はじまりの書 (その13)

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あとがき

はるか古代に祭祀された場所に赴くと先人を慕い敬うのと同時に自然を崇めていたことに触れることができます。一般的に神社に祀られる神さまたちはそのほとんどがひとであった方たちです。それは仏さまを崇めてご先祖さまを敬う気持ちと何ら変わりません。幾世代をもこの身体を遡れば神社に祀られる先人の神さまたちに辿り着きます。

こころが神さまの分御魂としているのはそのことを指しているのです。そして先人たちに感謝の気持ちを伝えることが大切なのです。さらにその先には自然を崇めることにつながるのです。

わたしたちの使命は常にこころを成長させることです。常世、現世など森羅万象を知ることはこころの目的・志・役割に気づき自然に導かれてこころを成長させることができるようになることです。

それは一部だけのひとに限らずにわれわれひとりひとりのこころが成長(因果を消す)をしてみなが尊い志をもってひとを救うことができるようになればとの思いです。いわゆるみなが神さまとなることができればと思っているのです。

以前にもお話をしましたがひとりが100人を救うのではなく100人が100人を救うことが大切なのです。

われわれが何故にこころを成長させるのかとは、できるだけ多くのひとを助けることにあります。

本書でも伝えていますが常世の本質は「無」です。そして「常世」とは「こころ」のことであり、「こころ」とは「神さま」のことです。そして究極に「神さま」とは「無」であるということです。

みなさまがこの現世でのひと助けにつながる志は常世でもその志を消すことなく残すことができます。以前にもお伝えをした通りで志とは感情ではなく行動です。常世での行動とは現世のひとを守る役割としての行動でありこころの成長を言います。それはあなたらしさであり、あなたの正しいとする道のことです。あなたの信念・志(こころざし)がひと助けをする世界を創るのです。

この現世ではあなたのこころのあり様次第でどんな環境であってもこころを成長させています。その環境の一例として

養護院で育てられても
母子家庭でも父子家庭でも
友達が少なくても
だからこそ得られる学びがあります

そしてさらに成長をして
家族で得られること
夫婦だから得られること
子育てを通じて得られること
独身だから得られること
仕事を通して得られることなど・・・

こころのあり様次第に合わせてでさまざまな環境で生まれ育ったこころはそれぞれに「~らしい」とする「志」が見つかるように、その「役割」もまた見つかるように学んできているのです。

そこに因果の原因となる裕福、貧困、幸せ、不幸などひとが都合よく創り出して比較をしているその感情は必要としていません。因果を知り得たものであればすでにそのことに気づいているはずです。

以前にも伝えましたが転生をするときには現世でこころが最も成長する環境で生まれてくると伝えています。どんな環境であっても学びはあり、あなたのこころを成長させているのです。それがみなさまに与えられたこころが成長するためのよりよい環境でもあるのです。こうしてあなたらしさ(正しいこと)の道(世界)が見つかってゆくのです。

わたしはみなさまにお会いしたことはありませんが同じような志を持つもの同士、言葉(言霊)で通じ合っているものと思っています。そしてこのあとがきを読み終えて、みなさまが笑顔で「さて、わたしはどうしようかな」と楽しくなっていただければとてもうれしく思います。

そして更にこころを成長させて、われわれみなひとりひとりがそれぞれの役割をもった神さまであることに気づいてゆくことに期待をしているのです。

長きにわたりこの「はじまりの書」を
ご覧いただきありがとうございます。

           2020年9月吉日

はじまりの書 (その12)

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第十一章 常世とはこころ

現世でわれわれがはじめに学ばなければならないことは因果です。ただそれをいきなり自然に答えを求めてもわかりません。それでも学ぶことは多くあります。自然にも先人たちと同様に感謝の気持ちを伝えることだけです。その答えは自然にすべてありますが、それは自分で見つけなければなりません。

この時代に至って自然はひとの強欲に侵食されてきています。それでも先人たちにはこの身体のつながりに感謝をして、自然を敬い活かして頂いていることに感謝をしなければなりません。

過去の歴史は先人たちよりの教えとして学んでください。大切なのはそれを踏まえた上であなたのこころにある役割に気がつくことです。

自然の万物に宿る神さまは「無」に近づくことでその役割を全うします。そしてわれわれのこころに常に問い続けながらこころの成長をさせているのです。

こころのあり様とはこころの成長度合いのことです。その成長度合いとは因果をもって図り知ることができます。そのためにも因果を理解しなければならないのです。現世からみた常世とは実体(身体)のない意識だけの世界です。

われわれの身体にこころが宿るように、神さま(こころ)は自然のあらゆるものである万物にも宿っています。ゆえに「常世」とは現世の中にありこころとは常世でもあるのです。

常世での「無」に限りなく近い神さま(こころ)は現世の自然の中にいるのです。そして自然の役割自体が神さまのことを指しているのです。常世という言葉を使い、勝手に分け隔ててをしようとするからよくないのかもしれません。そう思い込んでいるだけなのかもしれません。でもそうではなくわれわれは知らなければならないのです。常世とは「こころ」のことでもあるのです。

前述の通りに常世とはこころ自体を指します。現世と常世を分けてはいけません。現世の中に常世があるのです。同時に常世の中に現世があるのです。すなわち常世がこころでもあるです。それはこころのあり様自体が常世という世界をそれぞれに創り出しているのです。そしてそれぞれの常世の世界でこころを成長させてゆくのです。

大切なことは常世の世界にこころが在るのではなくこころ自体が常世でありみなさまを守る神さまとして在るのです。そして「こころ」それぞれが常世の世界を創り出しているということです。

こうしてわれわれみなひとりひとりが神さまであることに気づきこころを成長させてゆくことがわたしの志である「すべての生きとし生けるものが幸せに満ち溢れた世界になること」につながるものと信じているのです。

はじまりの書 (その11)

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第十章 神さまを越えて

われわれが神さまを学ぶのは神社に残されている史書や公的な歴史書からのものがほとんどであり、その祀られてる神さまとは先人たちのことを指しています。われわれが神社ですべきことは、ただただ感謝の気持ちを伝えることです。

そしてこころを成長させることで、感謝の気持ちを伝えるとは先人たちとのこの身体のつながりに対する感謝の気持ちであることに気づきます。

更にはその先にあるひとの役割(=チカラ)を越えたものを求めるようになります。それが自然崇拝です。太古より自然と共存をしてきたわれわれは常に自然に答えを求め見出してきました。そして遥か以前より自然物や自然現象を神格化して祭祀により崇めてきたのです。

自然や万物に宿る神さまは限りなく「無」に近いもので、なによりも因果のないこころです。これはこころが成長する先に必ず辿り着く場所です。因果を理解し得たものが人智を越えたチカラを求め辿り着く場所が自然なのです。

われわれを守る神さまに気づき、その先には自然や万物に宿る神さまがいることに気づきます。ひとの強欲が蔓延るほどにいつのまにかわれわれは自然や万物に宿る神さまに気が付かなくなってしまっているのです。

ただわれわれがそう思い込んでいるだけで自然や万物に宿る神さまはいつもそばにいて気づいてほしと望んでいるのです。そして一緒に役割を尽くしてゆこうとわれわれに期待をしているのです。

自然や万物に宿る神さまはわれわれ個々を守る神さまとは役割が違うだけでその意志は同じでいつもそばにいます。こんなにもそばにいるのにわれわれが気づかないだけなのです。自然に宿る神さまにも常に守られているのです。

そして自然や万物にも宿る神さまを意識することから、意識できるようになることが大切です。この違いは「意識する」とは自然や万物に宿る神さまを信じることであり、「意識できる」とは自然に宿る神さまを感じることです。

感じることができるようになるために、まずはわれわれを守る神さまのサインに気づかなければなりません。あなたを守る神さまはこころが成長するようにいつも努力をしてくれています。

そして常にメッセージを送り続けています。そのサインに気づき、あなたを助けてくれていることへの感謝の気持ちを込めて恩返しをするのです。そのやり取りを続けることで身近にいることを感じることができるようになるのです。そして同じようにして自然や万物に宿る神さまをも感じることができるようになるのです。

われわれは因果に気づき更なるこころの成長へと望むべく因果に囚われない自然のチカラ(役割)を求め崇めるのです。できる限りにこころを成長させて「無」に近いものを求めるようになるのです。

自然のチカラを扱うことが目的ではありません。自然に宿る神さま、万物に宿る神さまを知ることが大切なのです。そうすることでまた新たな自らの答え(志や役割)が見つかるようになるのです。常にわれわれを守り一歩先を歩く神さまとの追いかけっこです。決して追い抜くことはできませんがそれがこころの成長なのです。

常世での究極は「無」です。この「無」に至るべく追求をすることがこころの成長なのです。「無」になってくださいではありません。ただ「無」に近づいてくださいとしているだけです。常世での役割のひとつである感情を消すこととは「無」に近づいてくださいと言うことなのです。

この「無」を知ることは自然や万物に宿る神さまを知ることなのです。自然に宿る神さまはその因果もなく「無」に限りなく近い神さまたち(意志)です。ただただ役割を全うするための神さまたちなのです。

先人たちを神さまと崇めるのはひとを助けるための尊い志を持っているこころのことですが、それでも武力、財力、知力、技術力など因果の強いチカラでひとを導いてきています。ただ因果の歴史を更に越えるためにはひとり一人のこころが成長をすることで自らが神さまであることに気づかなければならないということです。

これまで神さまという言葉を使ってきていますがそれは「意志」であり「行動」のことを指しています。そしてその教えについては自らが学び、気が付かなければなりません。それがこころを成長させることなのです。

はじまりの書 (その10)

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第九章 常世でのひと助け

常世は現世の延長であり常世でもまたこころを成長させることが使命です。現世では因果を消すために因果に気づき自らの意志の強さで消してゆかなければなりません。

そしてわれわれを守る神さまは現世のわれわれに対して因果に気づいてもらうためにさまざまな形でヒントを与え、正しい方向に導いてくれているのです。ただし答えは自分で見つけなければなりません。

それは「理(ことわり)の書」でも「神さまは答えを教えてくれるものではありません」とし、さらには「答えにつながるヒントを様々なサインで教えてくれます」と伝えています。このサインに気づくことがとても大切なのです。

それはこころ寛容にできる限りに多く事を受け入れることができるようになるとそのサインに気づくようになります。つまり我を無くしてゆけばおのずと視野が拡がり考え方が柔軟になり様々に受け入れることができるようになるということです。

こうしてわれわれを守る神さまたちはひと助けのために現世でのわれわれに手を差し伸べて守ってくれているのです。だからこそわたしたちの一歩先を歩いている神さまとしているのです。そしてその神さま自身もまたこころを成長させているのです。ひと助けとこころの成長、それが常世での役割でもあるのです。

ただし現世のひとを助けるとはそんなに簡単ではありません。何せ常世では身体がないので言葉を発することができません。ましてや常世での神さまの役割など到底理解をしているはずもありません。そしてあなたへのサインなど現世のわれわれは普通に気づきもしません。それをどうやって現世のひとに知らせてあげることができるのでしょうか。

実はその気づかせてあげることがあなたを守る神さまの役割であり試練でもあるのです。一番にわかりやすいのが災いから守ることなのですが、そのことに気が付くひとはほんのわずかでしょう。「この程度で良かった」と守られていることに気づかずに現世のひとが一生を終えることがほとんどです。

守るというのは災いから守るだけでなく因果に気づかせてあげることも大切な役割のひとつです。それをどうやって気づかせてあげるのでしょうか。それらがわれわれの一歩先を歩く神さまたちの試練でもあるのです。逆の立場で考えてみてください。これほどもどかしいことなどありません。

こうして現世で生きるわたしたちは常世の神さまに守られていることを知り、因果に気づき、そして消してゆくことで自らがその答えを見出してゆくのです。われわれの求める答えとは「志」のことであり「役割」に気づくことです。そしてその「志」や「役割」は必ずひと助けにつながっているものなのです。

こうして常世でもこころを成長させる(ひと助けをすること)ことが使命であり役割であると気付くのです。そして現世のわれわれと一緒に常世の神さまたちもまたこころを成長させようとしているのです。

はじまりの書 (その9)

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第八章 神さまの因果

それではもう少しだけ「神さま」という言葉の意味を紐解いてみましょう。わたしが言う神さまとは「あなたを正しい方向に導くこころ」のことを伝えています。

それは以前にひとであった神さまたちのことであり過去に各地で祀られていた神さまたちなど2000年以上の時を経て様々にいらっしゃいます。日本ではそれを八百万の神さまとしていますが大切なことは祀られている先人たちが誰なのかではなく、そしてあなたを守る神さまがどなたかなのかを知ることではありません。

先人たちを敬うというその行為・気持ちが大切なのです。それにたとえ知ったところでどうだと言うのでしょうか。知った相手の良し悪しであなたの想いが変わるのでしょうか。大事なことはそのように考えるあなたのこころのあり様であり、あなたのこころの成長が大切なのです。

あなたのこころのあり様次第であなたを守る神さまもまた変わるのです。第七章でもお伝えしましたが「あなたの一歩先を歩く神さま」です。あなたのこころが成長すればそれに合わせて「一歩先を歩く神さま」も変わるのです。このように相手が問題なのではなくあなた自身のこころのあり様が問題であり大切であること忘れないでください。

いにしえより祀られていた神さまもまたひとであった方たちです。そしてより多くのひとを幸せに導くという志があったことに変わりはありません。以前より伝えていますがそれもその方たちの役割であったのです。

神社と同様に磐座など先人たちが祭祀された場所に赴き触れることでこれまでと違ったものの考え方、感じかた、見かたに気づくことが多くあります。

それゆえにいまわれわれを守る神さまにも一様にそれぞれに因果があるのです。現世で生きるわれわれ同様に同じように因果をもつ者としてわれわれを守りながら一緒にこころを成長させてゆこうと努力をしてくれているのです。

先人たちへの感謝の気持ちの念に変わりはありません。先人たちのつながりでいまわれわれはあるのです。ただひとの持つ因果が深く関わってきたことも事実です。

神さまとはひとを救うために明確な役割をもって行動している意志(正しい方向に導くこころ)のことを言います。

いま一度伝えますがすべてとは言いませんがいにしえのより祀られていた神さまたちは常に戦いという因果が付きまとうひとたちでした。ひとを幸せに導くという尊い信念・志はありましたが、ただそれを為すためのチカラは武力や財力による手段でひとを束ねてきたものがほとんどなのです。それでもそのチカラで救われたひとたちにとっては大切な神さまたちなのです。

それは先人たちがその時に自らの「役割」に気づいていたからに過ぎません。そのひとだからできたのです。そしてそのひとにしかできなかったことであり、尊い志をもって役割に尽くそうとした結果なのです。

そうしてこれは現在も受け継がれているのです。他国と均衡を保ちひと(国)を束ねているチカラは今も武力であり、財力であり、法であり、過去となんら変わりはありません。2000年の時が過ぎてもこうしたその「役割」=チカラもってひとを導いてきているのです。近年で言えば徳川家康さまがそのよい例です。天下泰平の世を創るために戦をしては平和をもたらし300年の月日が流れました。こうしていまでは東照大権現さまとして崇められているのです。

過去を否定しているのではありません。そして何度も言うようにいま祀られている神さまを否定しているわけでもありません。ただ過去を学んでくださいとしているのです。そして受け入れてくださいとしているのです。われわれひとの歴史はいまと何ら変わりのない因果の歴史なのです。

例えば各地の神社にある伝承をつなぎ合わせた別の史書では素戔嗚の神さまを中心とした饒速日の神さまの流れを汲んだ神さまたちのことが伝わってきます。その中で素戔嗚の神さまは戦乱の世を避けるために日本列島を先進技術でもって統一することを決意したとあり、そして饒速日の神さまは日本列島の平和的統一を第一に考えていたとあります。できるだけ戦を控え、いずれも尊い志をもってひとを幸せにしようとしたのです。

ただ冒頭でも似たことを記述していますが歴史に真実を求めるにこしたことはありませんが、それがすべてでもありません。こうした考え方を知ることでそれぞれがこころの成長につながればそれでよいのです。すべてはこころを成長させることがわれわれの目的です。

また紀元前後(弥生時代中期)において武力や財力・技術力とは別のチカラでひとを束ねきたひとたちもいました。それは祭祀を司るものたちのことです。どれほどのチカラであったのかは図り知れませんが、戦をせずともひとを救おうとして自然に宿る神さまや故人を敬い磐座で崇め祭祀をしてきたのです。

そしてこの祭祀をする気持ちの名残が磐座から現在では社として神社において先人たちを敬うという行為に変わり、それを神道として、そのあり様を引き継いできています。祭祀の根本は先人を敬い、自然の神さまたちのチカラを崇めることにあります。

このようにしてその先にあるのはいつの世も自然のチカラを崇めることであり、それは先人たちもまた常世の何たるかを理解していたのです。

はじまりの書 (その8)

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第七章 ものの見かた、考えかた、感じかた

「原因があっての結果です」
「理由があっての必然です」

これまでの振り返りをまとめた言葉です。われわれの生きる目的は「こころの成長」です。これ以外にありません。

すべてのひとの身体にはそれぞれにこころが宿っています。そしてそのこころとは別に、わたしたちより「一歩先を歩き、われわれを守る神さま」がそれぞれにいます。ここでいう神さまとは先人たちのことであり以前はひとであった方たちのことです。直接のご先祖さまではないですが遡れば大きな括りでご先祖さまといってもよいでしょう。

前述をした通りにわれわれを守る神さまもまた自らのこころを成長させることが目的です。現世のひとを守ることが常世でのひと助けのことを言うのです。常世でのひと助けとは現世のひとを守ることなのです。われわれを守る神さまとはひと助けのために現世のわれわれを守ってくれているのです。

常世でのこころの成長(ひと助け)とは現世のひとを守ることが役割なのです。
われわれを守る神さまとはこの身体を守り、また協力をして一緒にこころを成長させようとしてくれている「こころ」たちなのです。われわれの身体に宿るこころと同じ「こころ」なのですがこの文中では自身のこころと混同しないように「われわれを守る神さま」と表現をしています。

間違えてはいけないことはわれわれを守る神さまは決してあなたを裏切ったり、災いをもたらすようなことは絶対にしません。もしもそのように感じるならばそれはあなたが感謝もせずに勝手に裏切っているだけです。甘えたことと思わないでください。

ただひたすらに、純粋にあなたを守り、こころの成長につながるようにいつも努力をしてくれているのです。そのことだけは絶対に忘れないでください。ただそれよりもあなたの我が強ければどうすることもできませんが・・・。

少し整理をしてみましょう。この現世では、まずはこの身体があります。この身体で意識を司るのは脳ですが、脳とは別に身体の中に意思を持った「こころ」があります。そして更にはこの身体とこころを守る神さまがそばにいるということです。

まずはわたしたちを守る神さまに感謝の気持ちを伝えてください。ご先祖さまがあってのこの身体のつながりです。そのためにも恩返しをしなければなりません。ここで言う恩返しとは感謝の気持ち(自身がこの現世で存在していることに対する身体のつながりのこと)を伝えるだけでもよいでしょう。

そしてわれわれは何のために生きているのかをいま一度、自分に問いてみてください。

あなただけしか知らないこと、あなたのこころの闇は他の誰も知りませんがあなたを守る神さまだけは知っています。だからこそあなたがこの現世で生きているすべての良し悪しの判断ができるのです。

あなたを守る神さまだけがあなたのすべてを知っているのです。他者と同じことをして結果が違うのは、物事を一点でしか見ていないからです。こころの過去からを線で見たときに誰もがみなさまの考えや行動は異なりその結果で判断がされているのです。

もう一度伝えます。あなたの一歩先を歩くあなたを守る神さまは、誰もが知らないあなたのこころの闇を知っています。だからこそ正しい判断ができるのです。そして一歩先を歩いているからこそ事前にあなたの身体を守ることができたり、考え方を正しい方向へと導いてくれるのです。ゆえに誰もが平等にこの現世を生きているのです。決してひとを外見などの点で見た容姿やその情報に惑わされないでください。

ゆえにこの現世で起きた事実について、すべては原因があっての結果であり、理由があっての必然であるとしているのです。これをいつ何時もこころに刻んでおいてください。

はじまりの書 (その7)

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第六章 大切な「身体」の役割

現世で因果を消すことができるが、常世では因果を消すことはできません
現世で感情は消すことはできないが、常世では感情を消すことはできます

この違いは「身体」が在るか無いかです。そして身体があって相手がいるかいないかの違いでもあります。だからこそ因果も感情も本来は現世に在り、ひとに在るものなのです。そして現世・常世・因果・感情に関わりをもつのは「こころ」です。

この理由についてもう少しお伝えすると現世では因果を創り出す原因はひとの感情であり、それは相手があっての妬み、憎しみ、恨み、強欲など他のひとと比較をした感情です。この身体があっての因果であり、この身体なくして因果はないのです。

常世とは意識だけの世界です。常世での感情がイメージであれば簡単に消すことができるとも思えますが、何故できないのかというと現世でひとであるときに自分で創った因果です。なかなか気がつかないものです。

自分が現世で因果に気づかない限り、自分で消すことはできませんし、自分で因果に気づいてこそ初めてこころ改めて自分の因果を消すことができるのです。因果を創り出すのは感情であり、感情はひとにしかないものです。厳密にいうと生き物すべてに感情はありますが欲がないので因果とならないだけです。ひと以外にある生き物の感情とは「役割」を意味するのです。話がそれましたが、ひとの感情とは意識と同化してしまっているため感情だけを消すことが困難になるのです。いわゆる現世では「こころと感情と身体」が一体となっているからです。

それゆえ同じ条件にある現世でしか因果を消すことができないのです。それがこの現世と常世の違いであり仕組みなのです。また他人の因果を背負わない、背負うことはできないとはこうした「原因があっての結果」によりひとそれぞれにこころのあり様が違うものだからです。そして常世では因果に気づいても一度では消すことができないからこそ転生を繰り返すのです。

現世は唯一あなたの思いのままにできる世界なのです。いま生きているあなたの世界とはどんな世界(人生)でしょうか。

現世で因果を創り出すことはできても常世で因果を創り出すことができません
現世で感情を創り出すことはできても常世で感情を創り出すことはできません

これらも現世・常世に共通して言えることは「身体」があるかないかの違いです。
それは因果を創り出す原因となる感情が欲に変わる相手がいるかいないかの違いと言ってもよいでしょう。因果を創る原因は感情ですがその感情はひとと比較をするからこそ生まれるのです。

以前にもお伝えしましたがだからこの身体はこころを成長させるためのどうしても必要な器なのです。

このように現世では現世の役割があり常世には常世の役割があるのです。それでもすべてに共通しているのはこころの成長にほかなりません。

はじまりの書 (その6)

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第五章 常世と現世の関係

こころはなぜ常世から現世へと転生するときに過去世の記憶が消されてしまうのでしょうか。それは常世の役割である感情を消して「無」になることと同じようなことでもあります。

また転生をした時に以前の記憶が残ったままであれば現世に転生をしても更に欲深くなり因果に気づき消すことなど到底できないからです。そもそもはこころの成長が目的です。そしてみなが平等でなければならないのです。

そして現世での役割である因果を消すとは絶対に同じことの繰り返しをしてはならないと言う意思の強さで成すことができるのです。そのためにも因果に気づき理解をしてそのことをこころに刻むのです。そのためには平等に一旦リセットをして何度もやり直しをするのです。

当然に神さまはその先にある答えを教えてはくれません。そのためには自らの因果の罪を自身で気づき、自らで因果を消してゆかなければならないのです。現世からこの身体が滅び常世に移った時には自らを反省し因果について気づき理解をすることはできますが、それはあくまでも現世で因果を消すための常世での気づきでしかありません。「次こそは現世に転生して因果を消す」という強い意思をもって記憶のすべてを消して転生するのです。ただそれでも大半は現世での欲に溺れてしまいその因果に気づかないものです。

何度も転生をするのは現世で因果を消すことがそれほどに難しいからなのです。
そしてこころがもっとも成長するために(因果を消すために)それぞれのこころのあり様次第で適切な環境に合わせて身体に宿り生まれてくるのです。

簡単に因果に気づき消すことができるのであれば転生など必要ありません。確かに常世から転生するときに記憶は消されますが厳密にはこころの潜在意識の中にはその記憶は残されています。ただほとんどのひとが現世では気づかないだけです。稀に退行催眠や潜在意識に触れて気づくひとはいるようですが・・・

現世ではこの身体が在るからこそ、相手と比較をしての欲望の感情によって因果を創ります。また一方ではここを成長させるためにこの因果を消そうとしていることを試練と課しているのです。

そして常世では因果に気づかずに現世で消すことができなかった「こころ」はひたすら気づくまで苦難にさらされるのです。

このようにしてこころを成長させるために現世も常世も不条理な世界であることを知るのです。「こころの成長」というその目的さえわかっていれば何が大切であるかを理解することができるのです。

はじまりの書 (その5)

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第四章 こころのはじまり

この身体はこころが宿る依り代です。この身体ははるか以前よりつながってきている大切なものです。

こころとは本来は神さまのことです。そしてこの現世ではこころを成長させるために因果を消してゆかなければなりません。

余談ですがよほどの我が強く、因果に縛れているものはさらなる邪悪な意思によってこころ奪われ、この身体を操られてしまうのです。

こころが身体から離れてこころだけの状態となったときにこれまでのように身体を使って言葉を発することができなくなります。同じように見るということについて視覚も身体があってこその脳の認識です。これも身体がないのでできません。このように身体があってできていたことすべてができなくなりその感覚だけが経験値として残るのです。そのことを知るとはじめてこころが常世にあることに気づきます。

身体のないこころだけの状態で話をしたり、見たりするというのはあくまでも現世からの経験値によるイメージでしかありません。自分で勝手に想像をしているだけで相手には伝わりません。だから常世のこころは現世のひとに言葉で話かけることができないのです。※第三者を使って利用する場合もありますが話がそれるので省きます

常世ではこころのあり様次第で見る世界や感じる世界がそれぞれ違います。これは現世でも同じことが言えます。こころのあり様次第で環境が違い、出会うひとも違うのです。この現世でもひとそれぞれの価値観はみな違うのと同じです。ある意味で価値観とはこころのあり様のことでもあります。

常世での役割のひとつに感情を消してゆくということがあります。いわゆるものを見るから、会話をするから感情が生まれるのです。そして相手があるからこその感情が欲に変わるのです。この意識はたとえこの身体がなくとも現世での経験値ゆえにさも実体としてさもあるかのようにイメージをします。ただし、いずれは因果に気づき、虚無であることを知るようになります。

このようにしてやがては、ひとの身体で経験した五感をもすべて必要でないことを知るのです。こうしてその先にある「人助け」、そして「無」へと誘われてゆくのです。

こころの成長に終わりはありません。現世から常世へと、そして常世から現世へと転生するときに記憶が消されて「無」となることも、そして「有」となって身体を得ることもそれぞれがはじまりです。

冒頭にあるように、この身体はこころとつながる依り代です。「理(ことわり)」知り、「自在」に志を身に付けて「はじまり」へと向かいこころを成長させてゆくのです。

はじまりの書 (その4)

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第三章 意志の強さ

現世でよく「こころが強いひと」と言いますがこれは「意志が強いひと」のことです。こころの成長とは意志の強さとして現わすこともできるからです。

前述よりお伝えしているように因果を消すことは現世でしか消すことはできませんが常世では感情を消すという役割があります。そして現世での因果を消すということと同じように常世での感情を消すことは意思の強さを持って叶うことができるのです。

そして感情を消すとは因果を知り得ていなければできません。逆に言うと因果に気づけば自然と感情は必要としなくなるのです。因果とは感情が創り出しているからです。

現世でひとの経験をしてきた「こころ」はさまざまな感情が創り出したイメージの世界を常世にまで引きずってきます。現世から常世に移った時のこころのあり様次第で現世でそれぞれに執着していた感情によるイメージの世界が心地よいのです。

大抵の場合は年老いて現世から離れる場合はその時点で長く生きている分だけこの世の何たるかを知っています。そのため強欲である者は少なく自然と常世へとゆけるのです。

そして常世では現世から引きずってきているその執着した欲(感情)をひとつひとつ消してゆきます。常世をどのように感じるかは、その時のこころのあり様次第でどのようにも感じることができるのです。

現世で因果を消すこと、常世で感情を消すこと、この両方にとても大切なのが「意志」の強さです。この書では「意志」と「意思」を使い分けています。「志」は決して揺らぐことのない信念であり行動です。こころが成長するためにはどうしてもこの意志の強さが必要となります。この意志の強さをもって「志」が守られて「役割=行動」が見つかるのです。

まずはあなたらしさの「意志」をイメージしてみてください。またはとても大切にしていることや信念などでもよいでしょう。何度も言いますが意志とは言葉よりも行動が大切なのです。それはあなたが楽しくなるような、または笑顔になるような行動を言葉にしてもよいでしょう。