ひとで在るべきことの編 (その10)

日輪神社

素直であること~ひとで在るべきことの編

あとがき

「志」のためにという信念・・・自身の寿命がいつ尽きても構わないという想いがあるからこそ、できるだけ多くの因果を受け入れなければなりません

自身のこどものころの記憶は1,2歳の頃に親に抱えられて見送りをしている姿を思い出し、そして幼稚園のときはというと、となりにいたこどもにカッターで何かの拍子で指が切れて血が出てしまい、先生はあたふたしている様子・・・。

そして相手のこどもに「なんてことしているの」とやたら怒っている姿・・・、わたしはなんでそんなに怒っているんだろう、大丈夫なのにという意識までもが思い出されます。そんな感じで小学校、中学校、そして現在までの記憶を思い出します

印象的であったのは小学校4年生のときに流行ったゲームで3日間、自分のグループの友達から一切の会話ができなるということ・・・それは一方的に無視されるという遊びです

これはゲームでしたがとても淋しい想いをしたものでした。わたしのあとに順番となった友達に、わたしは同じ想いをさせたくなくてこっそりと話をしていたことまで覚えています

これも因果なのでしょう。この世が因果の世界であること、地獄の世界であることを受け入れなければなりません。それがひとの世界なのです。だからそれを教えるために摂理(自然の法則=良い因果)があるのです

ひとの社会とは因果の世界であり、地獄の世界です。でもそれはひとが因果をつくりだした世界であるとうことです

こころの成長のために必要である世界なのです

ひとの生きる理由は「こころの成長」ですが、因果とは矛盾した話であり、不条理の世界です。この世界はいつになっても終わることのないおとぎ話のような世界なのです

そのように、考えるとこの世界も楽しい世界となるのです

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