ひととしての編 (その6)

須佐神社にて~素戔嗚さまと八岐大蛇(豪族であったひとのこと)のにらみ合いでしょうか・・・
こころの成長~ひととしての編

第五章 どうすればよいのか~その1

前章にもありますが「志」掲げるものは必ず壁にぶつかります。その立ちはだかる「壁」とは相手ことを意識してしまうことです。自身の「志」は間違っていないのだろうかと相手の考えと比較をするようになってしまうことを云うのです

そしてそれはなにも相手の意識だけとは限りません。そもそもが壁と考えてしまう自分の意識が問題でもあるということです

前章でも伝えている通り壁ではなく相手との意識の違いであるだけです。そして相手の問題ではなくそのように考えているあなた自身の問題であるのです

わたしがテーマとしている「こころの成長」とはもちろん己自身のことを説いています。相手をどうにかするのではありません。あなたがどうにかなればそれでよいのです

「こころを惑わすのは他人ではなく自らのこころ」です。これは自身を見失わないための大切な言葉としていつも胸に秘めています

ひとの社会の中で生きていると「志」は常に「なぜ」、「どうして」という疑問を投げかけてくるのです。その繰り返しで「志」を掲げるものはやがてこころ砕かれてしまうのです

もともと「志」とはひとが社会をつくる以前にあった自然界での話です。ひとの欲が中心となってつくられたこの社会とはかみ合うはずはないのです

それほどまでに摂理を求めるわれわれが掲げる「志」とひとの社会は違い過ぎるのです。それでも「志」を貫くために、あるものは仏門に入り、またあるものは独自の宗教を作り、あるものは郊外で自給自足の生活をするなどひとの社会に惑わされないために敢えて社会から外れた行動をしようとするのです。それも「志」を貫こうとしたひとつの選択であり結果なのです

それ以外のほとんどのひとはこの社会に打ちのめされて、飲み込まれてゆき「志」に気がつかないままにただ流されてゆくのです。「志」はそんなことできるはずがないという意識が生まれ、やがては「やっぱり無理だ・・・」と、その意識そのものが消えてしまうのです・・・

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