ひとで在るべきことの編 (その10)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

あとがき

「志」のためにという信念・・・自身の寿命がいつ尽きても構わないという想いがあるからこそ、できるだけ多くの因果を受け入れなければなりません

自身のこどものころの記憶は1,2歳の頃に親に抱えられて見送りをしている姿を思い出し、そして幼稚園のときはというと、となりにいたこどもにカッターで何かの拍子で指が切れて血が出てしまい、先生はあたふたしている様子・・・。

そして相手のこどもに「なんてことしているの」とやたら怒っている姿・・・、わたしはなんでそんなに怒っているんだろう、大丈夫なのにという意識までもが思い出されます。そんな感じで小学校、中学校、そして現在までの記憶を思い出します

印象的であったのは小学校4年生のときに流行ったゲームで3日間、自分のグループの友達から一切の会話ができなるということ・・・それは一方的に無視されるという遊びです

これはゲームでしたがとても淋しい想いをしたものでした。わたしのあとに順番となった友達に、わたしは同じ想いをさせたくなくてこっそりと話をしていたことまで覚えています

これも因果なのでしょう。この世が因果の世界であること、地獄の世界であることを受け入れなければなりません。それがひとの世界なのです。だからそれを教えるために摂理(自然の法則=良い因果)があるのです

ひとの社会とは因果の世界であり、地獄の世界です。でもそれはひとが因果をつくりだした世界であるとうことです

こころの成長のために必要である世界なのです

ひとの生きる理由は「こころの成長」ですが、因果とは矛盾した話であり、不条理の世界です。この世界はいつになっても終わることのないおとぎ話のような世界なのです

そのように、考えるとこの世界も楽しい世界となるのです

ひとで在るべきことの編 (その9)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第八章  おとなへの教え

この世界のさまざまな環境でこどもは育ちます
戦争に明け暮れている国で育つこども・・・
裕福とされる家庭で育つこども・・・・
そうでない環境で育つこども・・・さまざまな環境で育つこどもがいるのです

そしてどのような環境であっても、こどもはある時から、因果に触れるようになります。最初は小さな因果の影響を受け、その繰り返しがやがて大きな因果へとなるのです

もともと、この社会はおとなが自分たちの都合の良いようにつくった世界です。その世界でひとは悩み続けているのです

いわゆる因果応報、自業自得であるということです。自分たちで因果をつくっては翻弄され、地獄をつくっては勝手に悩み苦しんでいるのです。ひとの社会が因果の連鎖により、ひとの質が劣化しているのです

こころがもっとも成長する環境を選んで、生まれてくるとした道理を理解すれば、すべては線でつながり因果を理解することができるようになります

ひとの社会と摂理(自然の法則=良い因果)の世界・・・その感じかたは、ひとのこころのあり様次第です。ひとは無意識に摂理の世界にしたいだけです

因果とともにあり続けることは、摂理(良い因果)を求めるがために、ひとの社会である因果の世界を知らなければなりません。それがこの世であり、ひととして生きるということです

善と悪のように相対的な考えかたをするのではなく、内包的な考え・・・たとえば、善のなかに悪があるということ・・・、一度、そのように考えてみてください

相対するもの、そのどちらに内包されているかは、あなたにとっての「正しい」とする世界のなかに一方の負があるものです

ただ、その「正しい」も、ひとそれぞれのこころのあり様次第でさまざまに違うのです

ひとで在るべきことの編 (その8)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第七章 こどものころ~教え

おとなはあれこれ考えてはなにもしない・・・こどもはなにも考えずに行動する。これは以前にも記した言葉です。こどもは良い因果そのものであるのです

おとながこどもに対して教える良いこと、悪いことは単純におとなが学ぶべき、考える良いこと、悪いことであるのです

こどもが親の背中を見て育つとは環境によって様々です。こどもは親を選べないとか、こどもが育つ環境が不平等だからよくないとか、だれが誰に言っているのか・・・と、他責ばかりでよくわからないことがほとんどです

「こどもが育つ環境が不平等である」とは、ある意味で「こどもは親を選べない」とした言葉と同じ意味です。育つ環境が不平等であるということ、ではなにを基準とした環境が平等なのでしょうか

おとなはただ、そうやって言い訳ばかりをするのです。都合の良い言葉で繕うことをするのです。自分は悪くないとして・・・

何もかもが、こどものために・・・ではないのです。すべておとなのため、自分勝手のため、その場しのぎでしかないのです。それをあたかもこどものためにとして言葉をすり替えているだけです

そしておとなは「こんなこどもに育てた覚えはない」、または「育てかたを間違えてしまった」、そして、「この社会がいけないからこうなった」と言うのです。おとなが純粋でないから、そもそも最初から間違えていることに気がつかないのです

こどもはなにもわからずに、ただ楽しいからそうしていることを、おとはな頭ごなし怒鳴りつけます。こどもは「なぜ?」の理由がわからないからまた同じことをします。そしてこどもはその行為自体よりも、その怒鳴りつけるひとを嫌いになるのです

前章でもあるようにおとなこそが意志をもって純粋であってください。感謝の気持ちと素直であることを、そのままにこどもに教えてあげてください。

すでにこどもは無意識に純粋なのです。それを意識させてあげることで十分であるということです

ひとで在るべきことの編 (その7)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第六章  こどものころ~純粋

おとなの都合のよい言葉など、こどもにはわかりません。でもこどもは語気や声の大きさ、相手の表情で意味はわからずとも、ただ感じているのです。だからおとなの都合のよい言葉でこどもを惑わせてはいけません。こどもは純粋です。でも本来、おとなこそが純粋でなくてはいけないのです

こどものときを想いだしてください。天真爛漫で穢れのない純粋であった頃の記憶を想いだしてください

あなたの過去を少しずつ遡ってみると、ところどころのポイントでかならず誰かの支えがあり、何かの意志で、あなたが正しく生きてゆけるために導かれてきていることがわかります

それはあなたにしかわからないことです。そうやってあなた自身の過去を想い出し、導かれてきたその意志を感じてください

自分で自分のことを偽ってはいけません。自身のこころに嘘をついてはいけませんということです。常に素直であってください。正直であってください。それが純粋であるということです

いまある姿からこれまであなたが生きてきた道のりを想いだしてみてください。想いだすことができる過去の記憶は遡るほどに、あなたは純粋であり守られてきているのです。純粋なほどに、あなたは強い意志で守られてきているということです

あなたの過去を想い出し、あなたのこころにある強い意志で守られてきていることに気がつくと同時にあなたの過去からつながる因果についても想いだし、理解することができるのです

導かれて教えられていること、因果に気が付くことのきっかけなどほんの些細なことでわかるものです。ただ些細なことだけに、なかなか気が付かないのです。だからあとになってふとしたことで気が付くのです

純粋であることは、常にありがとうと言える感謝の気持ちであることです。だからおとなには因果も良い因果も気がつかないのです。でも感謝の気持ちと、素直であれば、いろいろなことがわかるようになるのです。そうして良い因果へとつながってゆくのです

ひとで在るべきことの編 (その6)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第五章  互いの立場

あなたのこころは、この因果の世界に翻弄されているのではありません。因果に気づかないから、あなたのこころは因果に翻弄されているのです

あなたのこころのあり様次第でこの世は地獄にもなり、「そうでない」とも、こころは感ずることはできるのです

この世界を地獄であると感じているのは、あなたの因果がそう感じさせているのです。地獄ではないと感じたければ、すべてを受け入れてくださいということです

ただそんな簡単にすべてを受け入れることなどできません。好き嫌いがあって当たり前なのです。ただそれが因果と結びつくということです

いまは因果を理解できないまでも、あなたが抱えるさまざまな因果とともにあり続けることで、やがてはこころが成長し、それぞれの因果を受け入れることができるようになるのです

因果とともにあり続けるということは、因果の世界は無くならないということです。因果は敢えてこころを成長させるために必要なこととして、この世界があるということです

あなたが受け入れることができないひとがいることと同じです。それは相手にとっても同じであなたを受け入れることはできないのです

それはあなたの因果を、そのひとが教えてくれているということです

因果とはあなたが排除したい意識のようなものです。そして因果とはあなた自身でもあるということです

それでは、ひとは生きていて、なにをするべきなのでしょうか・・・、また、なにかしなければならないのでしょうか・・・

そして生きるとは、なんのことなのでしょうか・・・

ひとで在るべきことの編 (その5)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第四章  こころの支え

あなたが過去に起こした因果を悔い改めることで、今世では良い因果となってあなたの目も前に現れていることがあります。ひとつのたとえとして「ひとのためになにかをしてあげることが好きなひと」を例にとってお伝えします

「ひとのためになにかをしてあげることが好きなひと」は過去世において自分勝手な行動や言動でひとのこころをたくさん傷つけてきたのです

その因果に気づき、悔い改めたことで今世では良い因果となって無意識に、ひとのために何かをしてあげるという、ひとから感謝される行為をしているのです。それは悔い改めた結果としての行動でもあるのです

良い因果の行動はもちろん大切な行為であるのですが、裏を返せば過去の因果における戒めの行動でもあるのです。はるか古の時代に良い因果だけの世界から、長い年月を経て、強欲によって生まれた因果の世界となっているのです

今世での良い因果とされる無意識の行動は過去の因果であるということです。自戒の念により反省をして、今世では良い因果となって現れているのです。因果に気づくということはあなたの前世での行動がわかるということです

ひとはだれにでも良い部分と悪い部分があります。悪い部分は過去から引きづってきているあなたの因果であり、良い部分は過去の因果を良い因果に変えて今世に至っているということです。それがこころの成長のあり様であるということです

ひとは見かけによらないということです。真ん中でのこころのあり様を保ち、天秤のごとく両端にある良い、悪いはどちらにでも瞬時に偏ることにもなるのです。それがひとであるのです。あんなに良いひとがなぜあんなことを・・・よくある話です

だからこそひとはひとりであってはいけないのです。誰かがそばにいること、だれかの支えとなるひとであること大切なのです。それでも、もし、ひとりでありたくば、あなたの信念である「志」とともにこころの支えがあればそれでよいのです

ひとで在るべきことの編 (その4)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第三章  因果の壁

以前にも伝えた通り、大きな因果であればあるほどに因果を理解して、受け入れることが大切なのです

因果を否定せずに、因果と、ともに在り続け、自身の因果に気づかせてくれたことに感謝をして、その因果を受け入れることができれば今度は、その因果を良い因果に変えることができるようになるのです

もちろん因果にも大小の違いはあります。因果で気づかされることは、小さな因果よりはじまり、小さい因果であれば意識すれば正すことはできますが、大きくなればなるほどにその因果は欲に阻まれて、因果を受け入れることができなくなるのです

俗世から離れた生活をしているかたであれば別ですが、この俗世である因果の世界において、因果を受け入れることができずに、因果によって取り込まれてしまい、さらには新たな因果を生み出してしまうなどの結果となってしまうのです

あなたは前世で、受け入れることができなかった自身の最も大きな因果について、たとえ、いま良い因果に変えることができないまでも、その因果を受け入れて、ともにあり続けることができるようになることが宿命であるのです

前編にもあった「もしあなたの大切なひとがだれかに殺められたら、あなたはどうしますか・・・」でもあるように、その場合、あなたは相手に対してどのような感情でいられるでしょうか

憎しみ、怒り、憎悪・・・は当たり前です。耐えられないことだからこそ、因果応報としてあなたは試されているということです

ただあなたの抑えきれない感情を、たとえ時間をかけても受け入れることができれば、実際にあなたの目の前で起こることはありません

でも受け入れることができなければ、それが、あなたが因果であることに気がつくまで、なんども悩み続けるということです

それは、今世で起きなくても、来世で必ず起きるということです
ひとはそのことすら、気がつくことはないのです

ひとで在るべきことの編 (その3)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第二章  恩返し

あなたは決してひとり生きて来られたわけではありません。いつもそばであなたを支えてきてくれたひとたちが必ずいます

そのひとたちにこれまでの恩返しをしてください。その恩返しとは、まずは感謝の気持ちを伝えることです。声に出せないのならこころで伝えてください

そしてあなたがいま生きていることができるのは過去からつながってきている身体があってこそです。その身体にも恩返しをしてください。その恩返しとは、これまでつながるひとたちへの感謝の気持ちだけでも十分です

この身体に対しての感謝の気持ちと、支えてくれたひとたちへの感謝の気持ちがあることを忘れずにいてください

あの世などという世界はなく、この世で生きていることがすべてと・・・、考えるひとがいてもよいのです。この世で、こころは、この身体を依り代としているだけです。いわば器としているだけなのです

ひとつ別の考え方をしてみてください・・・あの世とされる世界は、この世のことを言っているということ。この世でもがき苦しむ「こころ」は、地獄であるこの世界で、苦悩しているということです

本来は地獄などもないのですが、因果を理解できないがために勝手にこころが苦しみと感じているこの世界を地獄としているだけです。では天国は?となりますが、いまあなたがこの世を地獄と感じているか天国と感じているのか、こころのあり様次第であるということです

こころのあり様次第でたとえこの世であっても天国と感じることができるひと(こころ)はすべてを受け入れて、すべてに感謝をする意識があればそれだけでこの世は天国であるということです。逆にいつも恨みやつらみばかりを考えているひとにとっては、この世は地獄であるということです

あの世という表現で、この世とは別に世界があるとすればわかりやすいだけの話です。でも本当はあの世(現世)もこの世(常世)も同じであり身体があるかないかの違いなだけです

ただ、この身体を失ったときに、はじめて身体の大切さに気が付くのです。だからこそこの身体に感謝をしてくださいとしているのです。この身体をもっと大切に仲良くしてください

ひとで在るべきことの編 (その2)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

第一章  因果の対象

ひとの感情は常に揺れ動くものです。昨日の出来事にあった感情・・・、これから起きる出来事に対する感情など・・・感情は日々変わるものです

偏った考え方をすると因果にこころは奪われてしまいます。感情が一点に集中して、ほかから同じ因果の意識を引き寄せて、あなたの因果の感情はさらに強くなるのです

だからひとは常に誰かを必要とし、そばに、だれかがいるのです。だれかがそばであなたを支えているからひとであるのです

親、兄弟、愛するひと、友達・・・。そしてこれからも、さまざまな出会いがこころを成長させて、さまざまに気づきを与えてくれるのです

「気づき」とは、やさしさであり、ぬくもりであり、ひと助けのことです。そして相手に感謝をして、感謝をされることです

決してひとりだけでは気が付くことはできません。かならず相手がいるからこその感情であるのです

気づきとは因果がわかると、良い因果にも変えられるということです

相手とはひとだけではありません。感情が左右される万物のすべてが対象なのです。それは自然などから、特に多くのこころを成長させるための気づきを与えてくれるのです

でも植物の生命をないがしろにするような行為・・・、その気持ちですら因果の原因となります。

この世は物質世界であり、あの世は精神世界です。因果の原因をつくりだすことは、相手があっての因果であるのです。それはこの世でしか因果は起きないということです

この世で反省して、こころを成長させること・・・それがこの世の役割なのです

ひとで在るべきことの編 (その1)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

まえがき

この世は現世(うつしよ)であり、常世(とこよ)でもあるということ。こころのあり様次第でどのようにも意識することができます。あの世とされる常世はこころによる意識の在り方でいかようにも存在させることができるのです

この世とはまったく別の世界であること、この世の中にあの世はあること、さらにはそもそもあの世などなくて、この世がすべてであるということ・・・

でも、そんなことは考えたことはないし、大体そんなことを知ったところで、だからなんなんだと・・・

ひとによって、それぞれの想いがあって、それがそのひとにとって「正しい」のです。こころのあり様で千差万別に、そのひとにとっての「正しい」があるのです。それをひとつの考えにする必要もなく、そのひとにとっての「正しい」がただあればよいのです

昨日考えたことが、今日は違うなど、誰でも当たり前のことです。だから万物をひとつにする必要はないのです

道理とは、最終的にはひとつとなりますが、それはひとの役割ではありません。そしてそのひとつであることが、いま知ることが必要なのかどうなのかということです。さらには、それを知ったところで、だからどうなんだとなるのです

すべてはこころのあり様次第なのです。ひとである、われわれはひとつにする必要もないのです。ただ我の強いひとほど何でもひとつにしたがるものです

ひとつにしないと自分が不安となるのです。そして更にはひとを不安にさせてまで、ひとつにしようとして自身の不安を取り除こうとするのです

そもそもは、あの世(常世)とは、だれが意識をしたものでしょうか。ひとが勝手に死後の世界を想像しているに過ぎません

いま多くの書物が「死」について書かれていますが、あくまでもそのひとにっての死生観であるということです

当然にわたしの綴る言葉もわたしの考えであるだけです。そんなひともいるんだな・・・それでよいのです

まえがき

目次

第一章  因果の対象

第二章 恩返し

第三章 因果の壁

第四章 こころの支え

第五章 互いの立場

第六章 こどものころ~純粋

第七章 こどものころ~教え

第八章 おとなへの教え

あとがき

以上