「自在の書」(その8)

第一章  こころの葛藤 

#7
正しい道(方法)が見つかるのは特別なチカラなのですか

⇒あなたらしさで得られるチカラです。あなたが得意とすること、上手なことは何でしょうか。何が「正しい」のかは社会通念上では法なのかもしれませんが、ひととして「正しい」とはこの場合はあなたらしさが「正しい」です。

「自在の書」(その7)

第一章  こころの葛藤 

#6
なんでわたしだけいつも・・・

⇒謙虚な姿勢と被害者意識の違いは志が在るか無いかです。そしてそのように考えることがあなたの典型的な因果です。我が強い人ほどそのように言い放ちます。単純な話です。相手のひとはあなた以上に努力をしているのです。

「自在の書」(その5)

第一章  こころの葛藤 

#4
自らの問いとは何ですか

⇒すべては因果に関することです。身の回りに起きることもそうですが、時事関連の情報などもそうです。例えば何故、無差別殺人が起きるのか、何故あんなに良い人があのような事件を起こすのかなど、この現世は矛盾、不条理の世界です。そのためにも因果を理解しなければならないのです。大体の場合、不条理や矛盾とは己の我によるものです。分相応に理解をしなければただの傲慢になります。

例えば100人の困っているひとと、ひとりの困っているひとがいます。
あなたはどちらを助けますか?と、脳からの問いかけに対してこころはひとりのひとを助ける、と答えます。もちろん数の大切さはわかりますが、わたしには100人のひとを助けるチカラはありませんし、いまはひとりのひとを助けることさえできるかどうかです。このように自らを見つめて、いま自分ができることをしてください。

それぞれに役割があります。傲慢であればあるほどに自分は特別と言わんばかりに、神さまのチカラがあるから大丈夫などといろいろな理由付けをして100人を助けると言うのです。それならば1000人のひと、万人のひとを助けてもらいましょう。でもそれよりももっと大切なことは、ひとりがひとりを助け、その結果として100人が100人を助けた方がどれだけ価値があることでしょうか。そのように努力をすることがわれわれには必要なのです。

「自在の書」(その4)

第一章  こころの葛藤 

#3
神さまからの言葉を聞いたのでしょうか

⇒脳とこころが葛藤する言葉です。自らの脳の考えに対するこころの言葉です。脳の考えは常にあなたを試していると言ってもよいでしょう。誰にもこころの声があります。そのこころの声を大切にしてください。またはさまざまなサインを通して気づくことも多々あります。そのサインに気づき、素直に受け入れてみてください。例えそのサインを間違った考えで受け入れてしまうこともありますがそれはあなたを守る神さまがしっかりと修正してくれます。

「自在の書」(その2)

第一章  こころの葛藤 

♯1
大切なひとが傷つけられたらどうしたらよいか、我慢をすればよいのでしょうか

⇒そのように考えることがあなたの因果です。傷つけられるひとが大切なひとであればあるほどにあなたの因果の大きさがわかります。一方でその因果を理解して乗り越えているひとにはそもそもそのような事は起きません。

ここで理解をしてほしいのは傷つけられたのはあなたの大切なひとであって、あなたではありません。つまりこれは傷つけられたひと自身の因果です。そしてその結果を受けてあなたに生じる憎しみの感情こそがあなたの因果です。「理(ことわり)の書」でもあるように己自身に憎しみの感情があるからこそ同じことの報いを受けているのです。あなたにその憎しみの因果がなければそのような状況にはなりません。原因があっての結果です。それぞれ個々の因果でありこれらを混同しないようにしてください。そしてあなたのせいで大切なひとが傷つけられたわけでもありません。

これもよくある話ですが、あなたには先祖の因縁が・・・と血縁関係の因果を指摘するかたがおりますが、大抵は偽りで、ひとを不安にさせて金品を騙し取る輩です。たとえもしそれが本当だとしてもそれは因果ではありません。単なるメッセージです。決してあなたの因果の罪ではないので惑わされないようにしてください。因果とはあなたの感情が創り出したもので、あなた自身で解決をするものです。決して他人(ご先祖さま)の因果を背負うものでは絶対にありません。

「自在の書」(その1)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
まえがき

この書は「理(ことわり)の書」よりも、もう少し因果について人間らしく泥臭い内容となっています。常世のお話をする前にまだ現世の何たるかをお知らせできればとの思いで書き綴りました。

そしてこのタイトルにある「自在」とは「意志のある」という意味です。それは「自分らしさ」にも通じる言葉であり、ものの見かた、考えかた、感じかたはひとそれぞれにあるものとしています。

ただ「自分らしさ」とは、簡単には見つかるものではありません。ましてや「意志」や「こころざし」など、そんなに簡単には決められるものでもありません。ではどうすればよいのでしょうか。

例えばあなたの好きなことは何でしょうか、興味が惹かれることや、夢中になれるのはどんなことでしょうか。ここからヒントなどを見出してみることもひとつです。または神道から入っても、仏教から入っても、西洋の数ある偉人たちの考え方を参考にするのもよいでしょう。

わたくしごとですが20代の頃にひとの薦めでアルベルト・カミュの「シーシュポスの神話」を読みましたが、その時は何度読んでもわかりませんでした。ただ30年後のいま、不条理という言葉の意味をやっと解りかけているのです。数ある哲学書があるにも関わらず何故かその分野ではこの本のしか読んでおりませんでした。これもつながりなのでしょうか。

もちろんあなたが共感・共鳴するひとの考えかたから入ってもよいです。一番大切なのはあなたが楽しくなるような考えかたです。あなたの身の回りにそれは必ずあります。あなたが気づかないだけなのです。

常にそのことを意識してみてください。その意識さえしっかりと持っていればあとはあなたを守る神さまが自然とあなたに合わせて導いてくれます。あなたが楽しくなる考え方です。これを忘れないでください。あなたの「信念」や「こころざし」が見つかるためのお役に立てればとの思いです。

この後に続く本文に記載をされていることは現世だけでなく常世にも通じる「意志」、「こころざし」が大切であることも綴っています。何度も伝えていますが手段・方法は違えども辿り着く場所はみな同じです。

これより先、特に「こころの葛藤」は長い文章もあれば短編で終わるものもあります。約一か月にわたり記載をしてゆきますのでご覧ください。


~目 次~

まえがき

第一章  こころの葛藤

第二章  身体の衰え

第三章  因果の苦悩

第四章 因果の本質

第五章 意志と因果

あとがき

はじまりの書(予告編)

はじまりの書 この続きはまだ書き綴っている途中です。またできましたらみなさまにお伝えいたします

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予告編


「わたしを守るみなさまに感謝の気持ちを伝えます」


辛い思い出 
いくつあったのだろう
楽しかった思い出 
どれくらいあったのかな

きっとこの身が滅ぶ時に気付くのでしょう

やはり辛い思い出のほうが
多かったのかもしれない
でも生きてきてよかったと
思うのは何故だろう

それは辛かったことが納得できたから 
その理由がわかったから

瞬きひとつの人生 
そんなに悪くはなかった
同じ想いをするひとは 
どれくらいいるのだろうか

たくさんいるといいな

つぎに生まれてくるときも 
そうでありたい
ただその時にはあなたのように 
ひとを守る役割りとして

あなたがわたしにたくさんの
してくれたことを
今度はわたしが守るひとと
一緒に乗り越えて行きたいな
そのひとはわたしに
気づいてくれるかな・・・

つながりとは
こうゆうことも
伝えているのでしょう

ひとにこころから幸せだと
感じてもらうこと
そして神さまをも喜ばせるとは 
そうゆうことですよね

いま神さまは喜んでくれているかな
もちろんわたしは幸せでしたよ

たくさんのこと 
教えてくれてありがとうございます

みなさまもこの気持ちに
気づいてくれたなら
もっとたくさんのひとが幸せに
満ち溢れたた世界となるのかな


あとすこし・・・
まだ やり残したことがあります

つぎのひとたちにこの想い 
伝えてゆかなければなりません
 
あともうすこしかな・・・

これが常世に向かうための 
はじまりです

理(ことわり)の書(その11)

あとがき

われわれの生きる様とは
「正しい教えを学び(道)、正しい方向性を導き、正しく生きてゆくこと」です。
ここにある「正しい」とは自分らしいという意味です。この自分らしさが見つかるまでは多くの書物に記されていることに準じた考えでもよいでしょう。

わたしの生きる様とは
「因果を知り、信念・志を掲げ、真っ直ぐに貫いて生きてゆきます」としています。

わたしの信念は
「すべての生きとし生けるものが幸せに満ち触れた世界となることに
チカラを尽くします」としています。

わたしが常に意識をしていることは
「ものの見かた、感じかた、考えかた」です。

この身体にも大分無理をさせてきましたが感謝の気持ちしかありません。わたしの道はまだまだ途中なのでこれからも探求してゆきます。そしてこれまで以上にみなさまのお役にたてればとの思いです。決して見返りを求めるものではありません。

ここに至るべくわたしの過去をみなさまにお伝えいたします。
わたしは1965年生まれで幼い頃よりわたしの実家には神棚(龍神さま)と仏壇があり、子どもの頃から母親が毎日のようにお水をあげていたのを目の当たりにしていました。高校生の頃にある時にふとこれだけ毎日神さま、仏さまにお水をあげていればその神さま、仏さまたちはきっとうれしいだろうと思っていました。

そうして二十歳を過ぎた頃から毎年の初詣はわたしなりの感謝の気持ちとして神棚の元となる神社への参拝を毎年欠かさずに行くようになりました。しばらくはお願い事ばかりをしていたものですが、ただ何かに守られているという感覚や思いは段々と強く感じるようになりました。そして神さまを信じていれば良いことも悪いことも起きないが良いことを起こしたくば自らが努力をしなければならいという考えをもっていました。マンション住まいに代わっても部屋には神棚は設置をしてお水は上げていました。またある時にはとても叱られたと感ずることもありました。

時を経て2018年7月に仕事の部署が変わり少し時間を作れるようになったので以前より興味があった場所(毎年初詣に行っている神社の遷宮前の場所)へ参拝をすることができました。その場所に赴いて参拝後に境内を降りた所で無意識にふと空の写真を撮りました。もちろんこれまでに空の写真など一度も撮ったことはありません。翌日には戸隠神社にも参拝をし、その時にも無意識の内に写真を何枚か撮っていました。

そうして一週間ほど経った頃でしょうか、両日に撮った写真を見返してみればそこには龍神さまのお姿が現れていることに気づきました。とても驚いたのですが同時に涙が溢れて止まりませんでした。これまで良いことよりもむしろその逆のことを多くしてきたにも関わらず、それでも見放さずに守ってきてくれたことに対して、何度か事故で死の直前までを経験してきたことや、数々の身体の不調にも遭いながらも、いまが健康であることに対して、すべてを助けてきてくれたことへの感謝の気持ちで涙が溢れ出て止まりませんでした。それからというもの休日には神社・仏閣を巡るようになり多少なりとも祝詞や真言も覚えるようになりました。

そして2019年にはただ神さま、龍神さまの近くに行きたくてさまざまな霊山の山頂にある奥宮を目指して登拝(山登り)をするようにもなりました。もちろん登山など初めてです。山頂までの道のりは大変な思いもしましたが同時に自然から多くのことを学びました。毎回ひとりでの行動なのである時は登拝時に霧と大雨で復路がわからずに遭難しそうにもなりましたが雨水の流れに沿って進めばよいと感じて無事に下山をすることができました。また日の出に合わせて朝の4時頃の真っ暗な闇の中で懐中電灯を照らしながら登拝をしたことも幾度もありますが不思議と怖いと思うことはありませんでした。

わたしは神道と仏教に興味を持ち神社・仏閣を参拝しながら登拝もするようになったことで山岳信仰にある神仏習合の考えが馴染むようです。また偶然ですが行く先々の神社・仏閣が役小角さまゆかりの場所であったことなどもその理由のひとつです。2020年もいろいろと登拝したい山が数々あるのですが社会情勢がひっ迫をしている中で無理はせずにとりあえずはおとなしくしています。でもその代わりにこの書をみなさんにお伝えすることができるようにもなりました。

いまは別段お金にも興味ありませんし生きてゆける分があればそれでよいです。ただお金に多少の余裕があるのは構いませんが、強欲だけはダメです。またこのブログも本文に集中してもらいたく広告が苦手で有料で自分のお金を出して掲載をしています。そして普通に仕事もしています。

私自身もそうですがスピリチュアルという分野がよくわからなくても、われわれは生きている中で精神世界について多少なりとも疑問を感じることがあるはずです。これを私なりの経験で得た理(ことわり)についてどこか一節でもよいのでみなさまのお役にたてればとの思いで書き綴りました。

現世・常世・神さま・因果など、いきなり突拍子もない言葉がでてきてはじめての方はよくわからないことも多々あるかと思います。ただインスタやブログを通してこの書を知った方は少なくともこうした分野に対してそれなりに興味があるものと思っています。何度か読み返しているうちにわかることもあるはずなので長い目でご理解をください。わからなければブログからでもインスタDMからでも質問をしていただいても構いません。

最後に何度も伝えているようにみなさまにはみなさまの理(ことわり)があってよいのです。ただそれが見つかるまでにこんな考え方もあるのかとしてお役に立てればとの思いです。

みなさまにとって大切なお時間をいただきましてありがとうございます。

                              2020年5月吉日