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- あるべき姿~それぞれの道の編
あとがき
本編の第七章、第八章では久しぶりに因果のことに触れています。もともとは2020年5月からはじめた書き物は因果について伝えるのが始まりです。久しぶりに記載する因果について、その根本は何も変わっていません。ただ言い回しを少し変えているだけです
わたしなりに学び、成長をしたことで言い回しも少し変えています。ただ因果というものを理解することは困難です。現代のひとの社会においてはそれだけ因果は当たり前のことのようになっているからです。欲に満ちているからこそ因果には気づかなくなってしまっているのです
だから因果を知るためには謙虚な姿勢がとても大切なこととなるのです。すべては自責の念を携えたこころのあり様でなければ因果に気づくことはできないのです。以前はこのことに触れていなかったため理解をすることができないひとが多かったのではないでしょうか・・・
因果とは強欲の感情から生まれていると伝えています。ひとは摂理(自然の法則)であるこころのままに生きていた時代からやがて強欲の感情が生まれて、こころ(自然)から離れて独自にひとの社会を形成するようになりました。ただそのひとの社会ではあらゆる強欲が蔓延りこころを以前の摂理(自然の法則)のままに戻すためにさまざまな因果によって感情を正そうとしてきているのです
そのためにこころの起源を理解して因果を知り、生きる理由を知り、そして「志」を掲げてできるだけ多くのひとにこの一連の流れを「こころの成長」として伝えてゆきたいと思うのです。そして未来のひとにつないでゆくことがわれわれの役割であるのです
われわれが伝えるということ・・・日本ではそれぞれの「~らしさ」で教えとしているのが神道ですが、ほかにも仏教におけるさまざまな宗派であり、世界においてはキリスト教を始めとしてイスラム教、ヒンズー教など数多の教えであるのです
逆に言えばこころを成長させるためにひとの社会があると言ってもよいでしょう。国と云うコミュニティでひとはひとと関わりを持つことで強欲による因果を生み出しては因果を理解することでこころの成長につなげ、その補完をするためにさまざまな宗教があるということです
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第八章 因果のおさらい~その2
因果とはひととひとの関係によって強欲の感情が生まれます。そして強欲とは自身の我が強くなった思いことを云います。無欲であるひとに強欲はありません。大切なのは欲の感情をコントロールできるか、できないかということです
欲望の感情をコントロールすることは理性が必至になって抑制しています。でもその結果悩みが尽きなくなるのです。そしてその悩みから解放されるために因果を知り理解するということなのです
ひとの悩みとはすべて因果によって生まれています。因果とはあなたが変えなければならない感情です。だからこそ因果を知り、因果に気づき、因果を理解して、因果とともにあることが大切なのです。それがこころの成長です
言葉で伝えるだけの簡単でないことは十分に理解をしています。だから因果とは同じことを何回も繰り返すのです。でもその繰り返しをすることで、あるものは悩みから逃げるばかりであったり、またはもういい加減どうにかしたいから何とかしようと考えるひともいるのです
もちろんその問題は避ければ避けるほどにその悩みは追い続けてきます。でもなんとかしようと思えば必ずその解決の糸口に必ず導かれるのです。大抵は因果に気づくことができれば、自らを変えなければならないと思うでしょう
目の前で起きることがあなたの因果であるとして理解をするためにはまずは逃げずにその状況で自分が何をすべきかを考えてください
その問題は必ずあなたが乗り越えられる試練です。ダメもとでも勇気を振り絞って飛び込んでください。その問題に対応することで必ずあなたにはなにかしらの解決の糸口が見つかります。それは絶対なのです
あなたの抱える問題について、道理とは「こうすればこうなる」ということです。逃げればその問題は追いかけてきますし、進めばその問題を解決してさらにその先へと進むことができるのです
当たり前のことなのですがひとの感情(面倒くさい、いつものこと・・・)が邪魔して道理の理解を妨げているのです
自身のこころを常に謙虚で穏やかにして、道理を理解できるように平常心を保つことが大切であるということです
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第七章 因果のおさらい~その1
自分と合わないひとと一緒にいることはとても苦痛です。でもそのような相手が目の前に現れることは、それはあなたへのメッセージです。ではそれをどのように受け止めればよいのでしょうか。ただ自分さえ我慢をすれば良いのでしょうか・・・
その前に実はその相手の行動や言動はあなた自身の因果であることに気づいてください
自分は違うと否定せずに、素直に受け入れてください。自身も同じようなことをしていることに気がついてください
でもその相手の行動や言動が自らの因果であることなどなかなか気がつくことはできません。そうであれば、まずは相手がなぜそのような行動や言動をするのか考えてみてください。あなたと考えが合わない言動をすることには必ず理由があるのです
その理由さえわかれば、それは自分自身も同じであることに気がつくでしょう。なぜ相手はひとから嫌われるようなことをするのでしょうか・・・それはそもそもがその相手は嫌がれる行為だと理解していないということです
そしてそのひとは過去にほかのひとたちから同じことをされてきているということです。その時に嫌な思いをしてきているのです。それを無意識の内にそのひとは同じ行動をしているということです
そしていまではあなたも嫌な思いをしているのです。そしてそれが自分の因果であるということ・・・あなたの行動や言動も「ひとに嫌な思いをさせているときが在るのですよ」という教えであるということです
あなたも自分では気がつかないうちに同じことをしているということです・・・あなたの目の前で起きる出来事は必ずあなたの因果であるということです。まったく関係ないことがあなたには起こりません。必ず原因があるのです。自分で気がつかないからこそ相手があなたの因果を教えてくれているのです
第四章にある「見えない相手」についても同じです。あなたに必要なことがあなたの目の前で起きているだけなのです。何度も伝えますが相手が悪いのではありません。自身の因果を気づいてもらい、自身が変わってくださいということです。因果とはそのようなことを言うのです
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第六章 こころの成長を意識すること
こころの成長とはだれかが判断をするものではなく、あなた自身でその成長を理解するものです。誰かにやらされてするものではなく、自らの意志で気づき体感をしなければならないのです
たとえこころを成長させようと導かれていても、そもそもあなたがそのことに気づいていなければどうしようもありません。こころの成長とはだれかのためにするものではなく自らのためにするものなのです
そして自らがこころを成長させようとする意志が必要なのです。そのために因果があり、因果を理解することがこころの成長となるです
ひとの身体に宿るこころは前世での記憶は思い出すことができなくなります。でもいまの自身のこころのあり様を知れば前世のこころのあり様が自然とわかるものです。以前はこうだったから、いまこうなっていると感じるのです
いまのこころのあり様を知ることで前世でのこころのあり様がわかるということです
まだまだこころが未熟だから転生をしてこの世でこころを成長させているのです。そしていまこの世で生きているこころたちはすべて未熟であるということです。だからこの世に在るのです
前世ではいまよりももっとこころが未熟であり、その未熟な行いをしていただけのことです。その前世から少しは成長をしていまがあるのです。だからあなたの未熟なこころの過去を知ったところでたいした意味はありません。未熟などと意識をしなくなることが成長している証でしょう
未熟なこころは転生をしながら成長を繰り返しているのです。だからこの先のこころの成長が楽しみでならないのです。その指標のひとつが「志」です。それはあなたらしさの「志」であるということです
自らの因果に気がつくことで、自然と「志」を意識するのようになります。そして「志」が本当に必要なのは言葉ではなく行動であるということです
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第五章 当たり前のこと
自分にとっての当たり前は、相手にとってはそうではありません。以前よりお伝えをしているようにあなたにとっての正解は他人にとって正解ではないということです。それはそれぞれにこころのあり様がさまざまに違うからです
ひとが育つ環境によって思考はさまざまに違います。そしておとなになればなるほどに育った環境によってつくられた思考も変わってゆくのです。今現在あなたと関わりを持つひとたちも大抵があなたと同じような環境で育ったひとたちが集まります。「類は友を呼ぶ」と言った言葉が使われます
環境が違うから悩みや抱える問題が違うのではありません。ひととひとが関わることで生まれる問題はみな同じです。自分の思い通りにしたい・・・その果てが「強欲」と呼ばれるものです。因果の原因はすべて強欲から始まるのです
こころとは自らの因果に気がつき、悔い改めることを「こころ」というのです
そのことに気がつくために「魂」はもっとも成長する環境で、ひとに宿り生まれてくるのです
こころのあり様とは前世からつながりでありひとの身体に宿り生まれた時には前世でのこころの記憶はありません。あらたにひとと共に成長してゆくのです
そしてどんなひとであってもこころの闇はあります。政治家、医者、弁護士、営業、事務などどんな仕事をするひとでもこころの闇は必ずあります。どんな立場であってもこころの成長をさせることがわれわれの生きる理由であることに変わりないのです
ひとの社会とこころの世界はまったく違います。ひとの社会はお金が中心ですがわれわれが生きる理由はこころの成長だけです。これはこの社会で生きるからこそ自らのこころが未熟であることがはっきりとわかるのです
お金のないひとが事件を起こすのではありません。こころが未熟だから事件を起こすのです。お金があるから幸せなのではありません。幸せとお金は関係ありません。お金があろうが無かろうがお金はこころを成長させる道具・手段でしかないのです。そのことを理解するのがこころの成長なのです
当たり前のこととして、あなたのこころの成長のために必要なことがあなたの目の前に起きるだけです
それがよいことなのか,良くないことなのかさえ、あなたの心のあり様によって必然として起きるだけなのです
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第四章 見えない相手
電話で相手とのお話はとても難しいものです。相手の顔が見えないためどうしても自分都合の意識に囚われてしまいます。そして自分の思い通りにならなければ腹が立つものです。その原因のほとんどが保留時間によるものでしょう。保留時間が長ければ長いほどイライラするもので、ありがちなことです。30秒以上は要注意です。15秒くらいがギリギリでしょう
ましてや連絡をしても部署違いでたらいまわしにされたり、結局は質問について解決ができなければなおさらに腹が立つものです。相手はマニュアル通りに対応しているだけなのですがそれが余計に癇に障ることは誰しも経験をしたことがあるのではないでしょうか
でも冷静に考えてみればそもそも腹立たしく思うのはあなた自身の問題です。当然に上記のようなことがあっても怒らないひとはいるのです。怒ることは相手があなたを怒らせているのではなくあなた自身が感情のコントロールができなくて勝手に怒っているだけの問題であるということです
何度も言うように怒らないひともいるということを理解してください。怒れば怒るほどに感情が先走り相手が問題解決の答えを示しているのに全く気付かなくなるのです。ただそれも何回か繰り返すうちに自分はなぜに電話でこんな状態になるのだろうかとある時に気づきます
そして話しながら自分の苛立ちに気づくと気が抜けて笑いがこみ上げてきます。怒りそうになっている自分が笑えてくるのです。実はそれも因果であり、それは「因果について~」で記載をした通りです。まずは自らの因果に気づかなければならないということです。これが感情とこころの葛藤です
電話でのその見えない相手を自分に置き換えてみてください。あなたが怒る相手は自身のこころであるということです。なんでそんなに怒るのですか?と、こころに問いかけられたらあなたはなんと応答ますか・・・多分たいていのひとが「あれ、何で怒っているのだろう」と答えに詰まるでしょう
大切なことは自らの感情をコントロールしてくださいということです。我の強い人ほど感情のコントロールをすることができません。自分の思い通りにならないと気が済まないのです。もしあなたもそのようなことに直面をしたら、自らに問いかけてください
なぜ自身の思い通りにならならないといけないのでしょうか・・・
そして、思い通りにするためにはどうしたらよいのでしょうか・・・
それが自身の因果への気づきです
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第三章 正解と答え
正解と答えとは似て非なるものですがそれを言葉で説明をするといくつもに形容されるたとえで現わすことができます
●正解とはひとの因果(原因と結果)であり、答えとはこころが成長することです
●正解とはこころのあり様次第であって、答えはひとの歴史です
●正解とは物質的な説明ができることであり、答えとは精神的に探求することです。それはさまざまな「~らしさ」の答えであるということです
●正解とはすでにあるもので、答えとはこれから導き出すものです
●正解とは限りなくひとつに近いものですが、答えとは千差万別にあるものです
●正解とは束縛されたものであり、答えは自由にあるものです
●正解とは過去からのつながりであり、答えとはこれから先の未来です
●正解とは「原因があっての結果」であり、この社会での秩序を云いますが、答えとは「理由があっての必然」であり自然のままにある、あり様であることを云います
●正解は線の上にあるもので、答えはその真ん中にあるものです
●正解はひとの社会にあるもので、答えは自然にあるものです
●正解は他人のものであり、答えはそのひと自身のものです
●正解も答えもありません。ただあなたの目の前で起きることが正解であり答えでもあるのです
あくまでも軸はこころの成長です。みなさまはどのように考えるでしょうか・・・
そしてそれらを事細かに伝えているのが仏の教えであり、あまた宗教の教えであるのです。これらの教えは特別なことではなく遥以前に自然と一体であった「よい因果」であったころのこころのあり様であるだけです。強欲による(良くない)因果にこころ奪われたことで見失ってしまったこころを取り戻すための方法や教えであるのです
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第二章 さまざまな教え
今日は雨が降っています。この雨はあるひとにとっては恵の雨であり、またあるひとにとっては残念な雨と感じるひともいます。それでも雨は降ります。「志」とは雨と同じで、示す側にあるものです。そしてそれを受けるひとの感情は千差万別であってよいのです
ただし「志」の行動を「諦めろ」ではありません。あくまでも立ち位置のお話をしています。「志」とは太陽、雨、風、雷などの自然の意志と同じであるということです
示す側にある「志」のはじめは小さくて構いません。小さな意志のうちはその「志」は受け入れられますが、それがやがて大きくなるとその考えに相反する考えをもったこころたちに出会います。そして意見交換をしながらもその先には口論となる場合もあり、互いの我の押し付け合いとなってしまうのです
「志」の意志の強さと「我」の強さは同じようであってもまったく違います。「我」とは相手を説き伏せるなど相手を自分の思い通りにする意識であり、「志」の意識とは自らのこころに対する意志の強さであるということです
だから「志」は相手の「我」が強かろうがどうだろうがどうでもよいのです。それよりもできるだけ多くのひとに対して、「志」を深くに伝えるための行動をすればよいだけなのです。自らの意志を貫いてゆくことが大切なのです
こころを自然に溶け込ませてゆけばおのずと自然の意識に触れることができるようになります。冒頭の言葉にあるように自然とはわれわれにさまざまなことを教えてくれています
こころや身体には自然と一体であったときの情報が蓄えられており、それをただ引き出せばよいのです
ひとは脳の思考によって物質的な進化を生みだしてきましたが、本来のひとの進化とは物質的なことではなく精神的な進化が必要であるのです。だからわれわれが生きる理由とはこころがひとの身体に宿ることでこころを成長させてこころ未熟であれば輪廻をするということです
そしてそれらを事細かに伝えているのが仏の教えであり、あまた宗教の教えであるのです。これらの教えは特別なことではなく遥以前に自然と一体であった「よい因果」であったころのこころのあり様であるだけです。強欲による(良くない)因果にこころ奪われたことで見失ってしまったこころを取り戻すための方法や教えであるのです
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第一章 謙虚さ
ひとの思考は工夫をすることが大切です。ひとは本能と思考によって生み出される感情によって行動をしています。そしてその行動の結果を左右するのがこころのあり様です。こころのあり様次第で行動の結果が現れるのです
ただ自然に身を委ねて謙虚であればその先を知ることはさほど難しくありません。なぜなら結果はどうでもよいからです。その意味とはこころのままに道理を理解すれば、おのずとその先がわかるようになるからです
行動の結果はこころのあり様次第です。これは道理を理解していればわかるということです。結果で右往左往するものではなく、単純に「こうすれば、そうなる」といったとてもわかりやすいことなのです。それを受け入れて判断をすればよいだけです
ひとが悩むという思考も同じです。ただ「悩む」のではなく「考えて」ください。考えれば必ず答えがみつかりますので、まずは意識を変えてみましょう
「どうしたらよいのかわからない」のが悩みで、「こうしたらよいのかな」が考えるです。辛いのが悩みで、楽しいのが考えるです。考える答えは間違っても構いません。その繰り返しがやがてあなたにとっての正しい答えにつながるのです
謙虚さとは意志の強さのことを云います。よく日本人は意思を現わさないと言われますがそれはただの「判断」のことです。Yes or Noであればみな自己判断はしています。そして単なる意思表示はただの傲慢なわがままに例えられてしまうことを知っているのです
やさしさのあまりに謙虚であるのです
そして「志」あるものはその意志の強さに相手が気づかないだけです。「志」とは相手が認める、認めない、納得する、しないではありません。あなたが納得していればそれでよいのです
「志」とはあなた自身そのものといっても過言ではありません。「志」のままに生きることが生きる理由でありこころの成長であるのです。「志」と同様に意志の強さである「謙虚」とは一見は相反するように感じるかもしれませんがその意識は「志」とまったく同じことであるのです
意志の強さとは傲慢ではありません。相手に伝えて相手が嫌悪感を抱いてもなお自分の思い通りにしようとすることが傲慢であるのです
だからこそ「謙虚」とは「傲慢」と真逆の立場にあるのです
- あるべき姿~それぞれの道の編
まえがき
わたしは普通に仕事をしています。その中で毎日ブログを掲載し週に2回のインスタを更新し、毎月独自の書を綴っています。もちろんひとりでも多くのかたがこころの成長に気づいてくれることを目的としています
わたしの「志」は「すべての生きとし生けるものが幸せに満ち溢れた世界となる」ことです
そのためにこころを成長させなくてはならないことを知り、みなさまにはその根本であるこころの成長を理解して頂きたくそのための行動をしています
そしてわたしにとっていまは働きながら「志」の行動をすることが大切なことであるのです。その中で因果とともにあることで、学んだことをみなさまにお伝えをすることができているものと感じています
仕事をしているからこそ多くのひとと関わりを持ちその中で良いことも、悪いことをすべて自らの因果であると受け止めてわたし自身もこころを成長させているのです
これはひとの社会で生きなければ決してわからないことです。そうして教えを学びながら、みなさまにその教えを伝えることがわたしの役割であるということです
こころを成長させてゆくと、自身のこころの過去や未来が見えてきます。自身のこころの過去がいかに未熟であったこと・・・、そしていまのこころのあり様を知ることで未来のこころが見えてくるのです
この世界の過去や未来を知ることはそれほどに価値はありません。なぜならすでに過去を理解して未来のために「志」をもって行動をしているからです
それを理解した上であなたにとって必要だからこそ起きる出来事に対してすべてを受け入れることができる覚悟が求められていることも理解しなければならないのです
それでは本編をご覧ください・・・
まえがき
目次
第一章 謙虚
第二章 さまざまな教え
第三章 正解と答え
第四章 見えない相手
第五章 当たり前のこと
第六章 こころの成長を意識すること
第七章 因果のおさらい~その1
第八章 因果のおさらい~その2
あとがき
以上
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