仮想現実の編 (その5)

神さまはいない~仮想現実編

第四章 嘘

ひとは自分の都合が良いように普通にうそを話します。それはすべてのひとが同じです。家族でも愛する人にでも大なり小なり必ずです。ひとに気を使ったといううそであっても、それはあくまでも自分にとっての都合のよいうそであるのです。そしてこのうそ自体が仮想現実なのです。

風を引いたので会社を休むというズル休みなどは典型的な仮想現実の例えです。そして何故か本当に風邪を引いてしまい現実となることもよくあることです。風邪に限らずにうそが現実となることもみなさまはいずれかにおいて経験をしたことがあることかと思います。

仮想現実であるうそもまたを言葉に発した時点で現実になるのです。もちろん実現するまでは当然に状態、状況によって時差がありますが精神的にはすでに現実であるのです。

もうすこし別の伝え方をするとうそを積み重ねることで別の現実で生きるようになるのです。Aという現実の世界と同時にBという世界を平行に創り出すのです。夢は叶うと言いますがその夢である想像を常に意識をして行動をすればBという現実を創り出す、それがいわゆる夢が叶うということです。

ただし物質的世界では行動をしなければなりません。想像だけでも現実になりますが時間がかかります。この世界では時間に限りがあります。だからこの世界では行動をすることができるのです。物質的想像は技術を使って作るという行動をしますが精神的想像もまた同じで目的という線の上を歩いて行動をしなければ現実にはなりません。

あなたがいまいる環境である現実とは、あなたがこれまでに様々な想像をした仮想現実を選択してきた結果であるのです。

仮想現実と現実は別物ではありません。そこに時差があるだけで空間は一緒なのです。よく理解をしてください。そこに行動という現実を必ず行ってください。

ひとが生きることの線とは真っ直ぐな一本の道ではなく仮想現実という想像をすることで幾通りにも枝分かれをした道をその都度選択をしながら進みます。それはうそという想像も全く同じです。そしてうそを選択すればするほどにどれが現実であるのかわからなくなるのです。そして勝手に自分で選択したことさえ忘れて都合よく環境のせいにするのです。

仮想現実の編 (その4)

神さまはいない~仮想現実編

第三章 あなたが見ている世界

あなたはいまどんな世界を観ていますか
自分がお金持ちであるイメージ
みなから賞賛される世界
自身がすべてにおいて一番である世界
今日一日の予定
一分先のイメージ
ひとが笑顔で絶えない世界
真っ暗な世界
崖の上に立っているイメージ
ひとを楽しませている様
過去の自分
アニメの主人公になった自分
家族や友人など大切なひとたちが思い浮かぶ様

どれひとつをとっても毎日が同じではないでしょう。それはそのときの感情によって変わるからです。そしてこれらはどれも叶えられるものです。
ではあなたが目を閉じてこころで観ている世界はどんな世界でしょうか。その世界は毎日が変わるものではなく毎日同じものです。そのことを意識してみてください。

自分の思い通りにならない苛立ち
自分にないものを得ているひとへの妬み
自分はこんなにも努力しているのになぜ
自分ばかりがどうして・・・

代表的なたとえですが、これが「こころの闇」です。もちろんひとによって様々です。その深さや、広さが違うだけで不平・不満はだれもがかならず持ち合わせているものです。観ている世界は違っても得ている感情はみな同じなのです。

わたしが敢えてこのような表現をしているのは自らを含め、これらをすべて受け入れなければならないということです。そしてひとはこの表と裏、左と右がある感情の中立を保とうとしているのがこの世界です。

自身が中立を保つために理性の言葉を伝えることや感情を制御している状態は仮想現実にあるのです。身体の中で意識して言葉を交わし合う状態は登場人物を含めて仮想現実であるのです。想像をしたことはすべて仮想現実であるということです。

仮想現実の編 (その3)

神さまはいない~仮想現実編

第二章 言葉の実践~当たり前とは

水の中にいる魚
空を飛ぶ鳥
地を駆ける動物
その頂点にいると誤解をしているひと
これらは当たり前であって実はそうではありません。

水の中にいる鳥
空を飛ぶ魚
地を駆ける自然
一番下等であるひと

これも当たり前と理解をすることです。難しくはありません。それを想像すればよいのです。受け入れればよいのです。受け入れるとは無意識の中にその理解を、その想像を取り込めばよいのです。それが当たり前のこととして。それが出発点です。

この世が仮想現実だと意識をしているひとがこの世界に少なからずいます。ひとそれぞれが仮想現実を創りだしその中に存在をしているという現実です。このような解釈は近年の映画の中でも観られる光景です。

この仮想現実は主人公である自身が命を絶つとリセットされてまた新たな仮想現実を創りだすのです。この仮想現実という言葉も本来は正確ではありませんが理解してもらうためにこの現実を仮想現実と表現をしているだけです。仮想現実が現実であるということなのです。

そしてあの世とされる空間もまたそれぞれの仮想現実の空間であるのです。そしてそれぞれの仮想現実を「こころ」称しているのです。身体に宿る「こころ」もあの世にある「こころ」も仮想現実であると同時に、これらすべてが現実であるのです。

仮想現実の編 (その2)

神さまはいない~仮想現実編

第一章 そこに「ある」こと

以前にも同様のタイトルで記載をしたことがありますがこの「ある」とはひとが想像をしてそれを言葉に発した時点でそこに「ある」ということです。ひとは脳で想像をしたことは必ず現実となります。

ひとはこのようにして物を創りだして文明を発達させてきたのです。ひとがイメージしたことは数年後に実現されています。だからこそ前述のようにひとは想像したことを言葉に発した時点で「ある」という解釈が生まれるのです。

ひとが想像したことを実現できるのは技術の問題だけです。所詮はひとが発想することです。ひとができるのは当たり前です。それができないとする根拠はないでしょう。

そしてひとはなぜ弱いのでしょうか。肉体的・感情的は動物の本能です。ひとが弱いというのは精神的なことを言います。そしてこの精神と呼ばれる感覚はひと以外の動物には持ち合わせていません。

この世は物質的世界であり、あの世は精神的世界です。これまで技術の発達に伴い様々な物が作られてきましたが精神的にひとは常に不安定な状態であるということです。それは感情にこころが揺さぶられているからです。

ひとはひとであるそれ以前にそれまで精神についての経験がないため、真っ直ぐなこころは欲を満たそうとする感情に惑わされていつも不安定な状態であるということです。

このひとだけが持つ精神と呼ばれるものを「こころ」としています。身体があるこの世は物質的世界であり、あの世とされるのが精神世界です。物質世界では物を常に求めることで感情が満たされますが精神であるこころはそうはゆきません。

感情によって欲を満たすのとは違い精神であるこころを満たすとはこの世ではそれをどうしたらよいのかがわからないのです。だからひとはあれこれを考えてはこの現実で仮定を試みるのです。こころ(精神)を成長させるために教えを求めようとするのです。

仮想現実の編 (その1)

神さまはいない~仮想現実の編

まえがき
この仮想現実とはひとが想像をした現実のことです。ひとの想像に限りは尽きません。以前にも記載をしたことがあるのですが、わたしが小学生の頃に急な坂道を自転車で登っている時にもっと楽に登れればよいのにと思っていましたが数年後には電動機付き自転車が販売されました。

そのような事例はみなさまにもたくさんあることかと思います。ひとは想像から発明をしてゆくのです。いまあなたの目の前にある電子機器や道具の数々はすべてひとの想像から生まれたものです。

例えばひとが空を飛ぶというのは重力に逆らう道具が必要ですし身体ひとつで飛ぶことはできませんが何故飛べるのかを考えて鳥を真似た道具を使って空を飛ぶようになりやがては飛行機が登場するなどして発明を続けてきました。

ひとは上記の様な物質的想像だけでなく精神的想像についてもまた古代より呪術などによりその目的を叶えようとしてきたのも事実です。このようにしてひとが想像をすることの仮想現実とは必ず現実にできるということです。

タイムマシン、遺伝子や脳などの物質的な解明も精神的想像においても叶うものです。だからこそひとが想像をする仮想現実は現実であるのです。この書では仮想現実をテーマに想像や現実とは何かについて紐解いてゆきたいと思います。

わたしは宗教家ではありませんが精神的意識が存在していることは信じています。それを。なんでも神さまを引き合いに出して物事を解決しようとも思いません。だから今回は命題として「神さまはいない」とした書き物を綴っています。

それでは本編をご覧ください。