあげてください。それが正しいのか嘘なのかどちらでも構いません。ただ信じてあげることでこどもは安心するのです。おとなはこどもに対して信じてあげることが役割なのです

家族の会話はこどもがおとなに合わせているだけです。でもおとながこどものふりをすればこどもにとてもばかにされます。おとなはいつの間にかこどもの世界のことをおとなの世界に照らし合わせて考えてしまうのです

わたしが小学校4年生のときにクラスの仲間内で一日ずつ順番にその日だけ誰も口をきいてはくれないというゲームがありました。ただそれが、たとえゲームとわかっていても怖くもあり、淋しい思いをした記憶があります。ある意味でこどもがすることは残酷なものです

おとなは成長の過程でこどもの世界を経験してきているのに、おとなはいろいろなことに囚われてこどもの気持ちを見失っているのです。そしてこどもが親やおとなとの会話が少ないほどに危険信号であるのです。こどもとはいつも笑顔になるほどの話題で会話をすることがとても大切なのです

こころの成長とはおとなの世界だけを知ることだけがすべてではありません。本来はこどもの世界こそが純粋で良い因果に触れている時間が長いのです。いま一度に思い出してみてはどうでしょうか

ものの考えかたの編 (その3)

こころの成長~ものの考えかたの編

第二章 こころの記憶~その1

幼いこどもが寒いのに薄着で鼻水垂らしてショーケースのケーキを見ながら食べたそうにしている姿をみると胸が張り裂けそうになります。抑えきれない感情が込みあがるのです

どうしたら食べることができるのかもわからずにただずっと見ているのです

みなさまにもきっとそんな情景がいろいろにあることと思います。ひとはなぜこうも感情を揺さぶられるのでしょうか・・・

前述の情景はたぶん幼いころの自分の姿と重なっていることがあるからなのでしょう。ひとは何かのきっかけでこどもの頃の出来事を思い出すようになります。たとえ思い出したくないことも、つらい過去があることも、耐え難い経験をしたからこそ、同じ思いをするひとを無くすためにあなたは行動しなければならないのです

またひとはこどもの頃に親から、または大人から教わる大切な言葉を持っています。はじめはその意味もよくわからないことなのでしょうが中学生や高校生になってその意味が分かるようになると大事な時にその言葉を無意識に思い出してはその「ことば」はずっとあなたを守ってきてくれているのです。だからその言葉はまるでお守りのようなものなのです。その言葉でよくあるのが「ひとに迷惑はかけてはいけない」ということでしょう

ひとはそうゆう過去があるだけ幸せなのだと思います。そしてたとえ親でなくてもあなたを大切に守ってきてくれたひとたちに感謝の気持ちを伝えてください

こどもは親の背中を見て、そしておとなの背中を見て育ちます。それは間違いありません。たとえこどもの頃の親の行動が理解できていなくてもこどもながらにその光景が目に焼き付けられており、必ずこころに記憶されているのです。先ほどのお守りの言葉があるようにです・・・

そのこどもはやがて大人になり大切なひとからの教えを少しずつ思い出しながらまたその先の未来のこどもたちに同じ想いをつないでゆくのです。そうしてこれまでつながってきているのです

少しだけ長く生きているおとなから未来のこどもたちへ「つながり」という意味を伝えてゆかなければならないのです

ものの考えかたの編 (その2)

こころの成長~ものの考えかたの編

第一章  現世(この世)の本質

たとえ寝てしまっても朝起きたら目の前にあるのは辛いことの現実です。それはあなたにとって必要だからこその辛いという現実があるのです。その辛い出来事はあなたの過ちの罰として、あなたに教えるために起きていることなのです

どんなに逃げても、避けてもあなたの前に必ず訪れます。かたくなに拒絶すればするほどにあなたの我は強くなりやがては周りのひとにまで迷惑をかけるようになってしまいます。それならいっそのこと受け入れることのほうが賢明なのです

受け入れることは仲良くしてくださいということではありません。受け入れることであなたの罪に気がつかなければならないのです。気がつくまで何度も同じような辛いことが起きるだけです・・・

その辛いことというのは実はあなたがその辛いと思うことを他のひとにも同じように辛い思いをさせているのです

だからこそあなたにそのことを気づかせるために・・・そのことを教えるためにあなたの目の前で出来事が起きるのです。あなたは「される側」と思っていますが、実は「する側」であり、同じような意識がたくさんに引き寄せられて起きているのです

あるときは都合の良い話を吹き込みあなたの感情を刺激したり、またあるときはあなたのこころを乱そうとしているのです

われわれはそういった感情と日々葛藤して生きています。それがこの世です。現世(うつしよ)という言い方はさまざまな感情が実体化した姿のことを現わしている世界のことです

このような感覚でひとの感情を意識するとこの世がもう少しわかりやすくなります。そしてこの世でのあなたの目の前に起きる出来事は原因があっての結果であるということを忘れないでください

それらが起きる原因とはあなたのこころを成長させるために結果となってあなたの目の前で起きているということです