次にどうするのかの編 (その2)

あるべき姿~次にどうするのかの編

第一章  慈悲と憎悪

あなたの憎悪と慈悲の感情は常に葛藤しています。あなたの目の前で起きる事象に応じて常に揺れ動いているのです。憎悪の感情とはこころが摂理(自然の法則)からはなれた強欲によって生まれた感情です。ます。一方で慈悲とはあなたの身体に宿るこころの奥底にある摂理(自然の法則)のままにある意志のことです

その葛藤において憎悪が慈悲のこころを取り込むのか、慈悲が憎悪のこころを消し去るのか常にどちらかが優位であろうとしています。そしてひとはその憎悪や慈悲の感情を具現化させて鬼や悪魔、また神さまや仏さまとして表現をしているのです。いわゆる善と悪で例えているのです

いま一度おさらいをしますがもともとひとに宿るこころは良い因果であったのに、強欲の感情が生まれ良くない因果となりこころから離れたあり様となってしまっている状態です。その良い因果というのも本来は当たり前のことであり、その「良い」という言葉もおかしな話ですが悪い因果を現わすために良い因果ということばを使っているだけです

また憎悪で具現化されている妖(あやかし)であっても慈悲のこころを大切にしているものがいれば、慈悲のこころがありながらも憎悪に取り込まれているものがいます。もともとはひとであったために、その名残によって互いに理解をしているからこそなのです。妖(あやかし)とはこの世とあの世の間に存在するあり様です

憎悪による妖であっても、もともとは慈悲のこころを併せ持ったひとの感情です。ただ魂が未熟であるために憎悪に取り込まれているのです。そして憎悪がさらに憎悪を取り込んで大きくなっているだけです。それでもわずからながらにも慈悲のこころは残されているのです。ただそれに気づかないほどに憎悪が勝っているだけです

憎悪があなたを取り込まんとするのは、あなたの苦悩、嘆きや叫び、怒りに安堵するのです。あなたに嘆きや怒りなどの苦しみが無ければあなたにさほど興味もありませんが、もっとも嫌悪感のある慈悲のこころは大嫌いで、近寄りたくもない存在です

そして魂を満たすために、次から次へと憎悪の感情を取り込まんとするのです

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