慟哭の編 (その8)

神さまはいない~慟哭の編

第七章 慟哭

ひとに教えるとは自分ができなかったことを伝えることではありません。ましてや自分と同じことをさせることでもありません。教えとはひとそれぞれが持っているそのひとにしかできないことを伝えるものです。

これだけ教えているのに「なぜできないのか」ではありません。それはただのあなたの自己満足のための教えでしかありません。「なぜできないのか」ではなく「どうしたらできるのか」です。ひとりで不平・不満を喚き散らして自分で悩むことなどは、そもそもがあなたは教えるべきひとではないのです。

どうしたら相手を楽しませることができるでしょうか。
どうしたら喜ばせることができるでしょうか。
どうしたら相手の強み・長所を引き出すことができるでしょうか。
昨日と同じことをしていたら明日の成長はありません。

でも自らが相手からの信頼に応えること、期待にそうことは同時に相手のチカラを引き出さすことにもつながるのです。偶然にできることはなく必ずこれまでのつながりによってできるようになるのです。

ひとはさまざまなことを経験してゆくとある程度ですがその先にある結果のイメージができるようになります。ただそのイメージは頭ではわかっていてもいざその現実を目の当たりにすると抑えきれない感情が止まりません。

そしてまた新たな慟哭を経験して成長してくのです。もう二度とそんな経験はするまいと思いながらもこころのどこかでは絶望の覚悟をしています。そのことを怯えとして感じると先へは進めないので次のステップへの足掛かりとして意識をすることで過去を活かすことができるのです。「気持ちのありよう」なのです。

嘆きや辛さに耐えきれずその想いから早く抜け出そうとしてもそれは結局、時間経過で紛らわすことがほとんどです。それよりも慟哭から逃げるのではなくその時にしか感じることができない理由を知り、自らのために起きていることと知り、自分が何をすべきかを考えることが必要なのです。時間とはひとが成長するために先へと進むためにあるものです。

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