こころの起源 (その7)

水鏡に映るお姿

第六章 こころの闇

地獄という言葉は仏教に由来する言葉ですが、そもそもなぜこのような言葉が生まれたのでしょうか。その原因は因果によるものということは以前にお知らしているとおりです。地獄とはひとのこころを傷つけることを言うのです。

ただ大体がその当事者であるひとが「因果」ということを理解していないので起きている事象を地獄とは思っていないだけです。この現世で起きる偽り、いじめ、虐待、強盗、殺人・・・という行為がまさに地獄そのものなのです。地獄とは別の世界の話ではなくあなたのすぐ隣でこころの闇によって日々行われているのです。

そして自殺もまた自らの思い通りにするという我を通したある意味で強欲によるものなのです。それを意思が弱いという言葉に置き換えているのです。そのような因果を打ち消すためには「志」を持つことがなによりも大切なことなのです。

こころの闇とはだれもが持ちあわせている因果です。誰もがひとには言えないこころの闇を抱えています。これは因果の根本でもあります。抑えきれないような感情といってもよいかもしれませんが通常はこころの奥深くに蓋をして閉じ込めています。ただある時に何かのきっかけでその感情が抑えきれなくなり行動に現れてしまうのです。

こころの闇とは、こころのあり様次第で程度の差はあってもひとそれぞれに必ずあり、因果においてもっとも奥深いものです。

たとえばですが虐待により衰弱死をさせた事件があり胃や腸の中には食べ物の代わりにゴミが入っていたなどの耐え難い事件を知った時に、ひとの感情は強く揺さぶられることでしょう。

この衝動は強い信念や「志」をもつひとほどにその強く現れるものです。もちろん前述のような事件を知ってもなんとも思わないひともいるのです。

こころの闇とは因果の結果を引き起こすための様々な原因の束のようなものなのです。ひとがもつ因果とは決してひとつではありません。そして衝動とは因果の結果を引き起こす引き金であるだけです。ただ「志」が強ければ強いほどに衝動も大きく、その衝動によって自らの「志」をさらに強く掲げるようになることも事実です。

こころの成長とは因果にも支配されることなくわれわれみなにあるこころの闇をひとつずつ消してゆかなければならないのです。

こころの起源 (その6)

水鏡に映るお姿

第五章 自然のこころとは

なぜ天災が起きるのか、それは天災を起こす自然に聞くことが一番でしょう。この言葉の意味はとても大切です。

それは何故、因果が起きるのかについては因果を理解することが一番であるのと同じです。でも当事者はそもそもが因果ということに気づいていないひとが多いのです。だから理解をすることができないままなのです。そして天災が何故起きるのかについて自然に問うということもまた同じで、われわれ自身が自然に気付かなければその理由を導いてはくれません。だから「起きる」ことが必然であるという解釈となるのです。

それでは少しずつ紐解いてみましょう。まずはわれわれが普段使う自然という言葉についてお伝えをします。

われわれが普段使う「自然に〜」と「は成り行き」の意味として使われることが多いですが、これは「そのままに」という理解ですが、実は「素のままに」であり「穢れないこころのままに」ということなのです。

これはその時のこころのあり様でそれぞれに感じかたが違うものです。自然が起こす天災も因果であり、原因があっての結果です。地球は生きているとの表現の仕方がありますがそれは自然のままに(穢れないこころのままに)起きる出来事でしかないのです。

ただ自然が起こす事象についてひとは都合の良いことだけに感謝をして、都合の悪いことは自然に対して「なぜ」として抗うのです。天災という言葉がその良い例です。ひとは都合の悪いことは天の災いとして意識するのです。そして自然には自然の因果があり、ひとの因果を自然が背負うものではありませんし、また逆もしかりです。

そして天災もわれわれひとのこころのあり様次第で受け取りかたによって違います。こころが未熟であれは天災を悲劇とするでしょうが、こころが成長しているひとにとっては「当然」と理解をするのです。

さらには冒頭にある天災はなぜ起きるのかという疑問自体がおなしな話なのです。自然(地球)は生きています。この生きているという原因によって結果として天災が起きているだけです。ただ事象が「ある」だけなのです。

われわれは根本的に誤解をしているのです。ひとのために自然があって、地球があるのではありません。地球があって、自然があってひとは生かされているのです。ひとが中心であると傲慢な思い違いをしているのです。

理解をしてほしいことはひとの因果が原因で天災が起きるものではありません。天災とはただ自然(地球)が生きているという結果によって起きるだけです。

天災とはそもそもひとが使う言葉であって自然にとってはごく当たり前のことです。これを災いとしているのはひとの勝手な都合です。「自然のままに」というこころのあり様ですべてを受け入れなければならないのです。

天災は自然(地球)もまた生きているという理由があり天災が起きるという必然なのです。これはひとが生きている(こころを成長させる)という原因があって出来事(因果)起きる結果と同じです。

こころの起源 (その5)

水鏡に映るお姿

第四章 良い「因果」

法で治める世界よりも遥か以前では「自然のままに」とした秩序のもとで世界が保たれてきました。その秩序とは「良い因果」のことであり「良い因果」とはひとの助け合いであったあり、ありがとうと言い合える感謝の気持ちによる互いの行動であったりと、それは慈愛に満ちた世界でした。そしてこの「良い因果」とは摂理そのものでもあるのです。ちなみに摂理とは自然の法則のことを言います。

ただその摂理である「良い因果」はやがてひとの欲に押しのけられて、強欲による「悪い因果」と入れ替わり純粋な「こころ」とたもとを分かつようになってしまったのです。

初めは良い「因果」と「こころ」はひとつであったのですが強欲な「因果」が生まれたのと同時に摂理から離れて「こころ」とは別もののようになってしまったのです。
もともとはひとつであったがゆえに「こころの成長」とはこの「悪い因果」を無くすことが大切であり、それは同時に良い因果を取り戻すことでもあるのです。そのために信念・「志」が必要となるのです。

「すべてはこころの成長のために出来事(事象)はある」ことは自然の役割です。こころはその成長度合いに応じて平時でも戦時でもさまざまな「~らしさ」で成長して、お互いの信念・志が交錯する中でこころを成長させてゆくのです。

たとえば争いごとにおいて互いに志を掲げ戦いますが敗者は相手の信念の礎になるものと覚悟をして散りゆき、勝者はその意志を背負ってさらにその志を貫いてゆくのです。このようにしてはじめは「志」同志の争いであったのに次第に強欲の争いごとへと変わってしまったのです。

いまでは平和の世も戦乱の世もこころのあり様次第が違うだけで欲に溺れその結果で起きる事象に変りありません。前述にもありますが太古の時代にあった互いに助け合い、互いに感謝をした行動をするなど穢れのない「良い因果」は全くなくなってしまったのです。

自然の一部である「よい因果」とは「志」のことです。いまわれわれはそのこころを取り戻そうとしているのです。

こころの起源 (その4)

水鏡に映るお姿

第三章 「志」

わたしが良く伝えているこころのあり様とは成長度合いに応じて様々です。こころの成長に終わりはありません。そしてこころの成長度合いによって起きる因果もさまざまです。こころの成長とは自らが因果を気づくことに意味があるのです。

例えば望まないことや嫌なことが起きることはそれ自体が因果であるのでわかりやすい指標です。「自分はこうだから」結果として「そうなったんだ」と素直に理解をすればそんなに難しくはありません。ただそれを認めたくないために無意識にひとのせいにしたりするのです。それに嫌なこととはすぐに感情となって現われてしまうので、冷静に因果と認識をするのは難しいのです。だからなかなか気づかなくなってしまうのです。

「志」とはあなたの「覚悟」のことです。覚悟の漢字はそのままに「悟りを覚える」ことです。その「悟り」とは「志」のことであり、あなたの「役割」として行動をすることです。逆に言うと「覚悟」がなければ「志」は続きません。それほどに「志」とは大切なものなのです。ご存じのように「覚悟」とはゆるぎない信念のことです。

この先もどんなにも辛いことが待ち受けていることでしょう。その時に「こんなはずではなかった」と思うようなら初めから「志」など掲げないでください。それほどまでに「志」をもったこころとは尊いのです。

あなたが創る「志」の世界とは完璧でなくても構いません。あなたらしさでひとを助けることができるのであればそれでよいのです。長所をできるかぎり伸ばしてください。完璧でないあなたの短所は必ずだれかが補ってくれるものです。だからこそ「~らしさ」の「志」がたくさん必要となるのです。そのようにして互いに助け合いながらに更にもっと大きく満ちた世界が創られてゆくのです。

こころは現世も常世もさまざまに経験をして成長します。あなたのこころはそのあり様次第でさまざまに世界(空間)を創ることができるのです。

あなたのこころの中に現世も常世もあるということを理解してください。

そして「志」が高ければ高いほどに、大きいほどに、尽くせば尽くすほどに「志」は「こころ」と同化して「~らしさ」の世界観による空間を創り出すのです。

こころの起源 (その3)

水鏡に映るお姿
第二章 そこに「ある」こと

ひとは脳で考えたイメージを言葉に発した時点でそこに「ある」のです。この「ある」とはイメージのことです。もちろん事実ではありませんがそれは時間の問題です。

この「ある」とは「できる」とした意味です。ひとは脳で考えたイメージを必ず実現することができます。これは実現させるために要する時間が違うだけです。そしてこれまでもそのようにして科学を発達させてきました。

そしてあなたに起きる出来事はあなたに必要だからこそ起きるのであって、それはただ「ある」だけです。たとえ神さまも、因果も、こころも、信じなくともあなたにとって必要なことがあなたの目の前で起こるだけです。これは自然の中で生きる法則(摂理)なのです。

ただ「ある」という表現の仕方をしているのは起きる出来事をそんなに難しく考えないでくださいと言うことです。いつでも・どこでも・だれにでもあなたに必要だから「起きる」ことなのです。

ひとは自然の一部であり、原因があっての結果とはそもそもは「自然のまま」に「ある」ということです。そして良い因果とは摂理のことをいいます。摂理についての一例は先の「その先の扉 第五章」でお伝えした通りです。自然に生きるものは明確な役割をひたすらに果たしているだけなのです。ただひとだけはそのことに気づかないものが多いのです。

いにしえの時代よりひとは摂理から離れて独自の社会や秩序を築いて成長してきました。いまさら「こころの成長」などと言われてもその言葉を理解することはなかなか難しいものです。そんなことを意識せずともこれまで生きてこられているからです。

これはひとがすべての中心であるという傲慢な姿勢を創ってきたからにほかなりません。でもその結果がさまざまに問題を抱えてきているのです。だからこそいま一度、自然を知り、自然の一部であることを理解しなければならないのです。

「こころの成長」とは「すべての起きる事象はこころの成長のためにある」として起きた事象は因果の結果でありただそこに「ある」としています。その結果に対する原因とは「こころの成長」であるということです。たとえ因果応報を理解しているかたでも因果を自然と結び付けて意識したことがあるでしょうか。

それは自然の仕組みを理解すれば自ずと因果の本質も理解することができるということです。それら起きる出来事を点で感じればさまざまに不条理であると想うことばかりでしょう。でも自然というこれまでのつながりを線で考えた結果を知ることができれば因果の先にあるのが「志」であると自然と導かれるのです。

自然とは自らが一生懸命に生きるのと同時に相手をも活かし(助ける)、更には未来に想いをつなげる行動をしているということです。そして自然に生きるそれぞれに「~らしさ」をもって役割に尽くしているということです。これが良い因果のことです。このことがわかればその真逆である因果(悪い)がどのようなことがわかります。

自然は純粋で素直なだけです。天災など自然がひとに与える影響は図りし得ないこともありますが、それはわれわれだけでなく自然に生きるすべての生命に影響があるのです。ひとだけが特別なのではありません。自然に優劣などありませんし自然では生きるものすべてが一緒なのです。

こころの起源 (その2)

水鏡に映るお姿
第一章 想い

われわれがそれぞれ掲げる「信念」、「志」はみなさまの「~らしさ」でそれぞれに独自の世界を創り出します。わたしの場合「志」とは「すべての生きとし生けるものが幸せに満ち溢れた世界となること」でありそのために必要なことが「こころの成長」でありその行動(役割)は「ひと助け」であるとしています。

この世界とはこころを成長させるために「因果」に基づいてさまざまな出来事(事象)が起きているのです。

この「生きとし生けるもの」とは生命のありとあらゆるもので更には「自然の万物に宿るこころ」までもがその対象としています。

そしてわたしの生きる様とは「因果を知り、信念、志を掲げ真っ直ぐに貫いてゆきます」としています。

この世界にある答えは決してひとつではなく「~らしさ」でこころが成長した数だけあるとしています。それはひとりが100人を助けるのではなく100人が100人を助けるということを意味しています。またわれわれ以外でも自然に生きるものたちはさまざまに限りない「志」を掲げています。

このようにしてわたしなりの「志」の世界を創り出しているのです。これまでの「理の書」、「自在の書」、「はじまりの書」、「その先の扉」では「わたしらしさ」でこの現世について説明をしているものです。これらは「信じてください」ではなく「こころを成長させてください」としているものです。

まったく別の考えをされるかたもいますがそれぞれにさまざまな世界観を築いているのです。でもそれはそれですごく良いことで、こころを成長させているひとがたくさんいるというのはわたしの想いでもあります。

こころの起源 (その1)

水鏡に映るお姿
まえがき

これまでのわたしの書について記載していることはわたしなりの正解であってみなさまにとっての間違いであることは常に意識をしていてください。

わたしの書を踏み台にしてみなさまの気づきにつながればそれでよいのです。読みながら常にみなさま自身の想いと対峙してみてください。みなさまが感じることやその想いがみなさまにとっての正解です。

みなさまがそのような気持ちでこれまでの書を含めてご覧になっていただけるととてもうれしく思います。

わたしの書は言い回しを変えてで同じことを伝えている場合が多々あります。それはひとつの伝え方ではわからないことやイメージできないことがあるので、もっと理解をしてもらうために幾通りかの伝え方をして、そして更には自らの経験による例え話をするなどして理解をより深めていただければとの想いによるものです。すでに理解ができるかたには少しくどいかもしれませんがご容赦ください。

それでは前文に入ります。ひとの身体を器としている「こころ」を「魂」と表現される方もおりますが、わたしの書では魂を「こころ」と表現しています。そしてあなたを守る神さまとは「あなたのこころより一歩先を歩く神さま(こころ)」のことであり、あなた自身のこころと混同しないようにするためにわたしの書では「あなたを守る神さま」と役割を加えた言葉としての呼称を使っています。

そしてわたしがみなさまにお伝えする「神さま」とはすべて先人たちのこととして伝えています。ひとであった方たちのことを神さまと呼んでいます。なぜ先人たちのことを神さまとしているのでしょうか。それは天まで届くほどの高く、広く、大きな「志」を持ってその「役割」に気づき行動をしてきたひとたちであったからです。

わたしは以前より世界で起こる争いごとのすべてを否とした考えでしたが昨年よりその想いが少し変わりました。それは昨年に多くの遺跡や祭祀の場所に赴くことで「すべての出来事(事象)はこころが成長するためにある」ということに気付いたことがその理由です。

この命題は自然にある川の最上流にあたる源泉を意味しています。そう考えた時に戦乱の世に生きたひとたちはその世界がもっともこころを成長させてくれる環境として生まれ育ち、その結果「志」を高く掲げて多くのひと助けをしてきたかたたちであったからと教えてくれたことによるものです。

そこにはただひとを殺めることでの争いではなく、平和的に解決をして統一をしようとしてきた「志」であったことによるその想いに魅了されたからです。なぜなら平和でも不幸はありますし争いの時代でも幸せはあります。その感じかたはあくまでもわれわれ次第であるということです。

その先人たちの生きた時代とはおよそ紀元前後(弥生時代の後期頃)のひとたちを中心に捉えています。なぜにこの時代に生きたひとたちあったのかはこれまでの神社・寺院の参拝をし、そこから登拝に変わりそして昨年の2020年は古墳や、遺跡、祭祀の場所に赴くようになりその年代に触れることでさまざまに気づかせてくれることが多々あったからです。

具体的な呼称などは省きますが、たとえ名が残されていなくても「志」により各々が自らの「役割」に気づき行動をしてきたひとたちの存在は決して忘れることがあってはならないのです。


目次

まえがき
第一章 想い
第二章 そこに「ある」こと
第三章 「志」
第四章 良い「因果」
第五章 自然のこころとは
第六章 こころの闇
第七章 こころのあり様
第八章 自然とひとの世
第九章 自然に還る
あとがき

以上


己が自身 (その139)

やさしい雰囲気をまとうお姿
生きることとは

歳を重ねること

ではありません

どれだけ

悲しみの数と

絶望の深さを

経験したかに

よります

この

悲しみと絶望

と言う言葉

あなたにとって

必要だと

思う言葉に

置き換えて

あなたらしさの

言葉にしてください