慟哭の編 (その10)

神さまはいない~慟哭の編

あとがき

慟哭とは教えであり学びです。でもそのことに気付かないものは慟哭をこころの傷と理解するのです。

命の大切さに気づくひとほどに命のはかなさの現実を目の当たりにするのです。でももちろんそこには理由があります。弱き命たちはこのひとにならわたしたちの死は無駄にならないと知っているのです。そして自分たちの死をきっと役に立ててくれると願いを伝えているのです。殺処分される生き物たちはあえてその希望を叶えてくれるひとを選んでそう叫ぶのです。

そして命の大切さに気づかないひとは何度でも慟哭を経験するのです。ひとの道理とはこのような線のつながりのことを意味するのです。気づかないことが罪ではありませんが、この場合は気づこうとしないことが罪であるのです。

道理とは意志のある言葉です。その意志とは「原因があって結果がある」という意味の言葉です。ひとが生きることの意味、すべてに当てはまるのです。「理由があっての必然」です。あなたにとっての教えとして必要なことがただあなたの目の前で起きているだけです。

ひとには必ず試練があります。それを意識しているか、していないかです。それは「志」を意識しているか、まったく気づいていないのかということです。冒頭にある命の大切さについてもその例えのひとつです。

試練とは肉体的苦痛よりもむしろ精神的な絶望です。そしてほとんどのひとは「意志」ではなくただの「意思」です。強欲のままにある意思です。慟哭とは絶望の感情を表現した言葉です。

言葉と行動はひとにとってとても大切なものです。このふたつをひとつにしたものが「志」です。

以前よりわたしは「ひと(こころ)の成長」を命題にしています。命あるものすべてにそれぞれの役割があり、ただその役割を果たしているだけです。そうしてこれまでも、そしてこれからもそう在るのです。それが摂理であり道理であるのです。。

慟哭の編 (その9)

神さまはいない~慟哭の編

第八章 希望と絶望

「志」という意識は相手に希望を与え、何もしない明日は絶望を引き寄せます。
「志」の意識とは未来のひとのための生きる希望であり、絶望とはなにも行動をしないという毎日の結果です。

毎日をなにか簡単なことでもよいので相手が喜ぶことをしてください。どんな些細なことでも構いません。たとえばごみ袋が満杯になったら次にごみを捨てるひとが捨てやすいようにあなたが古いごみを捨てて新しい袋を用意してあげてください。

だれもやらないことをあなたがしてください。それがたとえ相手に気づかれないことでも構いません。ひとのためにと意識をしてなにか行動をしてください。

相手の希望とはあなた自身が成長したいとする希望でもあるのです。

いままでの絶望よりももっと深い絶望があるように、いまある希望よりもっと意識が拡がる希望があります。「志」の意識とは少しだけ先のことを知っているので迷うことはなく、やましいこともないので悩みや恐れを抱くことなどありません。

ここまでは今日から明日へのお話でしたがこれよりは今日までに至る希望と絶望のお話をします。

この希望と絶望のような相反するふたつの言葉は必ず一方が存在をしてもう一方の言葉が生まれるのです。もともとは存在しなかった希望は絶望によって生まれた言葉なのです。そして更に過去を遡れば絶望という言葉さえ存在していなかったのです。それを強欲により己が自身を見失ったときの感情が絶望へと変えたことがはじまりなのです。

強欲に端を発するひととの比較によって感情から生まれる言葉なのです。

いまでは互いに存在する希望と絶望の言葉の感情、この左と右にある言葉の真ん中に在ることを意識すれば互いが打ち消し合ってふたつの言葉は存在せずに惑わされることはなくなるのです。このようにほかにも相反する言葉、たとえば「幸せ」と「不幸」も同様です。

真ん中で在れば互いに打ち消されたその先に「志」の意識が見つかるのです。

慟哭の編 (その8)

神さまはいない~慟哭の編

第七章 慟哭

ひとに教えるとは自分ができなかったことを伝えることではありません。ましてや自分と同じことをさせることでもありません。教えとはひとそれぞれが持っているそのひとにしかできないことを伝えるものです。

これだけ教えているのに「なぜできないのか」ではありません。それはただのあなたの自己満足のための教えでしかありません。「なぜできないのか」ではなく「どうしたらできるのか」です。ひとりで不平・不満を喚き散らして自分で悩むことなどは、そもそもがあなたは教えるべきひとではないのです。

どうしたら相手を楽しませることができるでしょうか。
どうしたら喜ばせることができるでしょうか。
どうしたら相手の強み・長所を引き出すことができるでしょうか。
昨日と同じことをしていたら明日の成長はありません。

でも自らが相手からの信頼に応えること、期待にそうことは同時に相手のチカラを引き出さすことにもつながるのです。偶然にできることはなく必ずこれまでのつながりによってできるようになるのです。

ひとはさまざまなことを経験してゆくとある程度ですがその先にある結果のイメージができるようになります。ただそのイメージは頭ではわかっていてもいざその現実を目の当たりにすると抑えきれない感情が止まりません。

そしてまた新たな慟哭を経験して成長してくのです。もう二度とそんな経験はするまいと思いながらもこころのどこかでは絶望の覚悟をしています。そのことを怯えとして感じると先へは進めないので次のステップへの足掛かりとして意識をすることで過去を活かすことができるのです。「気持ちのありよう」なのです。

嘆きや辛さに耐えきれずその想いから早く抜け出そうとしてもそれは結局、時間経過で紛らわすことがほとんどです。それよりも慟哭から逃げるのではなくその時にしか感じることができない理由を知り、自らのために起きていることと知り、自分が何をすべきかを考えることが必要なのです。時間とはひとが成長するために先へと進むためにあるものです。

慟哭の編 (その7)

神さまはいない~慟哭の編

第六章 自然の流れ

ひとのため、生きもののためと言いながら結局はなにもしないひと・・・
それは・・・
行動の仕方がわからないのでしょうか
行動する勇気がないのでしょうか
そもそもそうした言葉たけなのでしょうか

自発的ではなくだれかに言われてするひとはそれほどたいした行動でもないのにやたら恩着せがましくおおげさに、さも自分がすごく大変なことをしているかのように言って逆に相手を困らせるものです。たぶん本人にとってはこれまでとは違う、はじめての行動だったからこそ無意識に自分の行動を自慢したく大袈裟に言うのです。

そしてもし行動に結果が伴わなければその結果については他人のせいにして更にその無駄になってしまった時間に腹が立ち気に入らずに不平をまき散らします。

道理とは線でつながっているのです。そうなることがわかっているからこそ、改めて欲しいからこそこのような状況が起きるのです。結果には必ず原因があるのです。

このようにしてあなたが経験するすべての状況はそのことをあなたに気付いてほしくて、あなたに理解してほしくて事象が起きているのです。この場合は、相手を責めずに結果を受け入れて黙って「そうだね」と言えば良いのです。相手が間違えていても文句を言わずに「こうすることもできたね」と伝えてあげれば良いのです。相手を正すのではありません。あなたが変わるのです。相手のひとはあなたが正さずとも必ずいつか気づかされます。

ひとが間違えることは必ずあります。それはあなたが学ぶために起きることです。決して相手を責めてはなりません。ひとが間違えているのではなくあなたが試されているのです。何ごとも相手の問題ではなくあなたの問題としてその事象が起きていることを理解してください。

道理とは自然の流れを意味することです。あなたの目の前で起きるすべての事象はあなたに正すべきことを伝えたくて、気づいてほしくて起きているだけです。すべてを受け入れて、いま自身に起きていることが学びであると理解をしてください。

慟哭の編 (その6)

神さまはいない~慟哭の編

第五章  平等と不平等

ひとに許されているさまざまな感情はひととして成長するためにあります。感情として表現できる言葉の数々はさまざまにありますがどれひとつをとってもひととして成長させるものばかりです。ですが中にはそのことを理解せずにその感情に耐え切れずに自らの命を放棄するものもいます。

「ひとはみな平等であると同時に不平等も平等にあります」

わたしが使うこの言葉の意味とはあくまでもこの世に生を受けた段階でのスタートする時の言葉です。平等も不平等も成長するにあたりその感じ方である感情はひとそれぞれに違ってきます。スタートしてからその後のこころのあり様によって受け取り方や感じかたでひとによって不平等は平等ではなくなるのです。

そして不平等も平等にあるとの本当の意味とはこの不平等さえも不平等と感じない感覚を養うことにあります。お金がない不平等、親がいない不平等、何をやっても上手くいかないなどとする不平等の定義はなんでしょうか。

お金持ちの定義とはなんでしょうか。だれがどうやって決まるものなかはあなたが生まれ育った環境によってその定義もさまざまにあるのです。

でもこのようにして比較をすること自体がおかしな話なのです。ただあなたが成長するために必要な環境があるということだけです。それ以上も以下もありません。あなたは「なんのために生きているのですか」と聞かれて明確に答えられるひとはどれくらいいるのでしょうか。あなたがひととして成長するために必要なことを理解しているかいないかだけです。理解をしていなければあなたのいまの環境さえも不平等だと考えてしまうのです。

平等や不平等と感じる言葉があなたのこころを満たすのではありません。相手の笑顔でこころ満たされるのです。互いに助け合うことで生まれる笑顔でひとは幸せを感じてこころが満たされるのです。

相手が幸せになることで自らは満足をして幸せになるのです。

もちろんこれはわたしなりの正解であってあなたはあなたらしさの考えかたによる答えがあればそれでよいのです。

そのあなたらしさの行動で真っ直ぐに貫いて生きてゆくことが大切なのです。

慟哭の編 (その5)

神さまはいない~慟哭の編

第四章 不安

これより記載することは「志」あるかたたちに伝えるものです。「志」掲げるものはそこに至るまでにさまざまな壁を乗り越えていまがあるのです。でももしあなたがいま思う不安や考えがあるのなら、それは「志」を疑うものではなくそのやり方・方法に不安を感じているだけです。

「志」が高いひとほど、責任感が強いひとほど「なぜ」という自分の無力さに気づかされます。そして自分の行動は本当にこれでよいのか、間違っていないのかと疑問を感じてしまうものです。

自信をもって行動すればするほどに相手は理解してくれているだろうか、本当に伝わっているのだろうか、なぜ、何故?と不安になってくるのです。

「志」ある行動とは義務ではありません。あくまでもひとのために、「志」あるままの自発的な行動であり、他人の行動や言動に惑わされてはいけません。あなたにはあなたの「志」を貫く方法があります。それは他の「志」あるものとその方法が同じでも、違っていてもそのことが問題なのではありません。

たとえばわたしの場合はひとのこころの成長を目的にその気づきを知ってもらうために自身の考えで書きものをしています。

わたしが信じる「神さま」とは先人たちのことです。信じる・信じないではなく過去に「志」ある行動をして生きてひとたちを敬っているだけです。そして教えてきてくれたことを後世のひとたちにつないでいるだけです。

ひとに足りないことは別の満たされることでひとのこころを成長させています。さまざまな環境で育った考え方はさまざまな長所となって活かされてゆくのです。「天は二物を与えず」とありますがこれは長所をひたすらに伸ばしてその長所をひとのために役立ててくださいとしたものです。

あなたの行動は決して間違いではありません。もっと良い方法があるのかもしれませんがそれは自然と気づくものです。他に惑わされずあなたの信念に基づいて進んでください。

一歩ずつが大切です・・・

慟哭の編 (その4)

神さまはいない~慟哭の編

第三章 葛藤

ひとと争うことはとても疲れます。もちろん生死をかけた争いではなく互いの意見が対立する葛藤においてです。ただ相手の意見とは合わないときに反論をしてひとと対立をした場合など感情だけで互いの意見をぶつけ合うことはとても疲れるのです。

これは相手の意見を受け入れずに互いに自分の意見だけを正論として振りかざし続けることは結果としてそれほどの価値を見出すことはできません。

なぜそれほどまでに主張するのかはあなたの責任感が強ければ強いほどにその葛藤も大きいからです。

自分が何とかしなくてはいけないとの強い思いから自分と同じものを相手にも求めてしまうからです。そして相手が自分の思い通りでなかった場合には必ず対立をしてしまうのです。

責任感の強いひとは当然にその能力もあり自分が一番良かれと思った考えや行動をするのです。そして意に反する相手にはなぜできないのか、なぜわかってくれないのかとその葛藤に苛まれるのです。

そのことに本人自身は気づきません。逆に相手を責めることしか満足ができなくなってしまうのです。

責任感が強い、傲慢、我がまま、自己満足・・・実はどれも同じです。相手のこころのあり様で感じかたが、受け取りかたが違うだけなのです。

ひとには必ず役割というものがあります。完璧なひとはいません。チームであれば互いが補うことで個のチカラが数倍にもなり魅力あるチームとなるのです。もしそれが個のチカラを競うものであれば自身の特徴が生かせることに挑戦をすればよいだけです。

チームであっても個人であっても会社でも学生でもひとが成すことはすべて同じです。自分ができることを、自分にしかできないことをただひたすらに行動をしてください。

あなたが必要とされる場所にかならず導かれます。

慟哭の編 (その3)

神さまはいない~慟哭の編

第二章 こころの痛み

唇を噛み締めて、声を震わせる・・・あなたがとても悔しかった思い出は何でしょうか。

誰にでもひとつやふたつは必ずあるはずです。スポーツの勝負で負けた時、コンテストで優勝できなかったこと。各種の試験で合格できなかったことなど様々にあるでしょう。

これらは目的を成し遂げられなかったことによる激しい感情です。目標達成のために費やした時間が長ければながいほどに、深ければふかいほどにその悔しさが増すものです。「これだけやったのになぜ」と・・・

ただそれと同時に自分は精一杯やったから仕方ないと、こころのどこかで傷を癒す思いもあるのです。そう思えばあきらめることができるから・・・でも本当にそれでよいのでしょうか。本当に精一杯やったのでしょうか。それはまだまだ努力が足りないものこそが放つ言葉です。

なぜあなたは目標に届かなかったのでしょうか
緊張して本来のチカラを発揮できなかったからでしょうか
精一杯にチカラを出し切ったにも関わらず叶わなかったのでしょうか
ではなぜ勝つことができなかったのでしょうか
そしてなぜ自分よりも優れた相手がいたのでしょうか

その答えは単純に相手が自身よりも努力をしたからにほかなりません。

こんなはずじゃなかった・・・
あのときこうしておけばよかった・・・

あなたの行動の結果に「もし・・・」はありません。それが事実であり、相手があなたより優れていただけです。さすればこの先あなたに問いかける「もし・・・」もありません。ただ相手のひとはあなた以上に長い時間をかけて、あなたよりも深くに努力をしたのです。

気持ちだけではどうすることもできません。チカラとは努力によって養われるものです。努力をして一番になれるのならいまよりもっと努力をすればよいだけです。

でも本当に大切なことは相手に勝ったか負けたかでもありません。あなたが学ぶべきは「ひとと比較をしてはいけません」ということです。もし比較をしたいのであれば昨日の自分よりも今日の自分が成長しているかどうかを比べてください。

以前にも伝えましたが相手と比較をすることは自分の限界をつくってしまうことです。成すべきことはただひたすらに一歩前を歩く自分に負けないでください。

そして今日とは違う明日の自分に期待をしてください。

慟哭の編 (その2)

神さまはいない~慟哭の編

第一章 悲しみ

ひとは嘆きの数だけ、絶望の深さを経験をして成長します。だがわれわれはその数も深さもまだまだその経験が足りていません。ひとは楽なほう、楽なほうへと進もうとするからです。たとえ悲しみを目の前にしても自分に言い訳をして逃げようとします。そして時間の経過で悲しみを忘れようとするのです。

悲しみは忘れようとするのではなく、ともに在り続けるものです。忘れなさいではありません。受け入れなさいとしています。いつも悲しみと共に在ってください。

慟哭とは大切なものが傷つけられたとき、または失われたときに生じる感情です。原因があっての結果、理由があっての必然は絶対です。これを理解して、受け入れていれば悲しみは一時で終わります。

それは悲しみよりももっと大切なことがあるからです。そのことに気付くことができれば一時で終わるようになるのです。何も気づかなければいつまでも悲しみに苛まれることでしょう。

悲しみを憎しみに変えてはいけません。悲しみはあなたのこころを成長させる大切な経験としてともに在ってください。

生きる意識に気づくひとは男性よりも女性のほうが多いです。その理由は精神的に男性よりも女性のほうが強いからです。もちろん命(子)を宿すことができるため当然なのです。

女々しいという言葉も男性を蔑んだ時に使われる言葉です。このようにして悩みからの回復も圧倒的に女性のほうが早いのです。その強さはある意味で動物の本能です。
成長するとは年を重ねることではありません。どれだけ嘆きの数や絶望の深さによる悲しみを踏み台にしてきたかで決まるのです。

いま生きているこの時は戦争の時代でもなく原爆を落とされた時の経験者でもありません。その先人たちの礎によって、平和な世界で生きているのです。だからこそその悲しみを忘れずに精神的な強さをもってこころを成長させてゆかなければならないのです。