[志]のままに(その1)

因果について~「志」のままに

まえがき

言葉とは都合のよいものです。言葉とはひとを育てることができますが同時にうそを付いて傷つけることもできます。でもそれは言葉が悪いのではなくそうした言葉を利用するひとがいけないのです。どんな言葉でもそれを扱うこころのあり様で違うものです。そして言葉とは行動を伴ってこそ信頼されて、はじめてひとのこころに伝わるのです。

わたしの場合、その言葉と共に行動もまだまだ道半ばです。多分この現世で終わることはないことでしょう。この身体の寿命を迎えるまで探求し続けていることが容易に想像できます。この先、生涯をかけて探求し続けるのでしょう。

もちろんそんなに簡単にわかるものではないと初めから承知しています。たださまざまに道しるべや気づきを与えてくれます。こちらで記載をしている言葉は自分で理解をしているようでもできていないことがたまにあります。そして綴り続けることでその理解が深くなることも事実です。書くことでつぎから、次へと言葉が浮かんでくるのです。綴ればつづるほどにさきへ先へとつながるようになるのです。

昨年5月から始めた因果についてをテーマに「こころ」を説いてきました。最初はブログのまとめを目的にはじめた書き物。「理の書」で終わるはずが書き終えた時にはすでに次に書きたいことがすでに浮かんでいました。前述の通りにつづれば綴るほどにつながってゆくのです。そしてこちらもまた記載している最中すでに次のシリーズが頭に浮かんでいます。

「神さまに感謝の気持ちをもっと近くで伝えたい」がここ2年くらいの想いです。近いも遠いもそんなこと同じであるともわかっています。でも言葉で表現をするとこのようになるのです。ただこの言葉の本当の意味はもっと近くで伝えたいとの「近く」とはもっとこころを成長させたいという意味です。もちろん距離の意味もあるのですが・・・

龍神さまに、わたしを守る神さまに、この気持ちを伝えたくていまがあります。この身体の寿命が尽きる時もこの想いは変わりません。
そしてさまざまな場所に赴くことで

たくさんのかたたちと出会い
たくさんのかたたちの想いに気づかされ
たくさんのかたたちのやさしさに触れています 

そして

たくさんのかたたちに感謝の気持ちを伝えるために
もっと、もっと近づいてゆければと思っています。

それでは本編にご期待ください。

目次

まえがき
第一章 こころと身体
第二章 摂理とは
第三章 神さまはいない
第四章 導きとは
第五章 価値とは
第六章 尽くすこと
第七章 信頼
第八章 感情
あとがき

以上

こころの起源 (その11)

水鏡に映るお姿

あとがき

わたしが20代の頃には「こころ」がとても澱んでいました。ひとはみなが目に見えることばかりを大切にして一体なんなのだろうと・・・。そしてそんなひとたちを信じることはせずに自分勝手に生きていました。そんなある時、電車に乗っていると健常者のひとに連れられた白状を持った盲目の男性がわたしの横に座り、いきなり「お兄ちゃん良い服を着ているね」と言われました。わたしはその当時の「ひとを信じない」という思いからか即座にそのひとの耳元で「普通のひとは安物の服でも気がつかないんですよ」と自慢げに答えたらその盲目の男性は「そうか」と大声で笑っていたことを30年たったいま思い出しました。

その男性はどんな意味でわたしに言ったのでしょうか。「俺は盲目でもお前の服は見えているぞ」とわたしをからかったのでしょうか。また30年もたったいまになってなぜそのことを思い出したのでしょうか。もしかしてその盲目の男性はわたし自身であったのでしょうか、またはわたしを守る神さまであったのでしょうか・・・

いまであればわたしはその光景(空間)に入り込んでその時の自分に「お前が本当にこころの目が大切だと言うのなら、お前のそのうわっ面なこころ自体が間違いだから勝手な思い込みでひとに迷惑をかけるのは止めなさい」とたしなめていることでしょう。

この書ではこころの成長において「時間」は関係ありませんとしています。線である時間とは点である空間の積み重ねのことであり前述にある「盲目の方との会話」の出来事は空間としてこころの中に切り取られた状態にあるのです。過去を思い出したのではなくこころにある空間を引っ張り込んだだけで、それはまるで本を読むかのような感覚の1ページであるに過ぎないのです。

わたしはただの「志」を持った求道者です。この世(現世も常世も)についてわたしなりにひとつの答えを持っていますが、また違った答えもつ方は他にもたくさんおられます。そのこと自体はとても大切でありさらにもっとさまざまな答えをもった方が増えてほしいことに変わりありません。

決してわたしを守る神さまは超えられない壁だとわかっていてもいつかもっと近づいてみせるという思いで必死になって後を追い続けています。そしてきっとまた、そんなわたしをみて「そうか」と大きな声で笑っていることでしょう。その意味は「なんだ、お前はまだその程度なのか」というこころの声が聞こえてきます・・・・

「こころの起源」についてご覧いただきありがとうございます。

2021年1月吉日

こころの起源 (その10)

水鏡に映るお姿

第九章 自然に還る

自らの因果を知ると、その原因を創った時と同じ抑えきれない衝動で胸が高まる想いが募ります。そのように感じる度に、いま生きている理由に気づくのです。そしてこころを成長させるために、今度こそはとわたしを守る神さまに期待をされ、また自らもそれに応えなければならいと感じるのです。

その衝動も原因があり結果としてその因果を消すために自らの「志」に気づくことができるものと感じています。「志」は信念であり、ひとが生きるための目的であり行動です。本編第五章でも伝えているように太古の時代においてひとは摂理である良い因果の世界で秩序が保たれていました。いわゆる互いの感謝の気持ちや助け合いなどに満ちた世界のことです。このようにしてひとは自然の一部として行動することが本来のあるべき姿なのです。

ただひとには感情があり、その感情はやがて欲に変わり悪しき因果を創ります。因果を理解するものであればその因果を消すためにこころを成長させようとし、やがて因果とはこころの成長のためにただ「ある」とした存在に気づくのです。そして因果がわからないものは何度も過ちを繰り返しては悩み続けることでしょう。

因果が生まれたことにより都合のよい言葉が生まれ、ひとは惑わされるのです。ひとが摂理のままに生きるのであれば本来、言葉は必要ありません。ただし因果の世界であるこの現世でひとは言葉によって「志」を掲げなければこころを成長させることができないのです。

自然に宿る神さま(こころ)は限りなく「無」に近い存在という概念は遥か以前より「ひとは死後に自然に還る」として、それは身体を土に還すという意味として知られていますが、本来は「こころを自然に還す(戻す)」という意味が込められているのです。すなわちこころを良い因果の秩序で保つ自然に戻すということを伝えているのです。

自然に宿る神さま(こころ)とは「自然のままに」という役割がある意志だけの存在です。それはもはや言葉すら必要としない「志」による意志だけの状態であるということです。自然に「意志」、すなわち「志」があることはすでにみなさまも感じているはずです。

たとえひとが強欲によって自然から離れてしまっても自然はわれわれを見守ってくれているのです。自然は「志」ある存在です。ときには厳しくもあり(荒魂)、ときにはやさしくもあり(和魂)と感じているからこそ、これまでひとは長きにわたり自然を崇めてきているのです。

そして「自然のままに」とは未来のために、ひと助けのためにとした「志」のことでもあります。その意味とはすでに記述をしている「その先の扉 第五章」からの引用をいま一度ご覧いただき是非理解をしてください。

「植物の花はただきれいに咲かせるために一生懸命なのです。それが役割なのです。だからこそ花を見たひとはそれをきれいだと感じて花はみなに好かれるのです。もちろんきれいに咲くこと以外にも昆虫に蜜を与えてはその代わり身体に花粉を付け運ばせて次の花たちへと生命をつなげているのです。」

これは生命を育みながらも互いにほかの生き物と助け合い自らは更に未来へと意志をつないでいるのです。このような摂理の中でわれわれは生きていることを理解してください。

これが言葉なくとも自然の一部として「志」を掲げた役割のひとつでもあるのです。

こころの起源 (その9)

水鏡に映るお姿

第八章 自然とひとの世

自然は地球の環境にあわせて生態系の秩序、いわゆる適者生存を養ってきました。その食物連鎖において生き物は数と質のバランスで調整しているのが自然にあるこころです。

ただ自然界の食物連鎖とひとが考える生命の尊さは違うものです。ひとが故意に動物を殺めることの生命の大切さとは自然界の秩序ではなくひとが生み出した都合のよい倫理観の話です。

ひとの傲慢さとは「あの動物は可愛いから大切」、「あの動物は食するために必要だから殺生する」などはひとの勝手な都合なのです。いつからひとが中心となってしまったのでしょうか。すべてはそのような社会の仕組みを創ったひとの傲慢さががいけないのです。

すべての生命は自然界の秩序を本能で感じているからこそ食物連鎖があるのです。食物連鎖とはそれぞれの生命がそれぞれの役割をもって秩序を保ってきているのです。
「その先の扉 第五章」ではひとが最低限の生き物を殺めることの共存共栄についてはお伝えをしてきた通りですが、それはひとが自然界の一部であることの道理です。

そして生命の考え方についても左でも右でもなく真ん中での考え方で立ち居振る舞いをして、未来のひとたちにその想いをつなげることが大切であるとしています。

太古の時代より自然は何も変わらないのにひとだけが変わってしまったのです。ひとの世ではその質の秩序が乱れ強欲によって争いを繰り返してきた時代からやがて「志」によって争いをなくす世を目指そうとしたのがおよそ2000年前ころとなります。例えば争いにおいてひとを殺めることがあっても相手の「志」を継ぐものとしてその責任を負うものでした。

生き物の命を大切にするということは、ひとの役割を問題とした話です。ひとは自然界の一部であり自然を背にした考えかたに戻ることを目的とした「志」は、あくまでもひとの「質」を高めるためとして、その「役割」に気づく話のことなのです。

自然界において未来に起きる出来事の原因はいまわれわれの行動によるものです。だからこそいまわれわれは高い「志」を掲げて未来のひとたちのために役割をまっとうしなければならないのです。

こころの起源 (その8)

水鏡に映るお姿

第七章 こころのあり様とは

神さまを例えるにあたり荒魂という荒々しいこころのあり様と和魂という優しいこころのあり様で表現をすることがあります。そしてこのふたつの側面はわれわれにも持ち合わせているものです。そして「志」が高いこころほどこの性質による想いが強く現れます。

ひとは因果を創っては消してゆく。同じことを繰り返すのはただただこころを成長させるためだけに在ります。ひとが輪廻をするのではありません。因果が輪廻をするだけです。ひとは因果の道具にしかすぎないということです。

ひとが中心なのではありません。自然にあるこころが中心なのです。原因があって結果があることは摂理そのものです。良い因果もそうでない因果もまた自然のままにあることなのです。われわれはこの自然のままでひとの役割に尽くしてゆかなければならないのです。
因果を消してゆきその先にあるのが「志」なのです。それは因果をひとつ一つ消してゆくことであなたの「志」が生まれてゆくのです。

前世ですでに因果を乗り越えてこの現世で最初から「志」に気づいて役割を果たそうとするものもいれば、この現世で因果を越えて「志」に気づくものもいるでしょう。
いずれにしても「因果」が「志」のきっかけとなっているのです。この現世での地獄をみて湧きあがる衝動や葛藤はあなたにある良い因果そのものであり、それは「志」の源泉です。

そして「覚悟」とは「志」のことでもありそれを支えているのが「荒魂」であり「和魂」です。自然に宿るこころがもつ「和魂」と「荒魂」はひとが根本的に崇める対象となっています。荒魂が良い因果なのかそうでないのかはまさにあなたのこころのあり様しだいなのです。

以前にもお伝えしている通りあなたの正しさは他人にとって必ずしも正しいことではありません。それでも個々に「志」ある役割を果たさなければならないのです。できるだけ多くのひとが「志」に気づいて役割を果たすのです。それがわれわれにできることです。その先にある自然のままにとした役割はわれわれの役割ではなく自然にあるこころの役割です。

「こころの成長」とはゆるぎない覚悟をもって「志」を掲げることです。

こころの起源 (その7)

水鏡に映るお姿

第六章 こころの闇

地獄という言葉は仏教に由来する言葉ですが、そもそもなぜこのような言葉が生まれたのでしょうか。その原因は因果によるものということは以前にお知らしているとおりです。地獄とはひとのこころを傷つけることを言うのです。

ただ大体がその当事者であるひとが「因果」ということを理解していないので起きている事象を地獄とは思っていないだけです。この現世で起きる偽り、いじめ、虐待、強盗、殺人・・・という行為がまさに地獄そのものなのです。地獄とは別の世界の話ではなくあなたのすぐ隣でこころの闇によって日々行われているのです。

そして自殺もまた自らの思い通りにするという我を通したある意味で強欲によるものなのです。それを意思が弱いという言葉に置き換えているのです。そのような因果を打ち消すためには「志」を持つことがなによりも大切なことなのです。

こころの闇とはだれもが持ちあわせている因果です。誰もがひとには言えないこころの闇を抱えています。これは因果の根本でもあります。抑えきれないような感情といってもよいかもしれませんが通常はこころの奥深くに蓋をして閉じ込めています。ただある時に何かのきっかけでその感情が抑えきれなくなり行動に現れてしまうのです。

こころの闇とは、こころのあり様次第で程度の差はあってもひとそれぞれに必ずあり、因果においてもっとも奥深いものです。

たとえばですが虐待により衰弱死をさせた事件があり胃や腸の中には食べ物の代わりにゴミが入っていたなどの耐え難い事件を知った時に、ひとの感情は強く揺さぶられることでしょう。

この衝動は強い信念や「志」をもつひとほどにその強く現れるものです。もちろん前述のような事件を知ってもなんとも思わないひともいるのです。

こころの闇とは因果の結果を引き起こすための様々な原因の束のようなものなのです。ひとがもつ因果とは決してひとつではありません。そして衝動とは因果の結果を引き起こす引き金であるだけです。ただ「志」が強ければ強いほどに衝動も大きく、その衝動によって自らの「志」をさらに強く掲げるようになることも事実です。

こころの成長とは因果にも支配されることなくわれわれみなにあるこころの闇をひとつずつ消してゆかなければならないのです。

こころの起源 (その6)

水鏡に映るお姿

第五章 自然のこころとは

なぜ天災が起きるのか、それは天災を起こす自然に聞くことが一番でしょう。この言葉の意味はとても大切です。

それは何故、因果が起きるのかについては因果を理解することが一番であるのと同じです。でも当事者はそもそもが因果ということに気づいていないひとが多いのです。だから理解をすることができないままなのです。そして天災が何故起きるのかについて自然に問うということもまた同じで、われわれ自身が自然に気付かなければその理由を導いてはくれません。だから「起きる」ことが必然であるという解釈となるのです。

それでは少しずつ紐解いてみましょう。まずはわれわれが普段使う自然という言葉についてお伝えをします。

われわれが普段使う「自然に〜」と「は成り行き」の意味として使われることが多いですが、これは「そのままに」という理解ですが、実は「素のままに」であり「穢れないこころのままに」ということなのです。

これはその時のこころのあり様でそれぞれに感じかたが違うものです。自然が起こす天災も因果であり、原因があっての結果です。地球は生きているとの表現の仕方がありますがそれは自然のままに(穢れないこころのままに)起きる出来事でしかないのです。

ただ自然が起こす事象についてひとは都合の良いことだけに感謝をして、都合の悪いことは自然に対して「なぜ」として抗うのです。天災という言葉がその良い例です。ひとは都合の悪いことは天の災いとして意識するのです。そして自然には自然の因果があり、ひとの因果を自然が背負うものではありませんし、また逆もしかりです。

そして天災もわれわれひとのこころのあり様次第で受け取りかたによって違います。こころが未熟であれは天災を悲劇とするでしょうが、こころが成長しているひとにとっては「当然」と理解をするのです。

さらには冒頭にある天災はなぜ起きるのかという疑問自体がおなしな話なのです。自然(地球)は生きています。この生きているという原因によって結果として天災が起きているだけです。ただ事象が「ある」だけなのです。

われわれは根本的に誤解をしているのです。ひとのために自然があって、地球があるのではありません。地球があって、自然があってひとは生かされているのです。ひとが中心であると傲慢な思い違いをしているのです。

理解をしてほしいことはひとの因果が原因で天災が起きるものではありません。天災とはただ自然(地球)が生きているという結果によって起きるだけです。

天災とはそもそもひとが使う言葉であって自然にとってはごく当たり前のことです。これを災いとしているのはひとの勝手な都合です。「自然のままに」というこころのあり様ですべてを受け入れなければならないのです。

天災は自然(地球)もまた生きているという理由があり天災が起きるという必然なのです。これはひとが生きている(こころを成長させる)という原因があって出来事(因果)起きる結果と同じです。

こころの起源 (その5)

水鏡に映るお姿

第四章 良い「因果」

法で治める世界よりも遥か以前では「自然のままに」とした秩序のもとで世界が保たれてきました。その秩序とは「良い因果」のことであり「良い因果」とはひとの助け合いであったあり、ありがとうと言い合える感謝の気持ちによる互いの行動であったりと、それは慈愛に満ちた世界でした。そしてこの「良い因果」とは摂理そのものでもあるのです。ちなみに摂理とは自然の法則のことを言います。

ただその摂理である「良い因果」はやがてひとの欲に押しのけられて、強欲による「悪い因果」と入れ替わり純粋な「こころ」とたもとを分かつようになってしまったのです。

初めは良い「因果」と「こころ」はひとつであったのですが強欲な「因果」が生まれたのと同時に摂理から離れて「こころ」とは別もののようになってしまったのです。
もともとはひとつであったがゆえに「こころの成長」とはこの「悪い因果」を無くすことが大切であり、それは同時に良い因果を取り戻すことでもあるのです。そのために信念・「志」が必要となるのです。

「すべてはこころの成長のために出来事(事象)はある」ことは自然の役割です。こころはその成長度合いに応じて平時でも戦時でもさまざまな「~らしさ」で成長して、お互いの信念・志が交錯する中でこころを成長させてゆくのです。

たとえば争いごとにおいて互いに志を掲げ戦いますが敗者は相手の信念の礎になるものと覚悟をして散りゆき、勝者はその意志を背負ってさらにその志を貫いてゆくのです。このようにしてはじめは「志」同志の争いであったのに次第に強欲の争いごとへと変わってしまったのです。

いまでは平和の世も戦乱の世もこころのあり様次第が違うだけで欲に溺れその結果で起きる事象に変りありません。前述にもありますが太古の時代にあった互いに助け合い、互いに感謝をした行動をするなど穢れのない「良い因果」は全くなくなってしまったのです。

自然の一部である「よい因果」とは「志」のことです。いまわれわれはそのこころを取り戻そうとしているのです。

こころの起源 (その4)

水鏡に映るお姿

第三章 「志」

わたしが良く伝えているこころのあり様とは成長度合いに応じて様々です。こころの成長に終わりはありません。そしてこころの成長度合いによって起きる因果もさまざまです。こころの成長とは自らが因果を気づくことに意味があるのです。

例えば望まないことや嫌なことが起きることはそれ自体が因果であるのでわかりやすい指標です。「自分はこうだから」結果として「そうなったんだ」と素直に理解をすればそんなに難しくはありません。ただそれを認めたくないために無意識にひとのせいにしたりするのです。それに嫌なこととはすぐに感情となって現われてしまうので、冷静に因果と認識をするのは難しいのです。だからなかなか気づかなくなってしまうのです。

「志」とはあなたの「覚悟」のことです。覚悟の漢字はそのままに「悟りを覚える」ことです。その「悟り」とは「志」のことであり、あなたの「役割」として行動をすることです。逆に言うと「覚悟」がなければ「志」は続きません。それほどに「志」とは大切なものなのです。ご存じのように「覚悟」とはゆるぎない信念のことです。

この先もどんなにも辛いことが待ち受けていることでしょう。その時に「こんなはずではなかった」と思うようなら初めから「志」など掲げないでください。それほどまでに「志」をもったこころとは尊いのです。

あなたが創る「志」の世界とは完璧でなくても構いません。あなたらしさでひとを助けることができるのであればそれでよいのです。長所をできるかぎり伸ばしてください。完璧でないあなたの短所は必ずだれかが補ってくれるものです。だからこそ「~らしさ」の「志」がたくさん必要となるのです。そのようにして互いに助け合いながらに更にもっと大きく満ちた世界が創られてゆくのです。

こころは現世も常世もさまざまに経験をして成長します。あなたのこころはそのあり様次第でさまざまに世界(空間)を創ることができるのです。

あなたのこころの中に現世も常世もあるということを理解してください。

そして「志」が高ければ高いほどに、大きいほどに、尽くせば尽くすほどに「志」は「こころ」と同化して「~らしさ」の世界観による空間を創り出すのです。

こころの起源 (その3)

水鏡に映るお姿
第二章 そこに「ある」こと

ひとは脳で考えたイメージを言葉に発した時点でそこに「ある」のです。この「ある」とはイメージのことです。もちろん事実ではありませんがそれは時間の問題です。

この「ある」とは「できる」とした意味です。ひとは脳で考えたイメージを必ず実現することができます。これは実現させるために要する時間が違うだけです。そしてこれまでもそのようにして科学を発達させてきました。

そしてあなたに起きる出来事はあなたに必要だからこそ起きるのであって、それはただ「ある」だけです。たとえ神さまも、因果も、こころも、信じなくともあなたにとって必要なことがあなたの目の前で起こるだけです。これは自然の中で生きる法則(摂理)なのです。

ただ「ある」という表現の仕方をしているのは起きる出来事をそんなに難しく考えないでくださいと言うことです。いつでも・どこでも・だれにでもあなたに必要だから「起きる」ことなのです。

ひとは自然の一部であり、原因があっての結果とはそもそもは「自然のまま」に「ある」ということです。そして良い因果とは摂理のことをいいます。摂理についての一例は先の「その先の扉 第五章」でお伝えした通りです。自然に生きるものは明確な役割をひたすらに果たしているだけなのです。ただひとだけはそのことに気づかないものが多いのです。

いにしえの時代よりひとは摂理から離れて独自の社会や秩序を築いて成長してきました。いまさら「こころの成長」などと言われてもその言葉を理解することはなかなか難しいものです。そんなことを意識せずともこれまで生きてこられているからです。

これはひとがすべての中心であるという傲慢な姿勢を創ってきたからにほかなりません。でもその結果がさまざまに問題を抱えてきているのです。だからこそいま一度、自然を知り、自然の一部であることを理解しなければならないのです。

「こころの成長」とは「すべての起きる事象はこころの成長のためにある」として起きた事象は因果の結果でありただそこに「ある」としています。その結果に対する原因とは「こころの成長」であるということです。たとえ因果応報を理解しているかたでも因果を自然と結び付けて意識したことがあるでしょうか。

それは自然の仕組みを理解すれば自ずと因果の本質も理解することができるということです。それら起きる出来事を点で感じればさまざまに不条理であると想うことばかりでしょう。でも自然というこれまでのつながりを線で考えた結果を知ることができれば因果の先にあるのが「志」であると自然と導かれるのです。

自然とは自らが一生懸命に生きるのと同時に相手をも活かし(助ける)、更には未来に想いをつなげる行動をしているということです。そして自然に生きるそれぞれに「~らしさ」をもって役割に尽くしているということです。これが良い因果のことです。このことがわかればその真逆である因果(悪い)がどのようなことがわかります。

自然は純粋で素直なだけです。天災など自然がひとに与える影響は図りし得ないこともありますが、それはわれわれだけでなく自然に生きるすべての生命に影響があるのです。ひとだけが特別なのではありません。自然に優劣などありませんし自然では生きるものすべてが一緒なのです。