右上から見下ろしているお姿
素直であること~真ん中の編
第一章 する側とされる側
以前にもお知らせをしましたがひとの社会において引き起こされる事件、事故での被害者となるひとについてそれは偶然ではなくすべてが必然であるのです。そして被害者となる、ならないの違いは被害者自身の因果によるものなのです
被害者となるひと(される側のひと)は前世でひとを殺めてきた経験をしており、加害者となるひと(する側のひと)は、逆に過去でひとに殺められた経験をしています。このようにする側(加害者)とされる側(被害者)は互いに同じことをしている因果でつながっているということです
ひとの感情から生まれた強欲はひとのこころを傷つける行為を繰り返してきているのです
「する側」と「される側」は表裏一体です。する側もされる側も現在、過去とその行動は強欲のままにこころの闇に支配されて相手のこころを傷つけ、傷つけられてきているのです
「する側」は過去に「される側」としての憎しみの感情が心地よく、「される側」は過去に自身が「する側」として強欲の感情をいまもそののままに携えており「する側」の感情を引き寄せているのです
そして実際に被害者となってもその因果に気が付いていないため、なぜ自分だけが被害者になったのかと悩み続けるのです
ひとのこころを傷つける因果には「する側」と「される側」での引き寄せの法則としてある種のグループのような存在があり、それは相手のこころが傷つく深さによってさまざまにあるのです
被害者となるかたのほとんどは自身の因果に気付いておらずに成す術もないままに「必然」として巻き込まれてしまうのです。そして本人はなぜ自分が被害者となったのかをわからずにこころは彷徨うのです
そして被害者を知る周りのひとはなぜあんなに良いひとが・・・として悔やまれるのですがその被害者となった原因であるこころの闇にはどんなに身近なひとでも気が付かないのです。なにせ本人すらも気付いていない場合もあるのですから・・・
因果に気が付くことはこれまでずっと伝えてきている通りです。簡単に言えばこころは素直であり、相手に感謝の気持ちを常に忘れないこと、そしてすべては理由があっての必然であることを理解しなければならないのです
ひとである以上は大小の違いはあれど必ず何かしらの因果を抱えています。だからこそ、ひとで在るのです