ひととしての編 (その10)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

あとがき

わたしが綴る言葉は「志」ある先人たちの意志を書き記すものです

わたしが特別なのではありません。先人たちの強い意志が伝わるだけです。わたしはその言葉をみなさまに伝えることが役割であるとしているだけです

先人のみなさまたちは声で発することができないのでわたしがその「意志」を代わりに伝えているのです

こころのあり様はさまざまにあります。わたしにとっての正解はみなさまにとっての間違いなのかもしれません

ただこれまで書き綴ってきた言葉の数々のどれか一節でもみなさまが「志」を掲げる気づきやきっかけにつながればとの思いはいまも変りません

わたしがこれまで書き続けてきた書きものは先人たちの想いが託されているものです。読み手のみなさまのこころのあり様はさまざまに違うことでしょう

いま読んでもわからないことが後で気づくこと・・・、また違った解釈で理解できるようになることなどさまざまにあるのです

みなさまのこころに引っかかる言葉との出会いは偶然ではありません。それはみなさまにとって必要だからこその必然であるのです

それはわたしだけでなくみなさまもにとっても同じです。先人のひとたちの信念・「志」をつなげる役割はみなさまにもあるのです

先人たちはたとえ身体なくとも、声に発することができなくとも、なんとかしてわれわれに「意志」を伝えようとしているのです

生きる理由とは「こころの成長」です

先人たちの「意志」をつないでゆくこともいまを生きているわれわれの役割であるということです

ひととしての編 (その9)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第八章 受け継ぐひとたち(わたしの場合)

ひとが都合よく摂理(自然の法則)と分け隔て、独自の社会を築いてきたことによって、われわれはどんどん違う方向に進んでいることをみなさまは感じ取っているはずです。それは世界の紛争をはじめ、国際社会が提唱している環境問題などをみてもわかる通りです

そしてひとは自然に抗うことができないことも知っているのです

それゆえにひとは古代より自然を崇めてきているのです

それは現代であっても、どれだけの先進技術をもってしても自然には敵いません・・・

この世界は一定の周期で破壊と創造を繰り返してきています。この次にリセットされる原因は戦争なのか天変地異なのかはわかりません。ただひとはそのことに気がつきはじめており、ほんのすこしずつでも変わろうとしているのです

その「変わる」とは「こころの成長」であることは言うまでもありません

「こころの成長」のために必要な先人たちの歴史である「教え」は確実にチカラになろうとしています。それはひとり一人が役割に気づき「志」を掲げようとしていることです

わたしの役割はできるだけおおくのひとがそれぞれの「志」を掲げるために・・・その役割に気づいてもらうために書き物をしているだけです。そして次の子どもたちへの気づきとして伝えられたらとの思いです

たとえこの世ではチカラ及ばずともまた次の世でも同じことをすると決めています。わたしがそう言い切れるのは過去からのつながりでいまがあることに強く感じており、先人たちへの感謝の想いは日を追うごとに強くなり、そのつながりを意識するもだからです

わたしはその想いをこの先につないでゆくだけです。「生きる理由」とはそれだけでも十分なのではないかと思っています。それが信念であり「志」というものです

「生きる理由」である「こころの成長」とは自分だけの「こころが成長する」ということではなく、こころを成長させることがひとのために・・・すべての命(いのち)のためにもなるという「つながり」のことでもあるのです

ひととしての編 (その8)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第七章 使命感(わたしの場合)

みなさまは自らの「志」について意識することはあるでしょうか。ひとはみな何かを背負って生きています。それが責任感なのか使命感なのか、さまざまなあり様があることでしょう。そしてわたしなりにも「志」を掲げています

「すべての生きとし生けるものが
幸せに満ち溢れた世界となりますように
チカラを尽くします」

こうして自身の「志」を意識することで「生きる理由」をいつも感じています

そんなの自己満足ではないですか・・・生きる理由なんて知らなくてもよいのでは・・・

縛られたくない・・・好きなように生きていたい・・・ひとに迷惑をかけなければよいのでは・・・など感じかたはひとそれぞれです・・・

でも本当に「あなたはそれでよいのですか・・・」

わたしには高齢の母親がいて病を患っております。あるとき実家で介護をしているときにひとつの疑問が頭によぎりました。「意識も虚ろに認知さえも乏しい母親はこんな状態になってまで何のために生きているのだろうかと・・・」そのようなことをいろいろに考えている時にふと声が落ちてきました

「ではお前はなんのために生きているのか」と・・・。当然にわたしはその言葉に即答することはできませんでした。そして「そうゆうことなのか・・・」と気づかされました

母親の「こころ」はわたしにその気づきを与えるために・・・そのことについて教えてくれるためにわたしにその姿を魅せてくれているということです。そしてそれが母親にとっての「生きる理由」であることも知るのです

母親には大切なことを教えてくれていることへの感謝の気持ちしかありません。最期までわたしにいろいろなこと教えてくれるために生きているということに気づかされたのです。このようにして自身の目の前で起きること、すべての出来事は「学び」であることに気づくのです

ひととしての編 (その7)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第六章 どうすればよいのか~その2

前章からの続きです。われわれが掲げる「志」とは摂理のことです。だから当然にひとがつくったこの社会とは相容れるわけがありません。摂理とはひとが社会をつくる以前よりあった自然界の秩序のことです。だからこそひとがつくった社会の中でわれわれは「志」を維持することが困難となるのです

これまでのおさらいですが、かつてこの世は摂理のままにある良い因果に満ち溢れた世界でした。それがやがてひとの強欲によって摂理の秩序が乱されてひとが中心とする社会がつくられたのです。ただこのひとにとって都合が良いことばかりのこの社会に対して異を唱えるものが少しずつに現れてきているということです

それが「志」に気づいたひとたちです。かつての摂理による秩序ある世界に戻すためにわれわれはさまざまに失ったものを「志」として掲げているのです

このようにしてひとがつくった社会の世を「現世」というのです。それでは「志」が阻まれているこの世界でわれわれはどうすればよいのでしょうか・・・

多くのものを失ったわれわれは簡単に元の世界に戻すことはできません。そしてあなたが生きている間になんとかして変えようとするから「志」の行動が早くなんとかしなければとの思いから傲慢に変わってしますのです

「志」を貫くためにぶつかる壁のほとんどが自身の「志」に対する不安や怖れ、疑念などです。もちろん原因はあなたの信念を受け入れないとする社会との軋轢ですが根本はあなた自身のあり様が問題なのです

ひとりで何もかもを変えようとするからあなたが生きている時間だけでは足りずに社会に潰されてしまうのです。われわれの役割とは寿命尽きるまでその「志」を貫いてひとりでも多くのひとにその想いを引き継ぐことがでればそれでよいのです。すべきことをすればそれでよいのです。その繰り返しでやがては成就することができるのです

そんなの無理だとするあなたの疑念、だれかに潰されるかもしれないというあなたの不安があなたの掲げる「志」を諦めさせようとしているのです

そんな簡単に諦められることができるのでしょうか・・・

ひととしての編 (その6)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第五章 どうすればよいのか~その1

前章にもありますが「志」掲げるものは必ず壁にぶつかります。その立ちはだかる「壁」とは相手ことを意識してしまうことです。自身の「志」は間違っていないのだろうかと相手の考えと比較をするようになってしまうことを云うのです

そしてそれはなにも相手の意識だけとは限りません。そもそもが壁と考えてしまう自分の意識が問題でもあるということです

前章でも伝えている通り壁ではなく相手との意識の違いであるだけです。そして相手の問題ではなくそのように考えているあなた自身の問題であるのです

わたしがテーマとしている「こころの成長」とはもちろん己自身のことを説いています。相手をどうにかするのではありません。あなたがどうにかなればそれでよいのです

「こころを惑わすのは他人ではなく自らのこころ」です。これは自身を見失わないための大切な言葉としていつも胸に秘めています

ひとの社会の中で生きていると「志」は常に「なぜ」、「どうして」という疑問を投げかけてくるのです。その繰り返しで「志」を掲げるものはやがてこころ砕かれてしまうのです

もともと「志」とはひとが社会をつくる以前にあった自然界での話です。ひとの欲が中心となってつくられたこの社会とはかみ合うはずはないのです

それほどまでに摂理を求めるわれわれが掲げる「志」とひとの社会は違い過ぎるのです。それでも「志」を貫くために、あるものは仏門に入り、またあるものは独自の宗教を作り、あるものは郊外で自給自足の生活をするなどひとの社会に惑わされないために敢えて社会から外れた行動をしようとするのです。それも「志」を貫こうとしたひとつの選択であり結果なのです

それ以外のほとんどのひとはこの社会に打ちのめされて、飲み込まれてゆき「志」に気がつかないままにただ流されてゆくのです。「志」はそんなことできるはずがないという意識が生まれ、やがては「やっぱり無理だ・・・」と、その意識そのものが消えてしまうのです・・・

ひととしての編 (その5)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第四章 守るべきもの

あなたが一番大切にしていることはあなたが生きる理由について、そしてひとの役に立つことについて、それら信念・「志」が高ければ高いほどに何度もその壁にぶつかることでしょう。ただしそこに諦めるという選択肢はありません。なんどでも「じゃあ今度はどうしようかな」と考え続けなければならないのです

別にそれで誰かがあなたに何かを言うわけではありませんが最善の道を探すことは常でなければなりません

それを我の強さではないかと言われるかもしれませんが、「我」ではなく「志」です。そして「自分(我)だけのため」ではなく「ひとのため(志)」であるということです

たとえ相手がそのことに気がつかなくても大切なことは「ひとのために・・・」今日の方法がダメなら明日はまた違う手段を見つけるという意志が大切なことなのです

それでも壁が立ちはだかるのなら今度は更にまた別の方法で「志」を貫くのです。壁とはひとが例えたもので本来は互いに違う意識のことでしかありません。それで寿命尽きてもまた次の世で「志」を貫くだけです。なんども言いますが「志」に諦めるという選択肢はありません

我が強い言われることや我がままと言われることは「志」と紙一重です。ただ我の強さや、我がままという言葉はあくまでも自分のことだけです。ひとりでも多くのひとが笑顔になれるのならと・・・「志」とはひとのためとした「おもいやり」や「やさしさ」のことを云うのです。そしてただ「志」とは信じるだけでよいのです

ひとの役に立つこと、ひとが救われるのならその~らしさが方法であり、手段なのです

「志」に不条理があるのならそれさえも喜んで受け入れなければなりません。それが正解なのか間違いなのかはあなたが判断するものではありません

もしかしたら誰かに無理やりにねじ曲げられるのかもしれません。たとえうっとうしいと言われようがしつこいなどと何と言われようが諦めずに前に進むだけです。それがあなたの「志」であり生きる理由だからです。それは次の世もそしてまた次の世も信念・「志」を貫き続けるということです

いまのこの想いは過去からつながってきているものなのです。その想いを途中で辞めることなどできるはずもありません。なぜならそれがどんなにも楽しくて仕方ないのが「志」であるということなのです

あなたが守るべきものとは「志」のことを云うのです

ひととしての編 (その4)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第三章 そして何をするのか

第一章ではあなたが失くしたものは何でしょうか・・・その答えはあなたが一番大切にしたかったことの数々です

第二章にあるのはあなたが取り戻した後にどうすべきなのでしょうかということ・・・

その答えはあなたが生きる理由を知り、ひとのために役に立つ行動をすることです
あなたが一番に大切にしていることに気付き、そしてあなたの生きる理由がわかったのならその次にはひとの役に立ってみてはいかがでしょうか。そうすることがあなたの役割であるのです

もしかしたらあなたが一番大切にしていることを守ることがあなたの生きる理由なのかもしれません

この章ではあなたがそれまでに気づいたことである「ひとのために役立つ行動」について信念・「志」を掲げることをするのです

それが良い因果のことであり摂理でもあるのです。あなたに守るひとがいるようにあなたはたくさんのこころたちから守られているのです

あなたがひとのために役に立つことをすれば、そのお返しにあなたのためにたくさんのことを返してくれるのです

あなたの信念・「志」によって互いに感謝の気持ちを伝え合うことが良い因果の連鎖であるということです

これは損得の問題ではありません。ただあなたの信念・「志」のままにひとを助けることが大切なのです。そしてそれはひとだけに限るものではありません。動物も植物もすべての生きものたちにも目を向けてください。あなたが役に立とうとする気持ちはひとでなくても必ず伝わります

それが「妖」であっても「悪さをする霊」であっても同じです。あなたの「志」が高いほどに必ず伝わります。それにたとえもしあなたの気持ちが相手に伝わらずに取り込まれてしまっても、伝わるまで何度も意識がなくなるまで伝えてください。それでダメならまた次の世でもあなたの「志」に尽くせばよいだけです

それがひとの道であり道理と呼ばれるものです。10年後の未来にわたしはいなくても構いません。ただいまよりもたくさんの「志」を掲げる者がいればそれでよいのです。その繰り返しで100年後の未来に限りない「志」たちで、やっとこの世界が変わっているのかもしれません

ひととしての編 (その3)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第二章 取り戻すために

あなたが「失ったもの」を取り戻してその後はどうするべきなのでしょうか・・・
はじめにあなたが「失ったもの」に気づくことは前章の通りに大切なことです。そしてそれを「取り戻すこと」についてなぜ取り戻す必要があるのでしょうかという疑問は必ずあります。でもその問いに対する答えは「あなたがいま生きている理由は何でしょうか」という言葉に隠されているものです

その理由について即答できるひとはほとんどいないでしょう。生物学上の話や、親が勝手に産んだからというのは仮定や事実の話しであって「理由」ではありません。でも本来は「そんなことはどうでもよい」というのがこの世の答えでしょう

またはそもそも知る必要がないと答えるひともいます。でもその先があっても良いのではないでしょうか。わたしがこれまで一貫している通りにいま起きていることには必ず理由があるのです。だからこそにあなたがいまを生きることには必ず理由があるとしているのです。その例外は何ひとつありません

そのくせ大切なひとのためと理由付けをして「なんでこうなったんだ」、「なぜそうしたのか」などしきりに自他ともにその理由を問い正します。でもひとが生きる理由についてはだれも考えようとはしません。そんなことは知らなくても生きて行けるからです。そして生きていることが当たり前だと思っているのです

そのような人生を寿命尽きるときに振り返ってみた時に何か記憶は残っているのでしょうか。想い出すことは何もないままに何をしてきたのだろうかときっと自分に問いかけるのです。それを何度同じことを繰り返せばよいのでしょうか

たとえ自分の笑顔の情景は想い出せずともだれかを笑顔にさせた想い出が浮かぶ、だれかの役に立っていたこと、そんな人生だったことを想い出すことができるならその時にやっと「まあまあだったかな」と自身の人生に納得ができるのです

わたしが説く生きる理由とは「こころの成長」をさせることです。そのために生きているのです。こころの成長とは具体的にあなたが「失ったもの」を取り戻してひとのために役に立つ行動をするということです

ひととしての編 (その2)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第一章 失くしたもの

ひとは欲をひとつ覚えるごとに大切なことをひとつ失ってゆきます。失うとは消えることではなく気づかなくなるということです。それが欲のままにこの世で生きるということです。ひとがこころを成長させるというのはその失ったものをひとつ一つ取り戻すことに在るのです

ただその多くはひとが一通りに経験をしてきたひとがそのことに気付くのです。逆にそれは一通りの人生の経験をしなければ気づかないことでもあるのです。ひとは多くの失敗を重ねることでしで学ぶのです。そのためにはこの身体がどうしても必要なのです

そしてその失われた大切なものは、こどもの頃にはすべてあったものです。生まれた時にはひとからの愛情などさまざまな良い因果の慈愛を受けて育ちます。でもある時から欲を覚えることでそれがひとつ一つに気づかなくなるのです

また憎しみは憎悪となり、あなた自身と他のひととの比較はさらなる優越感を求めて強欲となります。でも欲を満たすことで感情は安心するのです。それはわれわれが生きる理由もわからずに社会に流されて生きているのが良くないということです

みなさまは当たり前のように感じているでしょうが女性のひとがこどもを育てるということは立派な役割のひとつです。未来のこどもたちを育て大切な意志を残すことはとても大変なことなのです

そして社会で生きながらに摂理に気づきその意識を保つことなどはとても大変です。でもわれわれはこころを成長させるためにそれをしなければならないのです。もちろんその役割である具体的な手段、方法のあり様はそれぞれにあります

国家がどうとか世界がどうとかの言い訳は必要ありません。われわれひとり一人が気付いて常に意識をしていれば良いのです。おもいやり、やさしさなどもわれわれが失いかけているひとつです

ひとに手を差し伸べることはいらぬお世話と感じるような世界です

でも・・・ただ忘れてしまっているだけです

あなたが失くしたものはあなたが大好きな映画やテレビ、そして本の中で表現されています。それらが大ヒットするのはみながその失くしたものを無意識に感じているからです。ただ自分がどう表現してよいのかがわからないだけです

でもそれがあなたの役割の一つなのです。あなたの一番大切なものを見つけてください。それがあなたのひと助けをするための手段・方法です。そしてひとは寿命尽きるまでその役割に尽くさなければならないのです