一生涯の編 (その10)

神さまはいない~一生涯の編

あとがき

わたしにはたくさんの夢がありますがそのなかのひとつに空を飛んでみたいという願望ががあります。高いところに立つと恐くて足が震えてしまうのですが、きっと地上での窮屈さが嫌で澄みきった空に慣れていないせいでしょう

以前にも体験したフゴッペ岬の先端や戸隠山での蟻の塔渡りからの景色は空を飛ぶことの魅力をとても感じさせてくれるものです。自然で純粋な空はとても心地よく抱かれる想いがするのです。でもその時に突風を感じると岩にしがみつきまた恐怖による緊張を感じて現実に引き戻されます。そうして日常で時間を過ごしてもあるときに魅了されたあの感覚を想いだしてまた行きたくなるのです

小鳥が親からの巣離れをするときの感じでしょうか。最初は親からのごはんをひたすらに求めている状態からやがて成長をして空に羽ばたいて行く感覚。多分小鳥にとっては空というイメージはないでしょう。これはひとからみた小鳥の感覚でしかありませんしそれはひとが地上を歩くのと同じことです。小鳥には空が生きるフィールドでしかないだけです

このようなものの見かた、感じかた、考えかたは不可能を可能にする感覚を意識させてくれてとても心地よい感じです。朝に目が覚めたときなんか身体がとても軽いとする感覚がしたときに空を飛んでいたときの無重力感と同じ感じがするのです。その時にきっとさっきまで飛んでいたのかなと錯覚をしている経験がたまにあるのです。だからこそそのうちに空を飛べるのではないかと思えてならないのです

このような感覚はきっとひとが進化の過程のなかで忘れてしまった感覚なのでしょう。ひとが考えられることは以前に体験をして経験をしてきているからこそ考えられることなのです

ひとが飛ぶことの体験とは進化の過程で鳥であったことの経験なのかもしれません。ひとが考えうる、できる・できないは時間の問題なのか次元の問題なのか・・・その答えは自らの意識の問題であるだけです。ひとの成長とはその意識に気づくかどうかの問題であり遺伝子に刻まれた過去の体験を想いだすことです

この意識の問題とは他のひとに証明をすることではありません。みなさまがそれぞれにそれぞれの想いで意識をして体験を感じ取ればそれが事実であるだけなのです。それはひとが成長をしたその先に必ずたどり着ける場所であるのです

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