己が自身 (その146)

やさしい雰囲気をまとうお姿
われわれは

真っ直ぐに

生きなければなりません

失敗を恐れて

困難から避けた

生き方をすれば

どんどんと

あなたが生きる意味を

見失ってしまいます

どんなことがあっても

あなたの

こころの底にある

声を大切にしてください

己が自身 (その145)

やさしい雰囲気をまとうお姿
もし本当に

可能性がないと

途中で

気づいたならば

それはもっと努力を

してくださいとの合図です

本当に

あなたにとって

価値がないことであれば

その行動すらあなたは

気づかなかったはずです

あきらめるのが

早すぎますよ

上手くゆかないことを

もっと学んでください

必ず

次の道がみつかります

番外編(その5)

次回はまた3月に掲載をします。

それで今回の命題である

「因果について」(全6回)を
一旦区切りとして終えます。

その後は次の5月から

いま短編ブログのテーマである

「神さまはいない」を命題にして

また一年間(全6回)綴ります。

この命題は言葉のとおりで「神さま」

と言う言葉は使用していません。

神さまの存在を否定される方

ほとんど意識していない方が読んでも

わかりやすいものとしています。

ひとの道理はなにも変わりませんが

神さまと言う言葉を使うことで

文章が抽象的になり

わかりずらくなってしまったのでは

本末転倒です。

できるだけ多くの方にひとの道理が

伝わればとの想いです

いまの神さまはいないとした

「己が自身」の短編ブログも

もちろん

神さまと言う言葉は使用していません

明日よりは12月31日まで掲載をしていた

「己が自身」の続きを掲載します

いつかの文章が、この一節だけは、など

共感することでも構いません。

みなさまのお役に立てればとの想いはかわりません

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これまで通りお金とは一切無縁のブログです

そして他社さまの無料ブログで

掲出される広告が苦手なので

あえて自分で費用を捻出して

このブログを管理しています

それがわたしの役割の

ひとつでもあると思う次第です

こころの起源 (その11)

水鏡に映るお姿

あとがき

わたしが20代の頃には「こころ」がとても澱んでいました。ひとはみなが目に見えることばかりを大切にして一体なんなのだろうと・・・。そしてそんなひとたちを信じることはせずに自分勝手に生きていました。そんなある時、電車に乗っていると健常者のひとに連れられた白状を持った盲目の男性がわたしの横に座り、いきなり「お兄ちゃん良い服を着ているね」と言われました。わたしはその当時の「ひとを信じない」という思いからか即座にそのひとの耳元で「普通のひとは安物の服でも気がつかないんですよ」と自慢げに答えたらその盲目の男性は「そうか」と大声で笑っていたことを30年たったいま思い出しました。

その男性はどんな意味でわたしに言ったのでしょうか。「俺は盲目でもお前の服は見えているぞ」とわたしをからかったのでしょうか。また30年もたったいまになってなぜそのことを思い出したのでしょうか。もしかしてその盲目の男性はわたし自身であったのでしょうか、またはわたしを守る神さまであったのでしょうか・・・

いまであればわたしはその光景(空間)に入り込んでその時の自分に「お前が本当にこころの目が大切だと言うのなら、お前のそのうわっ面なこころ自体が間違いだから勝手な思い込みでひとに迷惑をかけるのは止めなさい」とたしなめていることでしょう。

この書ではこころの成長において「時間」は関係ありませんとしています。線である時間とは点である空間の積み重ねのことであり前述にある「盲目の方との会話」の出来事は空間としてこころの中に切り取られた状態にあるのです。過去を思い出したのではなくこころにある空間を引っ張り込んだだけで、それはまるで本を読むかのような感覚の1ページであるに過ぎないのです。

わたしはただの「志」を持った求道者です。この世(現世も常世も)についてわたしなりにひとつの答えを持っていますが、また違った答えもつ方は他にもたくさんおられます。そのこと自体はとても大切でありさらにもっとさまざまな答えをもった方が増えてほしいことに変わりありません。

決してわたしを守る神さまは超えられない壁だとわかっていてもいつかもっと近づいてみせるという思いで必死になって後を追い続けています。そしてきっとまた、そんなわたしをみて「そうか」と大きな声で笑っていることでしょう。その意味は「なんだ、お前はまだその程度なのか」というこころの声が聞こえてきます・・・・

「こころの起源」についてご覧いただきありがとうございます。

2021年1月吉日

こころの起源 (その10)

水鏡に映るお姿

第九章 自然に還る

自らの因果を知ると、その原因を創った時と同じ抑えきれない衝動で胸が高まる想いが募ります。そのように感じる度に、いま生きている理由に気づくのです。そしてこころを成長させるために、今度こそはとわたしを守る神さまに期待をされ、また自らもそれに応えなければならいと感じるのです。

その衝動も原因があり結果としてその因果を消すために自らの「志」に気づくことができるものと感じています。「志」は信念であり、ひとが生きるための目的であり行動です。本編第五章でも伝えているように太古の時代においてひとは摂理である良い因果の世界で秩序が保たれていました。いわゆる互いの感謝の気持ちや助け合いなどに満ちた世界のことです。このようにしてひとは自然の一部として行動することが本来のあるべき姿なのです。

ただひとには感情があり、その感情はやがて欲に変わり悪しき因果を創ります。因果を理解するものであればその因果を消すためにこころを成長させようとし、やがて因果とはこころの成長のためにただ「ある」とした存在に気づくのです。そして因果がわからないものは何度も過ちを繰り返しては悩み続けることでしょう。

因果が生まれたことにより都合のよい言葉が生まれ、ひとは惑わされるのです。ひとが摂理のままに生きるのであれば本来、言葉は必要ありません。ただし因果の世界であるこの現世でひとは言葉によって「志」を掲げなければこころを成長させることができないのです。

自然に宿る神さま(こころ)は限りなく「無」に近い存在という概念は遥か以前より「ひとは死後に自然に還る」として、それは身体を土に還すという意味として知られていますが、本来は「こころを自然に還す(戻す)」という意味が込められているのです。すなわちこころを良い因果の秩序で保つ自然に戻すということを伝えているのです。

自然に宿る神さま(こころ)とは「自然のままに」という役割がある意志だけの存在です。それはもはや言葉すら必要としない「志」による意志だけの状態であるということです。自然に「意志」、すなわち「志」があることはすでにみなさまも感じているはずです。

たとえひとが強欲によって自然から離れてしまっても自然はわれわれを見守ってくれているのです。自然は「志」ある存在です。ときには厳しくもあり(荒魂)、ときにはやさしくもあり(和魂)と感じているからこそ、これまでひとは長きにわたり自然を崇めてきているのです。

そして「自然のままに」とは未来のために、ひと助けのためにとした「志」のことでもあります。その意味とはすでに記述をしている「その先の扉 第五章」からの引用をいま一度ご覧いただき是非理解をしてください。

「植物の花はただきれいに咲かせるために一生懸命なのです。それが役割なのです。だからこそ花を見たひとはそれをきれいだと感じて花はみなに好かれるのです。もちろんきれいに咲くこと以外にも昆虫に蜜を与えてはその代わり身体に花粉を付け運ばせて次の花たちへと生命をつなげているのです。」

これは生命を育みながらも互いにほかの生き物と助け合い自らは更に未来へと意志をつないでいるのです。このような摂理の中でわれわれは生きていることを理解してください。

これが言葉なくとも自然の一部として「志」を掲げた役割のひとつでもあるのです。

こころの起源 (その9)

水鏡に映るお姿

第八章 自然とひとの世

自然は地球の環境にあわせて生態系の秩序、いわゆる適者生存を養ってきました。その食物連鎖において生き物は数と質のバランスで調整しているのが自然にあるこころです。

ただ自然界の食物連鎖とひとが考える生命の尊さは違うものです。ひとが故意に動物を殺めることの生命の大切さとは自然界の秩序ではなくひとが生み出した都合のよい倫理観の話です。

ひとの傲慢さとは「あの動物は可愛いから大切」、「あの動物は食するために必要だから殺生する」などはひとの勝手な都合なのです。いつからひとが中心となってしまったのでしょうか。すべてはそのような社会の仕組みを創ったひとの傲慢さががいけないのです。

すべての生命は自然界の秩序を本能で感じているからこそ食物連鎖があるのです。食物連鎖とはそれぞれの生命がそれぞれの役割をもって秩序を保ってきているのです。
「その先の扉 第五章」ではひとが最低限の生き物を殺めることの共存共栄についてはお伝えをしてきた通りですが、それはひとが自然界の一部であることの道理です。

そして生命の考え方についても左でも右でもなく真ん中での考え方で立ち居振る舞いをして、未来のひとたちにその想いをつなげることが大切であるとしています。

太古の時代より自然は何も変わらないのにひとだけが変わってしまったのです。ひとの世ではその質の秩序が乱れ強欲によって争いを繰り返してきた時代からやがて「志」によって争いをなくす世を目指そうとしたのがおよそ2000年前ころとなります。例えば争いにおいてひとを殺めることがあっても相手の「志」を継ぐものとしてその責任を負うものでした。

生き物の命を大切にするということは、ひとの役割を問題とした話です。ひとは自然界の一部であり自然を背にした考えかたに戻ることを目的とした「志」は、あくまでもひとの「質」を高めるためとして、その「役割」に気づく話のことなのです。

自然界において未来に起きる出来事の原因はいまわれわれの行動によるものです。だからこそいまわれわれは高い「志」を掲げて未来のひとたちのために役割をまっとうしなければならないのです。

こころの起源 (その8)

水鏡に映るお姿

第七章 こころのあり様とは

神さまを例えるにあたり荒魂という荒々しいこころのあり様と和魂という優しいこころのあり様で表現をすることがあります。そしてこのふたつの側面はわれわれにも持ち合わせているものです。そして「志」が高いこころほどこの性質による想いが強く現れます。

ひとは因果を創っては消してゆく。同じことを繰り返すのはただただこころを成長させるためだけに在ります。ひとが輪廻をするのではありません。因果が輪廻をするだけです。ひとは因果の道具にしかすぎないということです。

ひとが中心なのではありません。自然にあるこころが中心なのです。原因があって結果があることは摂理そのものです。良い因果もそうでない因果もまた自然のままにあることなのです。われわれはこの自然のままでひとの役割に尽くしてゆかなければならないのです。
因果を消してゆきその先にあるのが「志」なのです。それは因果をひとつ一つ消してゆくことであなたの「志」が生まれてゆくのです。

前世ですでに因果を乗り越えてこの現世で最初から「志」に気づいて役割を果たそうとするものもいれば、この現世で因果を越えて「志」に気づくものもいるでしょう。
いずれにしても「因果」が「志」のきっかけとなっているのです。この現世での地獄をみて湧きあがる衝動や葛藤はあなたにある良い因果そのものであり、それは「志」の源泉です。

そして「覚悟」とは「志」のことでもありそれを支えているのが「荒魂」であり「和魂」です。自然に宿るこころがもつ「和魂」と「荒魂」はひとが根本的に崇める対象となっています。荒魂が良い因果なのかそうでないのかはまさにあなたのこころのあり様しだいなのです。

以前にもお伝えしている通りあなたの正しさは他人にとって必ずしも正しいことではありません。それでも個々に「志」ある役割を果たさなければならないのです。できるだけ多くのひとが「志」に気づいて役割を果たすのです。それがわれわれにできることです。その先にある自然のままにとした役割はわれわれの役割ではなく自然にあるこころの役割です。

「こころの成長」とはゆるぎない覚悟をもって「志」を掲げることです。