仮想現実の編 (その10)

神さまはいない~仮想現実編

あとがき

子どものころ親から悪いことをしたら必ずバチ(罰)が当たるよとはよく言われましたし、そしてよくないことを考えていたら本当にそうなるから止めなさいとも言われたものです。

そして現実にひとが想像をしたことは良いことであれば行動をすることでその想像は現実に叶えられますが、悪いことは想像をしただけでたとえ想像通りでなくとも悪いことが起きます。もちろん一回や二回くらいの想像ではなく常時強く意識をすることで想像が現実となるのです。このような仮想現実はみなさまもご存じのように呪いのわら人形など昔からの言い伝えも含めてよくあります。

仮想現実とは基本的に未来のことを予知するものです。そして想像をしたことは「ある」とした意識はすでにお伝えをした通りです。

そして過去についての仮想現実とは予知をすることではなく過去を「知る」ことにあります。時間軸に縛られた過去は事実です。それを過去に戻る想像をしてやり直すなどはその次元では決して変えることはできません。だから「知る」ことしかできないのです。

ただ興味本位だけで過去を知るのは自己満足なだけでたいして意味はありません。でも過去を知りそれを未来に活かした行動をするのであればこの「知る」ことについてとても価値があるものとなるのです。

ひとがほかの生命と比較をして明らかに違うことは本能ではなく意識をした行動ができるということです。これはひとの秘めた可能性の源泉です。それを有効に活用しなければなりません。

ひとが想像をすることはさまざまなことを教えてくれるのです。過去の良くない行動はもちろんのこと、そして未来のあるべき姿はたくさんのひとがさまざまな良い想像をすることで素敵な未来が現実となるのです。

ひとが想像する仮想現実が大切であるのはひとの可能性を明確に表現できる感覚であるからです。「できる」を意識した行動はたくさんのひとを助けることが「できる」のです。
2021年7月吉日

仮想現実の編 (その9)

神さまはいない~仮想現実編

第八章 新たな仮想現実の理解

仮想現実とはひとの想像が織り成す個人ごとの空間です。それは過去や未来における時間軸を共有しながらその線に沿った想像でありやがては現実となったことをみなで共有をすることの繰り返しをします。

それでは少し違う視点て考えてみましょう。われわれがそれぞれに創り出す空間は変わらずとも時間軸の線に沿ったものではなくではなく球体の中にわれわれが創る空間が無数に点在するように想像をしてみてください。いわゆる第七章にあるようにネットワークでつながり情報を共有しているようなイメージです。

もう少し想像をすると本来のその空間と空間のつながりは「志」でつながっているのです。「志」あるものはそれぞれが独自の世界観を想像した空間が存在しています。それらを互いの「志」同士でつながっているものです。

わたしの書き物をご覧になっているかたはすでにこの想像を理解されているかたもいらっしゃるとは思いますがタイトルにある新たな仮想現実としているのはこれまで気付いていなかった方への想像を意識したものです。

そしてさまざまな「志」の球体があり、さらには他の意識でつながる別の球体などがあるのです。それは太陽系の外側に銀河系あり更にその外側には・・・といった宇宙のあり様と同じイメージです。

この意識でつながる仮想現実は昔からも「類は友を呼ぶ」などの言葉があるようにみなさまも感じられているかたが多いでしょう。ひととの出会いは必ず意味があるものなのです。もちろんひとは根本的にこの身体でつながってきて身体に宿る「こころ」でそのネットワークを構築してきているのが現実としてありますが、意識でつながる精神的想像も現実としてすでにあるのです。

このようにしてひとの想像は無数にありわれわれはさらに成長をしてゆくのです。

仮想現実の編 (その8)

神さまはいない~仮想現実編

第七章 I Tと人工知能

ひとの進歩は止まりません。ひとの脳の代わりとなるコンピュータが開発されてから急速にその発展を遂げてきています。そしてその活動領域は国から地球へと、そして宇宙にまでその領域を広げひとは更なる想像を繰り広げてきているのです。

いまやPCを使ってネットワークで他者と共有することでなんでも可能となりできないことはないというくらいに通信技術を駆使してひとの社会を構築してきているのです。

仮想現実とは本来このIT(information technology)から生まれた言葉でしょう。PCを使いネットを利用して情報を共有する世界で、そのネットワークの中に自分が存在しているという仮想現実でもあるのです。そして更にはそのネット-ワークに人工知能が誕生してまさしく仮想現実が現実となっているのです。

そしてやがてはひとのこころは身体から離れてネットワークの世界にのみ存在して生き続けるのでしょう。すでにこれらを想像した映画などは数多くにあります。そしてすでにこの分野における仮想現実は現実となりつつあるのです。

第五章にある通りにこの現実とはあくまでも共有されたものであり、本来はひとそれぞれが自らに仮想現実という空間を創り出し現実と共有しながらその中で生きているということです。

ひと(=PC)それぞれによる仮想現実の空間を創り出しネットワークという技術を使って共有して生きているということです。身体にある脳の思考はPCの人口知能にとって代わり生き続けるのです。そして身体にある遺伝子情報は解明されその情報もまた人工知能の一部となるのです。ひとが想像をする人体の生体イメージの更なる先の想像の世界のひとつでしょう。

そしてこの身体のないPCに取り込まれてネットワークで共有される意志だけ世界とはあの世とされる魂だけの世界(こころの世界)と同じでこれはあの世とされる仮想現実が現実となっていることと全く同じなのです。

このようにしてひとが想像する点であるひとそれぞれの仮想現実である空間(世界)は線(ネットワーク)である共有されたひとつの世界としてすべてがつながっているのです。

仮想現実の編 (その7)

神さまはいない~仮想現実編

第六章 夢(過去について)

夢と言う言葉には二つの意味がありひとつは「こうなたい」とする未来を想像する夢でありもう一つは睡眠中に見る過去も未来も想像をする夢のことです。もともとの意味はひとつであったのですが敢えて分けてお話ができればと思います。

まずは前者についてですがこれは良くある例えとして子供の頃に「あなたの夢はなんですか」聞かれたことがあるでしょう。これは職業をイメージすることがほとんどですがこの仮想現実を想像することはこれもまた行動をすれば現実であることです。これはわかりやすいですよね。

そしてもうひとつの意味である夢もまた仮想現実ですがまだまだ解明がされていない分野のひとつです。遺伝子や脳と同じように未知の領域が残されています。ただこれらのひとについて解明されていないことには理由があるのです。第五章は主に未来について記してきたのでここでは過去の夢について焦点を当てたお話をします。

この世界は19世紀以降に急速に発展を遂げてきましたが、ただそれは主には物質的想像によるものがほとんどです。そうではなく更に遡りひととして分類される旧人類と言われるネアンデルタール人はおよそ50万年~30万年がその起源とされていますがその間に適者生存をしてきたひとの進化を理解することは当然並み大抵なことではありません。これもまた想像の範囲でしかないのです。

もちろんその時の長さも想像でしかありません。

更に理解を深めるためにはひとの進化を知ることよりもそれまでの地球のあり様を知らなければならないからです。そしてその間の地球のあり様はこの身体の遺伝子の中に記憶されているのです。その記憶を夢として見ることができるようになればこの夢さえも現実のものとなるのです。ここでは過去のことを指していますがそれは第五章にあるようなただの過去ではありません。遥か古代の過去を指しています。

このひとの想像を仮想現実である夢に転換をして地球を知ることは大抵が目覚めたときには記憶に残らないものですがそれを意識し続けることの修練をすれば目が覚めても覚えていることができます。そのきっかけとはその時に生きていたひとたちの記憶が伝って、伝ってを呼び覚ましてはその状況を知り得るものです。ただこれも空間のひとつでしかないことを理解してください。

この身体の遺伝子に記憶された情報を引き出すために夢を利用して想像をした仮想現実を見るのです。

仮想現実の編 (その6)

神さまはいない~仮想現実編

第五章 未来の記憶

仮想現実とは「こうであったら良い」や「きっとこうだろう」などとしたこの先の未来のことを意識したものです。反対に現時点から過去を想像することは記録などで計り知ることができます。ただ過去のひとがさらに過去を記したものはその時に書いたひとが過去を想像した仮想現実により書き残したものです。

この現実とはあくまでも共有されたものであり、本来はひとそれぞれが自らに仮想現実という空間を創り出し現実と共有しながらその中で生きているということです。

未来の記憶とはひとが想像をした未来の仮想現実をイメージしたものです。この先に起こるであろうその想像はこれまでもそうであったようにそれほどの違いはないでしょう。

未来の記憶とは大別をすればひとは更なる進化を遂げているのか戦争または環境破壊で自然による淘汰のいずれでしかありません。ひとが共有をする未来の想像などはいまの現実を理解すればそんなに難しくはありません。その中でわれわれひとがどのような行動をするのかが大切であるだけです。

未来の記憶とはひとそれぞれによって行動された結果を指し、われわれがいまどんな現実を創り出すのかが問題であるだけなのです。

すべての生命が想像する未来とはこの地球における適者生存でしかありません。そのなかでもひとは文明と共に進化をして、そして他の生命は自然と共に生存をしてゆきます。

ひとは想像をすることで文明を発達させてきました。物質的想像も精神的想像も同じです。

例えば想像をさらに進化させればこの先にテレパシー(精神感応)を利用した伝達方法となることなども容易に想像ができます。

もう一度記載をしますが、この現実とはあくまでもひとが共有するものであり、本来はひとそれぞれが自らに仮想現実という空間を創り出し現実と共有しながらその中で生きているということです。そしてこの精神的想像の本質がひとの「こころ」と呼ばれるものです。

仮想現実の編 (その5)

神さまはいない~仮想現実編

第四章 嘘

ひとは自分の都合が良いように普通にうそを話します。それはすべてのひとが同じです。家族でも愛する人にでも大なり小なり必ずです。ひとに気を使ったといううそであっても、それはあくまでも自分にとっての都合のよいうそであるのです。そしてこのうそ自体が仮想現実なのです。

風を引いたので会社を休むというズル休みなどは典型的な仮想現実の例えです。そして何故か本当に風邪を引いてしまい現実となることもよくあることです。風邪に限らずにうそが現実となることもみなさまはいずれかにおいて経験をしたことがあることかと思います。

仮想現実であるうそもまたを言葉に発した時点で現実になるのです。もちろん実現するまでは当然に状態、状況によって時差がありますが精神的にはすでに現実であるのです。

もうすこし別の伝え方をするとうそを積み重ねることで別の現実で生きるようになるのです。Aという現実の世界と同時にBという世界を平行に創り出すのです。夢は叶うと言いますがその夢である想像を常に意識をして行動をすればBという現実を創り出す、それがいわゆる夢が叶うということです。

ただし物質的世界では行動をしなければなりません。想像だけでも現実になりますが時間がかかります。この世界では時間に限りがあります。だからこの世界では行動をすることができるのです。物質的想像は技術を使って作るという行動をしますが精神的想像もまた同じで目的という線の上を歩いて行動をしなければ現実にはなりません。

あなたがいまいる環境である現実とは、あなたがこれまでに様々な想像をした仮想現実を選択してきた結果であるのです。

仮想現実と現実は別物ではありません。そこに時差があるだけで空間は一緒なのです。よく理解をしてください。そこに行動という現実を必ず行ってください。

ひとが生きることの線とは真っ直ぐな一本の道ではなく仮想現実という想像をすることで幾通りにも枝分かれをした道をその都度選択をしながら進みます。それはうそという想像も全く同じです。そしてうそを選択すればするほどにどれが現実であるのかわからなくなるのです。そして勝手に自分で選択したことさえ忘れて都合よく環境のせいにするのです。

仮想現実の編 (その4)

神さまはいない~仮想現実編

第三章 あなたが見ている世界

あなたはいまどんな世界を観ていますか
自分がお金持ちであるイメージ
みなから賞賛される世界
自身がすべてにおいて一番である世界
今日一日の予定
一分先のイメージ
ひとが笑顔で絶えない世界
真っ暗な世界
崖の上に立っているイメージ
ひとを楽しませている様
過去の自分
アニメの主人公になった自分
家族や友人など大切なひとたちが思い浮かぶ様

どれひとつをとっても毎日が同じではないでしょう。それはそのときの感情によって変わるからです。そしてこれらはどれも叶えられるものです。
ではあなたが目を閉じてこころで観ている世界はどんな世界でしょうか。その世界は毎日が変わるものではなく毎日同じものです。そのことを意識してみてください。

自分の思い通りにならない苛立ち
自分にないものを得ているひとへの妬み
自分はこんなにも努力しているのになぜ
自分ばかりがどうして・・・

代表的なたとえですが、これが「こころの闇」です。もちろんひとによって様々です。その深さや、広さが違うだけで不平・不満はだれもがかならず持ち合わせているものです。観ている世界は違っても得ている感情はみな同じなのです。

わたしが敢えてこのような表現をしているのは自らを含め、これらをすべて受け入れなければならないということです。そしてひとはこの表と裏、左と右がある感情の中立を保とうとしているのがこの世界です。

自身が中立を保つために理性の言葉を伝えることや感情を制御している状態は仮想現実にあるのです。身体の中で意識して言葉を交わし合う状態は登場人物を含めて仮想現実であるのです。想像をしたことはすべて仮想現実であるということです。

仮想現実の編 (その3)

神さまはいない~仮想現実編

第二章 言葉の実践~当たり前とは

水の中にいる魚
空を飛ぶ鳥
地を駆ける動物
その頂点にいると誤解をしているひと
これらは当たり前であって実はそうではありません。

水の中にいる鳥
空を飛ぶ魚
地を駆ける自然
一番下等であるひと

これも当たり前と理解をすることです。難しくはありません。それを想像すればよいのです。受け入れればよいのです。受け入れるとは無意識の中にその理解を、その想像を取り込めばよいのです。それが当たり前のこととして。それが出発点です。

この世が仮想現実だと意識をしているひとがこの世界に少なからずいます。ひとそれぞれが仮想現実を創りだしその中に存在をしているという現実です。このような解釈は近年の映画の中でも観られる光景です。

この仮想現実は主人公である自身が命を絶つとリセットされてまた新たな仮想現実を創りだすのです。この仮想現実という言葉も本来は正確ではありませんが理解してもらうためにこの現実を仮想現実と表現をしているだけです。仮想現実が現実であるということなのです。

そしてあの世とされる空間もまたそれぞれの仮想現実の空間であるのです。そしてそれぞれの仮想現実を「こころ」称しているのです。身体に宿る「こころ」もあの世にある「こころ」も仮想現実であると同時に、これらすべてが現実であるのです。

仮想現実の編 (その2)

神さまはいない~仮想現実編

第一章 そこに「ある」こと

以前にも同様のタイトルで記載をしたことがありますがこの「ある」とはひとが想像をしてそれを言葉に発した時点でそこに「ある」ということです。ひとは脳で想像をしたことは必ず現実となります。

ひとはこのようにして物を創りだして文明を発達させてきたのです。ひとがイメージしたことは数年後に実現されています。だからこそ前述のようにひとは想像したことを言葉に発した時点で「ある」という解釈が生まれるのです。

ひとが想像したことを実現できるのは技術の問題だけです。所詮はひとが発想することです。ひとができるのは当たり前です。それができないとする根拠はないでしょう。

そしてひとはなぜ弱いのでしょうか。肉体的・感情的は動物の本能です。ひとが弱いというのは精神的なことを言います。そしてこの精神と呼ばれる感覚はひと以外の動物には持ち合わせていません。

この世は物質的世界であり、あの世は精神的世界です。これまで技術の発達に伴い様々な物が作られてきましたが精神的にひとは常に不安定な状態であるということです。それは感情にこころが揺さぶられているからです。

ひとはひとであるそれ以前にそれまで精神についての経験がないため、真っ直ぐなこころは欲を満たそうとする感情に惑わされていつも不安定な状態であるということです。

このひとだけが持つ精神と呼ばれるものを「こころ」としています。身体があるこの世は物質的世界であり、あの世とされるのが精神世界です。物質世界では物を常に求めることで感情が満たされますが精神であるこころはそうはゆきません。

感情によって欲を満たすのとは違い精神であるこころを満たすとはこの世ではそれをどうしたらよいのかがわからないのです。だからひとはあれこれを考えてはこの現実で仮定を試みるのです。こころ(精神)を成長させるために教えを求めようとするのです。