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- 因果について~「志」のままに
第三章 神さまはいない
もう一度伝えます。良い因果とは摂理のことであり、この書でも伝えている通りで摂理とは自然の法則のことです。いま一度想い返してみてください。摂理とはあなたが掲げる「志」のために必死に尽くして生きることです。そこにはすべての生命との共存共栄があり、更にはひとを守り、生命を助け、そしてその先の未来の生命を助けるためにこの想いをつないでゆくことです。これが良い因果のことであり本来のこころのあり様なのです。
この摂理を輪廻させることが良い因果の世界となります。自然はこれをひたすらに続けていますがひとだけができないのです。
例えば山を登拝している時に左から鹿が右側の離れた場所にいる鹿に「ひとが来たぞ」と警戒の鳴き声を発します。そして右から鹿もそれに応えます。ほかにも小鳥は何やら頻繁に会話をしています。このようにして動物は発する鳴き声で意思疎通の会話をしていますが動物の会話にうそは絶対にありません。
でもひとは容易に嘘をつきます。それは自分の都合が良いようにするためです。これはうそをつかなければならない問題をつくった相手が問題ではなく、自らのこころとの葛藤における問題です。ただし自然を理解すれば、摂理を知ればひととの葛藤が無くなりうそをつくという感覚もなくなります。うそをつく必要が無くなるからです。
自然が生まれる遥か以前での地球が創生される過程で火山の噴火で溶岩が地表に流れ出して固まりそれが岩となります。そして長い年月をかけてその岩が少しずつ風化して砂となり、同時に植物が生成され、その植物が腐葉して砂と同化し土となりその積み重ねが大地となります。この当たり前のことにわれわれはなかなか気づきません。自然の岩も砂も土もただそこに「ある」ものとして認識をしているだけです。それがなぜとはなかなか思わないのです。
この点で見ただけの「ある」という認識ではなく自然が生成されてきたつながりであることを意識しなければならないのです。そして自然だけではなく地球創生もまた意志そのものであるのです。
ひとは自分たちのチカラではどうすることもできない自然に対してその意志を神さまとして崇めてきており、このような自然崇拝の信仰は世界の各地でも同じようになされてきています。
ただし自然を神さまと敬い崇めてもその結果は絶対ではありません。ましてや神さまに願いごとをするものでもありませんと以前より伝えてある通りです。神さまにはただ感謝をするだけです。
この感謝の意味とはいま生きていることは先人たちからのつながりであることに感謝の気持ちを伝えるということです。
願いごとなどはひとの勝手な都合であり、天災しかりわれわれは決して自然に対して抗うことはできません。ただ神さまがわれわれに期待をしていることはそれぞれがこころを成長させてくださいとしているだけです。それは摂理さえ理解をすれば天災とて何も畏れる必要はないということ。前述にもあるこれまでの道理を知れば、そのつながりに気づけばすべてを受け入れることができます。
われわれがつながりに気づいて、理解ができるのであれば先人のかたを含む自然の神さまに願いごとをする必要がなくなります。自然と感謝の気持ちだけしか感じなくなります。われわれがこの現世で良い因果の世界を創り出せばよいのです。そして神さまたちはそれを望んでいるのです。
自然のさまざまなあり様を神さまと崇め、さらには地球創生の成り立ちさえもその意志として神さまと崇めることについて間違いではありませんがわれわれはそのあり様(つながり)を最初に理解しなければなりません。
神さまにはすがるのではなく、お願いごとをすることでもありません。ただ感謝の気持ちを伝えるだけであり、われわれのこころが成長すればそれでよいのです。そうすればやがて神さまは必要としなくなります。
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