はじまりの書(予告編)

はじまりの書 この続きはまだ書き綴っている途中です。またできましたらみなさまにお伝えいたします

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予告編


「わたしを守るみなさまに感謝の気持ちを伝えます」


辛い思い出 
いくつあったのだろう
楽しかった思い出 
どれくらいあったのかな

きっとこの身が滅ぶ時に気付くのでしょう

やはり辛い思い出のほうが
多かったのかもしれない
でも生きてきてよかったと
思うのは何故だろう

それは辛かったことが納得できたから 
その理由がわかったから

瞬きひとつの人生 
そんなに悪くはなかった
同じ想いをするひとは 
どれくらいいるのだろうか

たくさんいるといいな

つぎに生まれてくるときも 
そうでありたい
ただその時にはあなたのように 
ひとを守る役割りとして

あなたがわたしにたくさんの
してくれたことを
今度はわたしが守るひとと
一緒に乗り越えて行きたいな
そのひとはわたしに
気づいてくれるかな・・・

つながりとは
こうゆうことも
伝えているのでしょう

ひとにこころから幸せだと
感じてもらうこと
そして神さまをも喜ばせるとは 
そうゆうことですよね

いま神さまは喜んでくれているかな
もちろんわたしは幸せでしたよ

たくさんのこと 
教えてくれてありがとうございます

みなさまもこの気持ちに
気づいてくれたなら
もっとたくさんのひとが幸せに
満ち溢れたた世界となるのかな


あとすこし・・・
まだ やり残したことがあります

つぎのひとたちにこの想い 
伝えてゆかなければなりません
 
あともうすこしかな・・・

これが常世に向かうための 
はじまりです

理(ことわり)の書(その11)

あとがき

われわれの生きる様とは
「正しい教えを学び(道)、正しい方向性を導き、正しく生きてゆくこと」です。
ここにある「正しい」とは自分らしいという意味です。この自分らしさが見つかるまでは多くの書物に記されていることに準じた考えでもよいでしょう。

わたしの生きる様とは
「因果を知り、信念・志を掲げ、真っ直ぐに貫いて生きてゆきます」としています。

わたしの信念は
「すべての生きとし生けるものが幸せに満ち触れた世界となることに
チカラを尽くします」としています。

わたしが常に意識をしていることは
「ものの見かた、感じかた、考えかた」です。

この身体にも大分無理をさせてきましたが感謝の気持ちしかありません。わたしの道はまだまだ途中なのでこれからも探求してゆきます。そしてこれまで以上にみなさまのお役にたてればとの思いです。決して見返りを求めるものではありません。

ここに至るべくわたしの過去をみなさまにお伝えいたします。
わたしは1965年生まれで幼い頃よりわたしの実家には神棚(龍神さま)と仏壇があり、子どもの頃から母親が毎日のようにお水をあげていたのを目の当たりにしていました。高校生の頃にある時にふとこれだけ毎日神さま、仏さまにお水をあげていればその神さま、仏さまたちはきっとうれしいだろうと思っていました。

そうして二十歳を過ぎた頃から毎年の初詣はわたしなりの感謝の気持ちとして神棚の元となる神社への参拝を毎年欠かさずに行くようになりました。しばらくはお願い事ばかりをしていたものですが、ただ何かに守られているという感覚や思いは段々と強く感じるようになりました。そして神さまを信じていれば良いことも悪いことも起きないが良いことを起こしたくば自らが努力をしなければならいという考えをもっていました。マンション住まいに代わっても部屋には神棚は設置をしてお水は上げていました。またある時にはとても叱られたと感ずることもありました。

時を経て2018年7月に仕事の部署が変わり少し時間を作れるようになったので以前より興味があった場所(毎年初詣に行っている神社の遷宮前の場所)へ参拝をすることができました。その場所に赴いて参拝後に境内を降りた所で無意識にふと空の写真を撮りました。もちろんこれまでに空の写真など一度も撮ったことはありません。翌日には戸隠神社にも参拝をし、その時にも無意識の内に写真を何枚か撮っていました。

そうして一週間ほど経った頃でしょうか、両日に撮った写真を見返してみればそこには龍神さまのお姿が現れていることに気づきました。とても驚いたのですが同時に涙が溢れて止まりませんでした。これまで良いことよりもむしろその逆のことを多くしてきたにも関わらず、それでも見放さずに守ってきてくれたことに対して、何度か事故で死の直前までを経験してきたことや、数々の身体の不調にも遭いながらも、いまが健康であることに対して、すべてを助けてきてくれたことへの感謝の気持ちで涙が溢れ出て止まりませんでした。それからというもの休日には神社・仏閣を巡るようになり多少なりとも祝詞や真言も覚えるようになりました。

そして2019年にはただ神さま、龍神さまの近くに行きたくてさまざまな霊山の山頂にある奥宮を目指して登拝(山登り)をするようにもなりました。もちろん登山など初めてです。山頂までの道のりは大変な思いもしましたが同時に自然から多くのことを学びました。毎回ひとりでの行動なのである時は登拝時に霧と大雨で復路がわからずに遭難しそうにもなりましたが雨水の流れに沿って進めばよいと感じて無事に下山をすることができました。また日の出に合わせて朝の4時頃の真っ暗な闇の中で懐中電灯を照らしながら登拝をしたことも幾度もありますが不思議と怖いと思うことはありませんでした。

わたしは神道と仏教に興味を持ち神社・仏閣を参拝しながら登拝もするようになったことで山岳信仰にある神仏習合の考えが馴染むようです。また偶然ですが行く先々の神社・仏閣が役小角さまゆかりの場所であったことなどもその理由のひとつです。2020年もいろいろと登拝したい山が数々あるのですが社会情勢がひっ迫をしている中で無理はせずにとりあえずはおとなしくしています。でもその代わりにこの書をみなさんにお伝えすることができるようにもなりました。

いまは別段お金にも興味ありませんし生きてゆける分があればそれでよいです。ただお金に多少の余裕があるのは構いませんが、強欲だけはダメです。またこのブログも本文に集中してもらいたく広告が苦手で有料で自分のお金を出して掲載をしています。そして普通に仕事もしています。

私自身もそうですがスピリチュアルという分野がよくわからなくても、われわれは生きている中で精神世界について多少なりとも疑問を感じることがあるはずです。これを私なりの経験で得た理(ことわり)についてどこか一節でもよいのでみなさまのお役にたてればとの思いで書き綴りました。

現世・常世・神さま・因果など、いきなり突拍子もない言葉がでてきてはじめての方はよくわからないことも多々あるかと思います。ただインスタやブログを通してこの書を知った方は少なくともこうした分野に対してそれなりに興味があるものと思っています。何度か読み返しているうちにわかることもあるはずなので長い目でご理解をください。わからなければブログからでもインスタDMからでも質問をしていただいても構いません。

最後に何度も伝えているようにみなさまにはみなさまの理(ことわり)があってよいのです。ただそれが見つかるまでにこんな考え方もあるのかとしてお役に立てればとの思いです。

みなさまにとって大切なお時間をいただきましてありがとうございます。

                              2020年5月吉日

理(ことわり)の書(その10)

第九章 最後に・・・

この現世自体が因果の世界であることを知れば自ずとそもそもが不条理の世界であることなどすべてが理解をすることができます。神性なるこころを取り戻すことができたならつぎに何をすべきかを知ります。その時点で都合の良い言葉や感情は生まれません。したがって因果も存在しなくなります。

ですがあなたが感情から創り出している因果を他人のせいにしている限り、その因果は永遠に続きます。たとえ環境を変えたとしてもまた同じ因果が繰り返されるのです


・因果はひとの感情から生まれます
・われわれひとの我の強さ、欲深さが因果を創り出します
・ひとと比較をして生じる優越感や妬みの感情が因果を創り出します
・われわれひとには必ず因果があります。
 だからこそいま現世の世界に存在しているのです
・この因果を消すためにわれわれは活かされています
・この現世が因果の世界であることを理解しなければなりません
・すべてはこころを成長させる(因果を消すこと)ためにひとは存在しています
・こころを成長させてその先にある神さまの領域であるひと助けをするのです
・ひと助けとは神の領域です
・神性なるこころを取り戻すことでひと助けが可能となるのです
・天国も地獄も対比するあらゆる言葉はひとの感情がから生まれたものです
・現世はすべてがひとの感情によって創られている想像の世界です

・万物は原因があるから生じるのです
・われわれは、ものの見かた、考えかた、感じかたは違えども
 辿り着く場所は同じです

ひとは我の強さ、欲深さについて、食欲も金銭欲も物欲などすべての欲のあり様は多すぎることなく、これくらいでちょうどよいとしてください。それでも足りない分はこころをひと助けで満たしてください。あり余る分はひとに分け与えてください。こころの成長の先にあるのがひと助けです。それがわれわれの本来の使命です。あなたの神性なるこころを取り戻すことでひと助けの意識が生まれるのです。

常世の遥か彼方の世界では善悪の概念はありません。そしてさらにその先には精神も意思もなく無の世界(エネルギー体)が存在しています。万物の根本であるすべてのはじまりがそこにあります。


※注釈

※言葉の重きを理解するために同じ意味ですが言い回しを変えて理解しやすいように例えています。

※神の道とは辿り着く場所はひとつですが方法(道)は様々にあります。同じように仏教でもさまざまな宗派があるのと同じです。その道とはひとそれぞれの役割により導かれるものです。

※常世にもいろいろな世界がありますが話が逸れるので詳細には記載をしていません。

※因果とはすべてが悪い因果だけとは限りません、もちろん良い因果もありますがここではあえて罪に例えた因果のお伝えをしています。

※神さまについてはひとを守る神さま、神話に基づく国津神さま、天津神さまとだけ記してあります。解釈の仕方はそれぞれにあるでしょう。私なりに神さまとはそれぞれにお役目があることしか理解をしていません。つまり優劣、序列などひとの感情により神さまを比較するものではないと心得ています。ただそれぞれにお役目が違うということだけです。比較をするのはひとが勝手にしているだけで神さまにはそのような感情はありません。

理(ことわり)の書(その9)

第八章 こころのあり様とは(神さまのお役目)

「神さまとは何でしょうか」

ひとの過ちは誰かが正さなければなりません。前述をした通り正義のための戦争、平和のための戦争という言葉は矛盾をしているものです。それでも起きてしまっている以上は誰かが止めなくてはならないのです。それはより強い信念を持ったひとであり、より大きな志を持ったひとたちです。その信念・志のために神さまはチカラを貸してくれて争いごとを治めてきたのです。

こころの成長に合わせて強い信念があるものは、その信念に合わせて神さまがチカラを貸してくれます。そのことに従い行動をすればよいのです。こころの成長次第で持ち合わせている以上のチカラを神さまは貸してくれません。あくまでものあなたの成長度合いに応じたチカラしか貸してはくれないのです。

もし闘いを選ばずにひとのために尽くした行動で平和を望むならマザー・テレサやダライ・ラマのような方が現れるし、戦いをして国を治めたくば誰でも知っているひとたちの名を思い出すでしょう。すべてはみなさんのその時々でのこころの成長に合わせてしなければならないことをしただけです。それぞれの役割に気づき行動をしたのです。

これまで歴史上に名を遺してきたものたちは、それぞれのこころの成長に合わせてその方たちにしかできなかったことをしただけです。そこには正しいも間違いもありません。善も悪もありません。あるのは役割だけです。役割とはその時のあなたの成長度合いによりあなたにしかできないものです。そしてこのひとの役割と同じように神さまにもそれぞれお役目があるのです。それが八百万の神さまとして様々なお役目のある神さまたちが存在していることを知るのです。

例えば争いごとは矛盾をしたものですが強い信念をもって貫いた方たちには必ず神さまがチカラを貸してくれています。ではそこにチカラを貸す神さまとは何でしょうか、そして戦いの神とはなんでしょうか。

神さまにはお役目があり、その根本はひと助けです。ひとのこころの成長に合わせてチカラを貸してくれるお役目としての闘いの神さまであり戦の神さまであるのです。そのお役目によりチカラを貸しただけなのです。

神さまもまたひとの感情で創られたものです。八百万の神とは対象となるもひとやものに宿るエネルギー体を感情により神格化をして様々なお役目に対して現れた神さまです。薬の神さま、お酒の神さま、学問の神さま、戦の神さまなど数限りなくいらっしゃいます。そこにあるのはそれぞれの役目があることだけなのです。神さまのお役目がひとの信念とつながってチカラを貸してくれているのです。

いにしえのひとたちの感情が創り出したそれぞれのお役目のある神さまを国津神と呼んでいます。そして同じように自然から生まれた神さまたちをも創り出し、これを天津神と言われる方たちです。主には自然にあるエネルギー体を神格化したもので、ひとが自然を敬うために付けた名前です。これも自然への感謝の気持ちとして感情から生まれたものです。少なくともいにしえのひとたちは自然が意思のある(お役目のある)エネルギー体であることを知っていたのです。こうして自然なども含めた万物に宿るエネルギー体に名前を付けて感謝の気持ちとして崇拝をするようになりました。そしてやがては神社を造りそこに神さまを祀るようになります。このようにして神社に祀られている神さまたちにはそのお役目に対して感謝の気持ちを伝えるのです。

はるか以前には(およそ一万年以上の前では)この現世ではひとのこころと神さまは共存をしていましたが、やがてひとの我が強くなり欲が大きくなることで邪念が生まれてはびこるようになると神さまはひとのこころから離れてゆき互いの住処に治まるようになりました。神さまがいなくなる代わりに崇拝されるようになったのです。

感謝の気持ちとは「いつもお守りいただき、ありがとうございます」が良いかと思います。そして願いを叶えたいのであればあなた自身が相応の努力をしなければなりません。感謝の気持ちが伝わっているならば必ずあなたの努力にあわせてチカラを貸してくれます。そしてあなたを守る神さまはいつかあなたと一緒に成長することを楽しみにしてあなたにサインを送り続けているのです。あなたの努力によるこころの成長なくして神さまはチカラを貸してはくれません。神さまに感謝をして絶えず会話をするようにしてください。

神さまはあなたのこころの成長に合わせてチカラを貸してくれると伝えましたが、言い方を替えるとあなたのこころの成長次第でチカラを貸してくれる神さまも替わるということです。あなたを導くべき方向性に合わせた神さまに替わるのです。

神さまはあなたのことすべてを見透しています。そしてとても寛容です。よっぽどの自然の摂理を踏み外さない限り少々のことは気にもしません。嘘偽りのないあなたの信念が変わらない限りいつまでも暖かく見守ってくれます。

理(ことわり)の書(その8)

第七章 ひと助け(ひとの役割とは)

「ひとの役割とは」

この身体は遥か以前よりつながり今日まで守り抜いてくれていることに対して、ご先祖さまや産んでくれた母親に感謝をしなければなりません。それだけにこの身体はとても価値があるものなのです。

そしてこころもまた身体と同じようにいろいろなものを礎にして成り立っています。こころが宿る身体、守ってくれる神さま、あなたに因果を教えてくれるひとたち、神さまの分け御霊であることなど・・・その方たちに対して恩返しをしなければなりません。その恩返しとはひと助けのことです。

こころが成長をすると次に何をすべきかということに気づき、それがひと助けであることを知るのです。こころを成長させて神性なるこころを取り戻すことで、本来は神さまの領域である「ひと助け」をするのです。これが神さまへの恩返しの意味を含めた行いとなります。この役割を実施するための方法・手段は様々です。みなさんの特性に合わせて行ってゆけばよいのです。もちろんこのひと助けを無意識のうちに行っている方々もいらっしゃいますがそれはすでに前世でこころを成長させてきている方たちでやり残したことを現世で行っているのです。

例えば運動などスポーツを通してのアスリート達、絵画、彫刻など芸術家、踊りや歌のアーティストたちもまた創作物をもってひとに感動を伝えています。ひとに感動を与えることで一歩を踏み出す勇気を伝えているのです。表現方法は違うだけでみな同じです。当人たちは好きなことをしているだけなのかもしれませんが無意識のうちに役割を果たそうとしているのです。

そしてわれわれもまた目立たなくてもそれぞれに役割があります。上記のようにメディアで知られるひとたちは一様に並外れた努力をしてきている方たちなのです。たとえ天性の才能と呼ばれる方たちもこの世ではそれほど努力をせずとも前世で相応の努力をした結果がいまこの世で花を咲かせているのです。それはこころの成長を意識していなくても、たとえ気づいてなくともひたすらに努力を続けてきた結果がこころの成長につながっているだけなのです。

こうして因果を乗り越えて行く中で、こころの成長に合わせて脳で考えることも変わってゆきます。そして神さまがあなたに合ったひと助けをするためのさまざまな方法・手段の道を示してくれるようになるのです。

神さまが導いてくれるサインはひとそれぞれです。ヒントなることが映像でテレビから映し出される、道を歩いている時に活字の言葉・写真の広告や本が目に入る、あなたに関わる誰かから伝えられるなど五感を使ってさまざまにサインを伝えてくれるのです。ほんの一握りの方は別として直接に神さまからの声を聴くことはありません。あくまでもこころを成長させることを目的としてヒントとなるサインが五感を通して伝えてくれているのです。これはだれにでもあることです。

われわれそれぞれに守ってくれている神さまは常にそうしたサインを送り続けているのにわれわれが気つかないだけです。だから神さまには一方的な願い事をするのではなくいつも守ってくれていることへの感謝の気持ちを伝えて、お互いの意思が伝わるようにするのです。ありがとうと伝えればそのお返しを必ずしてくれます。その繰り返しが神さまとの会話です。

自然の流れに身を委ねてください。信号が黄色であれば無理をしないでください。電車に乗り遅れそうなら一本遅らせてください。直観もまた神の領域です。自然に身を委ねる中でひらめく感覚です。自然の意識に目を向けて自分も相手も喜ぶことをしてみてください。

こうしてこころを成長(因果を乗り越える)させると悩みという感覚がなくなります。悩みとは「あなたのこころを惑わすのは他人ではなく自らのこころである」ということです。この悩みがないというのはこころが成長していることで脳の判断も固定概念から解放されることを意味します。したがって脳の考え方が変わるというものです。これまでの悩みとは固定概念に囚われて柔軟な考えができませんでした。その結果で悩みに対してひとつかふたつの答えしか見つからずに考えが束縛をされてしまうのです。

悩みという感覚がなくなることで様々な事象に対してこれまでは困った、どうしようと考えていたものが、代わりにどうしたらよいかと、考えに余裕が生まれます。通常では脳の固定概念と経験値が判断をするのですが自然を受け入れることで思考が広がり選択肢が複数になれば、それが初めての事象であっても困るということにはなりません。多様な考え方ができるようになることはひとの考えを受け入れること、様々な事象を受け入れているということです。

悩みとは答えが見つからないから悩みとなるのです。でも何事も受け入れてこころを成長させると選択肢が何通りも思い浮かび、その中からどれを選ぼうかと考えられるようになるのです。

これは悩みというものとは違います。答えが見つからない悩みとは感情に負荷がかかるものですが答えがいくつもありどれを選ぶのが一番良いかという考えは悩みではなく楽しみとなるのです。こうして悩みがなくなることでその悩む時間をひと助けのために考える時間として充てられるようになるのです。

ひと助けには金銭的援助もありますがその先にあるのは精神的な援助です。もちろん金銭に余裕があるのであればそれも大切です。でもひとを助ける方法は様々にあり、お金は尽きればそれで終わりです。それに比べ精神的援助は尽きることなく更にはひとからひとへとつながり相乗効果を生み出すことができるのです。辿り着く場所は同じでも方法・手段は様々なのです。あなたが得意とする強みを活かしてひと助けをする方法を探してみてください。

ひと助けをして相手からありがとうと言われればまた次に何かしてあげたくなります。それは神さまとて同じです。だから神さまには感謝の気持ちを伝えてあげるのです。

だからこそひと助けとは感謝の気持ちを伝えることから始まるのです。ありがとうと言ってもらえるひとになること。そしてありがとうと言ってもらえる行為がひと助けとなるのです。

ひとを助ける行いとして大切なことは自分ありきで考えないことです。常に相手のことを想うことです。それがこころの成長にもつながるのです。因果を消すことができる謙虚な姿勢ができれば問題なくこのひと助けができるようになります。

・ひと(神さま)のためにとして考える
・ひと(神さま)が喜ぶことを考える
・ひと(神さま)が幸せになることを考える

このように考えてみてください。

ただし注意することは決して自分が犠牲になってはいけません。あなたの犠牲によって成り立つひと助けは絶対にありません。一緒に喜び、一緒に幸せになることが大切なのです。
「ひと助けとは互いに協力をして助け合うことで生まれる笑顔で人々を幸せにすること」です。この思いはあなたを守る神さまに対しても同じです。

理(ことわり)の書(その7)

第六章 こころを成長させる方法

「因果を乗り越える」

こころの成長とはあなたの因果を消すことです。この因果を消す方法や・考え方はひとつではありません。ひとそれぞれのこころの成長に合わせた考え方の道があります。

ここで因果を消すひとつの例をお伝えします。
こころの成長(因果を消す)とは具体的には脳の考え方やあなたの性格を変えるものです。考え方や性格とはみなさまそれぞれの環境で生まれてから何十年もかけて積み重ねてきたもの。それを変えるとは言葉で言うほどそう簡単にはゆきません。それでもこころに強い意識を持ち続けることで脳の考えを改めることができるようになるのです。

自分の因果の知り方は、あなたの周りで起きている事であなたが嫌だと思うことを振り返ってみてください。実はそれがあなた自身の因果です。例えば会社で起きているあなたが嫌だと思う他人の行為は、あなた自身が家族や友人・知人のいずれかに対して同じことをしているということです。他人から受けたあなたが嫌だと思うことは、あなた自身が他のひとにしているのです。ただ本人は同じことをしている自覚はありません。そのために因果が繰り返されるのです。ただしいずれは気づきます。

もし自分の周りで嫌なことは何ひとつないと思うのであれば、その我の強さがあなたの因果です。あなたの我の強さはさらにもっと大きな我の強さをもったひとからの抑圧された行為を受けて気づかされるのです。

まずは目の前で起きている他人の嫌な行為が自らの因果であることに気づいてください。または自分の嫌いな部分を思い起こしてみてください。

余談ですが・・・
例えばあなたの我がよほど強く、自ら気づかないままに自分勝手なわがままな言葉を発して相手を困らせたり、または不快にさせる、ひとの悪口ばかりを言って相手をとても嫌な気分にさせていることを続けているとします。このあなたの因果について自分は良かれと脳に言い聞かせて正当化してやっているので本人は因果であることに気づいていません。また仮にひとから指摘されても認めることはないでしょう。ただし時間はかかってもある時に必ず気づく時、気づかされる時がかならずやってくるのです。因果を繰り返す中で自分で気づいてゆくものですがそれでも無理な場合は圧倒的に自分がかなわない状況に陥り強制的に気づかされるのです。それはあなたの因果でとても嫌な思いをしているひとの念があなたに災いを起こしたり、またはあなたを守る神さまがあなたに気づいてほしくてやむを得なく行動を起こすのです。例えば社会的な制裁であることや、事故や病気になることで気づかされるということです。

この現世は森羅万象においてすべてがつながっています。そして自由意志でさまざまに選択をすることができるのです。

それでは話を戻しましょう。
このように脳から生まれる感情の因果は相手のせいにするだけで簡単には考えを変えようとはしません。それでもいつかあなたの因果に気づくことができたならその時からこころと脳の葛藤がはじまります。あなたのこころが変わろうとする強い意識があれば、以前とは違いあなたの嫌な感情の行為を発する前にその思いを制御できるようになるのです。

その繰り返しを重ねてゆくことであなたを守る神さまはその変わろうとする意志の強さと行動を認めてくれてチカラを貸してくれるようになります。チカラを貸してくれるとは、あなたが気づかずとも変えようとするあなたの強い意志に対してもっと背中を押してくれるといったことです。あとからでもよいのでチカラを貸してくれる神さまには感謝の気持ちを必ず伝えてください。そうするとまたお返しをしてくれます。その繰り返しが神さまとの会話のはじまりです。

こうして実際に因果を改めようと試してみますが・・・
最初は脳の感情が優先して変えようとするここの意思を忘れてしまい「またやってしまった」と、あとで気づくことなどはよくあります。それでも改める強い気持ちがあればこんどはその状況が起きている時にこころの中で「またやっている」と気づかされるようになります。

これを繰り返すうちにその思いが身体に染みついてある時にその嫌な行動をする前に「もうしない」「もうやめよう」と意識をすることができるようになりあなたの行動、言動、態度が今までと変わるのです。

こうして因果は消えてゆきます。そしてあなたが変わることで、環境も少しずつ変わってゆくのです。この場合の変わるとは相手もまたあなたのように因果に気づいて変わるのであればよいのですが大体は何らかの理由であなたの目の前からいなくなると言ったものです。するともうこのような状況は起きなくなります。

逆に自分の因果に気づかずに被害者意識で常に相手が悪いとの考えを改めなければこの因果は永遠に続くということです。たとえその相手が嫌だからと言って環境を変えてもまた別の人があなたに同じことを繰り返すだけです。

自分の因果が何であるかを知るのは、素直なひとであればそれほど難しくありませんが我が強い人ほど言い訳をして逃げ回り常に誰かのせいにして自分の脳の考えを正当化しようとしているのでなかなか気がつきません。ただどんなひとにも必ず因果はあります。だからこの現世に今存在をしているのです。

自分の因果に気づけばあとは改めようとする意志の強さだけです。時間はかかるかもしれませんがあきらめなければ必ず変えることはできます。こうしてひとつひとつの因果を乗り越えてこころを成長させてゆくのです。

理(ことわり)の書(その6)

第5章 感情の世界

「言葉が創りだす想像の世界」

これまで因果は感情から生まれるとして伝えてきましが見かたを変えれば、この現世もまた感情から創り出される世界とも言えます。

われわれひとの感情が善や悪となる精神のエネルギー体を創り出してきました。
正義という名のもとに争いが行われ、憎しみの感情による輪廻がいまも続いています。憎しみや妬みの感情が集まって強い邪念となり、同じようなこころをもつひとに宿り脳やこころを侵食するようになることも先ほどより伝えています。われわれは一般的に邪念が集まったエネルギー体を鬼や悪魔と呼び、善の意思あるエネルギー体を神さまや仏さまと呼んでいます。

もう少し深掘りをしてみましょう。
先の続きで遥か彼方の世界では神さまには善悪の概念などなく、更にその先にあるのが「無」としています。この現世は因果の世界、いわゆるひとの感情から生まれた世界です。ゆえに天国も地獄も然りすべてひとが創り出した感情の世界です。地獄ではひたすらに戒めとして嘆き・悲しみ・苦しみ・憎しみ・妬みをイメージした世界であり、一方の天国では嬉しい、楽しい、幸せとした地獄に対して優越感に浸る世界を創り出しています。なぜ天国が優越感なのかといえばあくまでも地獄の言葉に対比した世界というだけです。

天国や地獄の世界とは言葉を想像したイメージの世界でしかありません。そしてその言葉を創り出しているのはひとの感情にほかなりません。ひとの感情が創り出した言葉によるイメージの世界です。このように意思を持った言葉を言霊と呼んでいます。

幸せで満足するのではありません。地獄のイメージに対する優越感の言葉で満足しているのです。この天国に代表される言葉はすべて先ほど羅列した地獄で味わうとされる感情の言葉の対比でしかありません。そして天国で味わう感情もまた因果の原因の一つになりうることを知ってください。嬉しい・楽しい・幸せの言葉は己の欲により更なる優越感を得るために欲望を満たそうとします。

ひとがこの感情というものを持ち合わせている以上、因果を創り出しこの輪廻は続きます。ただその中でも因果を知りこの世界が感情から創られる世界であることに気づくべき人は自らの因果を乗り越えてこころを成長させてゆくのです。常世が中心であり因果の世界とはこころを成長させる修練の場あることを知るのです。

この現世は感情によって映し出される世界ですが、逆にどのようにも創り変えられる世界とも言えます。それはこれまでの歴史が証明しています。

ひとの感情は言葉と同時に行動を引き起こします。あなたが信じるべきはあなたの目の前で起きていることはあなたが起こしていることであり、それがあなたの因果であるということです。他人に惑わされてはなりません。この現世はみながそれぞれの抱える因果が集まった世界です。そしてみなさんの因果を実体化しているだけです。この現世が因果の世界と言われる所以です。常世から観たら現世の実体も想像でしかないのです。

子どもの頃に自転車で坂道を登っているときにこんなに大変な思いをしないでもっと簡単に自転車で登れればいいのにと思っていましたが何年後かに原動機付自転車ができました。今ではガソリンからバッテリーに代わり電動アシスト自転車となっています。このようにしてひとの感情が発端となり創られたものです。いまわれわれの目の前にあるものはすべてこうだったら良いのにという感情で創られてきたものです。このようにして現世は感情から創られている世界としているのです。

精神世界のイメージはあなたが夢を見ているときの感覚です。夢を見ているときに実体としての身体はありませんがはっきりと意思があり情景をイメージしています。また夢で起きていることはあなたの感情による想像であり、あなただけの空間であり、あなただけの世界です。

この事実は因果が現世を創り出しているというひとつの例えです。
ひとの感情がこの現世を創り出しているのです。

・現世はひとの感情で創られている世界
・因果はひとの感情で創られたもの
・すべてはひとの感情で創られた実体です

以前にも伝えましたが感情とは脳が判断をしています。脳で生まれる感情は過去の経験値によりこころを惑わして我の強さや欲深さを大きくしてゆくのです。

ただそれとは別に脳で考えたことは様々な進化を遂げてきたことも事実です。ただ見た目が便利になっただけでわれわれひとが生きる本質は何も変わりません。食べること、子孫を残すことなど・・・生きるために必要なことはそのままです。

現存するものはすべてに効率・便利といった役割があります。携帯電話は通信手段として発展してきました。PCのマウスはPCを効率よく作動させるための機器として、紙、ペン、消しゴムなど・・・すべて役割がありひとの感情によって創られてきました。

ですがわれわれひとにとってもっとも大切なことはこころの成長だけです。そのこころの成長とはひとが創り出した感情から生まれた因果を消してゆくことです。この現世でわれわれがしなければならないのはこころの成長(因果を消すこと)が根本であることを理解しなければなりません。

脳が創り出す感情は自らの身体で五感により生み出されるものです。こころは成長するためにそれぞれにこころが最も成長する環境で生まれ育ちます。こころの成長度合いに応じて生まれる感情は因果を創り出します。この現世にある事象はすべてわれわれの脳で考えた感情が生み出したものです。さまざまな感情が入り乱れているので当然に不条理であって当たり前であり、敢えて不条理を創り出すことでこころを成長させているとも言えるのです。

理(ことわり)の書(その5)

第四章 因果のことわり

「こころは素直で謙虚な姿勢であること」

ひとは誰しも罪を背負い、償いをします。これは自らの因果に気づき乗り越えてゆくことです。罪とは因果であり、償うとはこころの成長を意味します。法治国家では刑事罰・民事罰がありますがそれとは別に脳が創り出す感情における因果の罪のことを言います。

この因果の罪とは過去世から続く感情の罪を指し、その償いをするためにいまわれわれのこころはひとに宿り償う努力をしています。因果とは他のひとの身体(肉体的および精神的)を傷つけるから罪となるのです。

罪を犯したのは本人です。そして罪の原因を生み出したのも自分の我の強さ、欲深さによるものです。決して相手が原因ではなく、すべては自らが生みだした原因によるものです。

因果の原因は自らが創り出しているためその因果に己自身は気づかないのです。因果を繰り返すうちに自らが気づいてゆくものですが、ほとんどの因果は他人の行為によって自らの因果であることに気づかされるのです。それでも通常はそのことに気づかずに他人の行為にばかり気を取られて相手のせいだと考えてしまうのです。相手の行為があなたの因果を教えてくれていることに気づかないのです。

具体的には、他のひとがあなたに物理的な危害を加えればその相手が悪いと思うのは当然のことです。でもそうなった原因はあなたにあることを理解しなければならないのです。その原因が何であるのかを突き止めてください。この原因を知らなければ先へは進めません。その行為を何故するのかがわからなければならないのです。大体は我の強さからくる自分の思い通りにならないことのイライラした感情です。

争いごとの相手もまたあなたが原因だと思っています。だから結果として互いに争うのですが・・・。実はお互いが同じ因果であることに気づかなければならないのです。

その争いごとで先に手を出した、出さない云々ではありません。なぜこうなったのか、あなたの原因が何であるのかを考えなければならないのです。このことに気づき改善をしないと一生同じことが繰り返されます。それは相手も同じです。このように同じ因果を抱える者同士がグループのように集まっているのです。鏡の法則、引き寄せの法則と良く言われています。

何度も伝えます。何事も自分は悪くない、他人のせいだとしている以上は物理的な行為は違えども、たとえ為される相手が変われども原因があなたの因果であることを理解して自分を変えない限り永遠に続きます。そのグループから抜け出せないということです。そして痛ましい事件・事故も例えあなたの因果でなくともいつでも起こりうることをわれわれに教えてくれているのです。

すべては自分の感情から生まれた行為が因果となって返ってくるのです。この感情から創られた世界は因果の世界であり、この感情とはいわゆる実体のないもの。だからこそ現世の世界と言われるのです。

われわれはそれぞれに我が強くなり、欲が大きくなることで因果の原因を作りだしているのに、それを常に相手が悪いと考えることで自らの因果に気づかないままに相手を憎み、互いに傷つけ合うのです。

前述の通り自らの因果はなかなか自分では気づかないものです。気づいていれば因果にはなりえません。その自分では気づかない因果だからこそ、他人が同じことをすることであなたに気づかせようとしているのです。それでもまだ自分の因果であることに気づかずにひとのせいにしているのです。だからこそ素直で謙虚な姿勢であることが大切なのです。

自らの因果に気づかないままに続けると自分が正しいと正当化する気持ちがいっそう強くなります。争いごともそうです。自分の家族のために、自分が守るひとたちのために、その正当性を掲げてひとを殺めるのです。またはだれかが傷けられたからやり返したのだと考えるようになりこの輪廻から抜け出せなくなるのです。

正義という言葉、大義という言葉は己の罪である因果を正当化している言葉でしかありません。我の強さや欲深さのあるものたちが自分の愚かさを都合よく言い換えて自己満足をしているのです。

自が都合よく並べられた言葉はすべて偽善であり本来は必要としない言葉です。ひとが勝手に創り出した言葉は実体のない想像の世界であり、現世なのです。正義のためとしたこの争いごとを正当化する言葉自体が本来は必要としないものです。

理(ことわり)の書(その4)

第三章 因果の原因

「われわれはいつから己を捨てたのでしょうか」

われわれが脳で考える思考は長きに渡る時を経てさまざまな因果を生み出してきました。

己れとはこころを指し、その己を捨てるとは脳で考えている我の強さや欲深さにより神性なるこころを忘れてしまうこと、または見失っていることです。脳で考えている我の強さ、欲の深さは都合よくこころに言い聞かせて上書きをしてしまっているのです。

よく「こころがないひと」と言われるのは思いやり、やさしさがないことを指しますがこれは神さまがこころにいないことを現わしている表現です。こころがないとは神さまに気づいていないということです。

ひとはこころを成長させるために感情があり、欲があるのです。だからひとの感情があらゆるものを創り出すこの現世では戦争があって当たり前、貧富の差、どんな事件・事故があってもあなたのこころを成長させてくれるのです。善も悪も天国も地獄もひとの感情が作り出した想像でしかりません。

伝え方を変えれば因果とはひとの我の強さ、欲深さから創られるのです。これが因果の原因です。そしてひとつひとつの因果を越えるえることがこころの成長です。

この現世はわれわれのこころの成長のためにある因果の世界。脳で考える我の強さや欲深さから生まれる感情を背負いながら、こころの成長を遂げようとしています。ひとそれぞれに因果があります。因果のないひとは存在しません。裕福な方たちの因果と貧困の方たちの因果は環境が違うだけで原因となる強欲は同じです。その欲を何としても手に入れたいがために、ひとの身体やこころを傷つけることが因果となって現れるのです。


「因果とはひとの我の強さ、欲深さの感情によって生まれます」

脳はひとの身体の一部です。こころはひとに宿るエネルギー体です。精神エネルギーと言ってもよいでしょう。因みに精神とは「純粋なこころ」であることを指します。こころとは神さまのことです。そのこころの成長次第では神さまにもなるし我の強さや欲深さに侵食され邪念のエネルギー体ともなるのです。

そしてこの憎しみ、妬みなどの邪念のエネルギー体同士が引き寄せ合い悪と呼ばれるエネルギー体を作る根源ともなります。そして悪があるからこそ、その比較として善が存在するのです。この脳は比較対象の言葉(イメージ)を創り出しそれを利用して脳が都合の良いように考えます。本来のこころは善も悪もその概念はありません。こころのあり様は自然のままです。

前述にもありましたが脳は基本的には楽なことや、欲望を満たすことを考えます。生きるために必要なこととしてある程度のことであれば欲は生きるための活力となり大切なことです。これは欲というよりも本能に近いものです。

善悪などを含め比較対象とする言葉はひとの感情より創りだされた都合の良い感情の言葉でしかないのです。

理(ことわり)の書(その3)

第二章 脳とこころ

ひとの感情や思考は脳が判断をしていますが脳とは別にひとの身体にはこころ(魂)が宿っています。

こころとは精神的なエネルギー体であって実体はありません。また地球にある自然もまた意思のあるエネルギー体です。ただし意思はあるとはいっても感情ではなくそれぞれのお役目のある意思のことです。そしてそれと同じように神さまや仏さまと呼ばれる方たちも意思のあるエネルギー体です。

ひとは五感を使い脳が意思の形成をしています。そしてこれとは別に身体の中に意思のあるエネルギー体であるこころが宿っています。このふたつの意思が互いに葛藤していることはみなさんすでに無意識にでも感じていることと思います。

脳は基本的に楽をしようとします。そして脳は都合のよい言葉を様々に使い出してきました。それは善と悪や、天国と地獄など本来こころには必要としない言葉です。それはわれわれの我の強さや欲の大きさから生まれた言葉だからです。敢えて比較をさせた言葉を用いて都合の良いように解釈をしては脳が正当化しているということです。その代表的な例としては「正義のための戦争」などがそれです。ひとを殺めることの正義とはなんでしょうか・・・これが不条理の世界と呼ばれるたとえです。こうしてわれわれは愚かな過ちを繰り返してきているのです。

ただそれと同時にこの現世の世界ではひとが楽をするために様々なものが作られて発達をしてきたのも事実です。その反面で様々なモノづくりが進歩を遂げるなかで、同じくしてひとの我も強くなり、欲も大きくなってきたのです。

脳の感情から生み出される我の強さや欲の大きさはこころを成長させるための大きな壁となっているのです。常に楽なことを考える脳は自らが矛盾を創り出し、神性なる姿を取り戻すためのこころを惑わせているのです。


「あなたを守る神さま」

脳とこころが葛藤を続ける中でこころの意思に手を差し伸べてくれるのがあなたを守る神さまです。

脳が考える意思と本来のあなたの姿であるこころの意思はどうしてもこころの意思が消されてしまいます。それを助けてくれるのがあなたのことを守る神さまです。そしてこころだけでなくこの身体をも守ってくれています。

この身体は何万年もの時を経て進化を遂げてきたとても大切な身体です。こころを守るだけでなくその大切な身体をも守ってくれている神さまがそばにいてくれているのです。

たとえ今はあなたが気づかずともいつかあなたがその存在に気づいてくれて一緒に成長できることを楽しみに待っているのです。

ひとそれぞれにこころの成長度合は違います。こころが成長すれば脳の考え方もまた成長します。さらにこころが成長すればあなたを守る神さまも成長するのです。そしてあなたを守る神さまはあなたを助けるために様々なアドバイスを伝えてくれます。

こころのあり様は謙虚な姿勢で、欲はほどほどにすることです。我の強さ、欲深さとの比較です。ただ我や欲を無くせとしているのではありません。生きるために必要な分だけにすればよいのです。どんなにお金があっても常世が中心の世界では必要ありません。この現世ではこのこころを成長させるためにこの身体を利用しています。別の伝え方をするならばひとの身体はこころの大切な器でしかないのです。

こころとは神さまの分け御霊です。はるか古の時代ではひとは神さまと一緒でした。でも何万年もの時を重ねるうちにひとは我が強くなり、欲が大きくなることでこころと神さまが離れてゆき一緒であることを忘れてしまいました。われわれはいまこの神性なるこころを取り戻すためにこの時を迎えているのです。


「顕在意識と潜在意識」

われわれのこころは生まれてくるときに前世の記憶をすべて消してこころがもっとも成長する環境選んでひとに宿った状態で生まれてきます。またひとの身体も何万年もの進化を遂げてきた情報は脳や遺伝子に蓄積されています。

顕在意識とは脳で考える感情です。そして潜在意識とはこころにある記憶です。

ただこころにある前世以前の記憶とはひとに宿る度に消されているのですがこの世でふと前世のことに触れて気づくことがあります。それは例えば日常生活の中で無意識の内に戦争の映画や戦いをテーマにした映画や本をよく見たりしていることなど、また子供や老人の孤独感ややさしさを目の当たりにした時にとても切なくなるなど前世の因果を呼び覚ます経験を、みなさまにもそれぞれに何かを感じる時があるはずです。

これは前世でのこころの記憶が身体の脳にリンクして感情として呼び起こしているのです。そうして断片的にでも前世で何をしてきたのかを知ることができ、この現世で何をしなければならないのかを理解することができるのです。

この現世でひとのこころに宿るものはみな未熟なこころの者たちです。われわれは一様に因果を背負っている者たちです。あなたが無意識のうちにしている行動が何かを感じてみてください。あなたが情緒的に苦手とする光景が何かを思い浮かべてみてください。きっとあなたの前世から続く因果に気づくことができます。いま生きているひとたちはみな前世からの因果を消すためにいまを生かされているのです。

それではつぎにその因果についてお伝えします。