真ん中の編 (その2)

右上から見下ろしているお姿

素直であること~真ん中の編

第一章  する側とされる側

以前にもお知らせをしましたがひとの社会において引き起こされる事件、事故での被害者となるひとについてそれは偶然ではなくすべてが必然であるのです。そして被害者となる、ならないの違いは被害者自身の因果によるものなのです

被害者となるひと(される側のひと)は前世でひとを殺めてきた経験をしており、加害者となるひと(する側のひと)は、逆に過去でひとに殺められた経験をしています。このようにする側(加害者)とされる側(被害者)は互いに同じことをしている因果でつながっているということです

ひとの感情から生まれた強欲はひとのこころを傷つける行為を繰り返してきているのです
「する側」と「される側」は表裏一体です。する側もされる側も現在、過去とその行動は強欲のままにこころの闇に支配されて相手のこころを傷つけ、傷つけられてきているのです

「する側」は過去に「される側」としての憎しみの感情が心地よく、「される側」は過去に自身が「する側」として強欲の感情をいまもそののままに携えており「する側」の感情を引き寄せているのです

そして実際に被害者となってもその因果に気が付いていないため、なぜ自分だけが被害者になったのかと悩み続けるのです

ひとのこころを傷つける因果には「する側」と「される側」での引き寄せの法則としてある種のグループのような存在があり、それは相手のこころが傷つく深さによってさまざまにあるのです

被害者となるかたのほとんどは自身の因果に気付いておらずに成す術もないままに「必然」として巻き込まれてしまうのです。そして本人はなぜ自分が被害者となったのかをわからずにこころは彷徨うのです

そして被害者を知る周りのひとはなぜあんなに良いひとが・・・として悔やまれるのですがその被害者となった原因であるこころの闇にはどんなに身近なひとでも気が付かないのです。なにせ本人すらも気付いていない場合もあるのですから・・・

因果に気が付くことはこれまでずっと伝えてきている通りです。簡単に言えばこころは素直であり、相手に感謝の気持ちを常に忘れないこと、そしてすべては理由があっての必然であることを理解しなければならないのです

ひとである以上は大小の違いはあれど必ず何かしらの因果を抱えています。だからこそ、ひとで在るのです

真ん中の編 (その1)

右上から見下ろしているお姿

素直であること~真ん中の編

素直で在ること~真ん中の編

まえがき

異国のひとの場合の因果とはどうなるのでしょうか。例えば同じアジアでも中国の方との気質である感情のあり様は日本人のそれとは大分違いますが、ただそれでも因果については同じです。相手のこころを深く傷つけたひとは相応の因果をかならず背負います。すべてのひとは因果を背負います。例外は一切ありません

因果応報を英語ではことわざとして「What goes around, comes around」とあります。意味は「因果応報」、「自業自得」です。ですが米国では「karma」(カルマ=業)と言う言葉の方が馴染みはあるようです

世界中の数多ある教えには必ず「良いことをすればよいことがある」、「悪いことをすれば悪いことが起きる」といった考えかたの言葉は必ずあります。そして因果とは昔から特に日本人の気質にあった考えかたにあるということです

日本では仏教が在ることもそうですが根本的にある自然崇拝が根付いていることがその証です。自然によって活かされている考えかたは、みなさまが気づかないまでも自然の法則を潜在意識として感じているということです

こころ、意思、良い因果、これに摂理(自然の法則)が加わるのです。すべて同じであるということです

こころはこの世でひとを依り代として生きる理由を知り、あの世でのこころの意味はこの世でもあの世でも同じであり、それはこころを成長させること事です

わたしがみなさまにお伝えをしていることはすべて身をもって体験したこと、感じたことなどその中から生まれた考えかたを記しています

そして因果を通して良い因果を体感することができてもそれはひとつの通過点です

こころ、意思、良い因果、摂理(自然の法則)がすべて同じ意味であり言い回しを変えているだけなのです

そのことが理解できるとひとはさらにこころの成長をすることができるのです。今回はそのあたりのお話ができればと思っています

~それでは本編をご覧ください

まえがき

目次

第一章 する側とされる側

第二章 真ん中

第三章 あなたにとって

第四章 感情とこころ~その1

第五章 感情とこころ~その2

第六章 理性(こころ)~その1

第七章 理性(こころ)~その2

第八章 意志のあり様

あとがき

以上