次にどうするのかの編 (その10)

あるべき姿~次にどうするのかの編

あとがき

わたしの書で記載する「因果」とは基本的に悪い因果のことを指しています。良い因果のことはあえて「良い因果」と記しています。ひとの社会における因果とはそのほとんどが良くないことの因果の繰り返しであるからです

そしてわれわれは起きる出来事に対して因果とは認識をせずに必ず「なぜ」という思いが先だって考えます。それは年齢が若ければ若いひとほど、そのように感じるものです。逆に年を重ねるひとはより多くのことを経験しているので起きる出来事に対して「やはりそうか」という感情で、ある程度は想像さえしています

通常はひとが寿命尽きるまでに「因果」と言う言葉はなかなか理解されるものではありません。ましてや時代に応じて因果の理解を必要とするか否かにおいても違います。たとえば争いの時代に因果のことを理解する状態ではありません・・・

精神状態はもちろんなのですが、基本的に争いにおける根本的な理由は「互いに争いのない世界を創ること」を目的として信念を通すためにひとを殺めることは仕方ないとした考えの世界であるからです。そして勝者は神と崇められるような時代であったのです

日本では、その代表的なかたとして徳川家康さまがおりますが、300年の平和の世をもたらしたひととして、いまでは神さまとして多くのひとに崇められています。その是非には賛否両論がありますが時代に応じて、こころのあり様次第でさまざまにひとの役割はもた違うものであるのです

争いの時代ではその時代で成すべきことがあり、日本では現在、争いの世界ではなく限りなく平和に近い世界であり、だからこそ、この世界で何をするべきなのかが問われているのです。そしてわれわれが何故この時代に生まれてきたのかを理解しなければならないということです

平和に近い時代であるからこそ、自らの魂が起こした過去の因果を学ばなければならないのです。もちろんひとり一人にそれぞれの因果を背負うものです

だからこそいまこの時代で成すべきことはみなが因果を理解して、こころを成長させてゆくことが必要なのです。そうゆう時代であることを知らなければならないのです

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