不条理の編 (その10)

神さまはいない~不条理の編

あとがき

ひとが学ぶことのすべてはよいこともそうでないこともひとの行動を言葉で現わして学ぶのです。この不条理もそのひとつです。

不条理の意味はひとの矛盾をさまざまに現わしたものですが本来の不条理という言葉はわれわれに「道理」の気づきを与えてくれるものなのです。そしてその道理とは信念や「志」に基づいた意識であり、行動なのです。

道理とは自然の流れのことであり、原因と結果である自然の流れの言葉を導きます。信念・「志」のために生きるとは正しい道を進むことにあります。ひとのために生きることも、「志」のためにいきることも教えなのです。決して答えではなく教えであり学びとして理解をするようにしてください。

あなたの目の前で起きる出来事はすべてがあなたへの教えです。そのことを学ぶのか否かです。学ぶべきことがないとするひとなど誰もおりません。ひとつの教えもいくつもの解釈をすることで胆識が養われてゆくのです。

道に迷っているひとに手を差し伸べてあげることができるのは少しだけ先(まえ)を歩いているひとの役目です。わたしもまた同じようにたくさんのひとに気づきをもらってきました。わたしの行動はそのひとたちへの恩返しの意味もあります。

でも普段から道行く中で困っているひとに笑顔でどうぞと手を差し伸べては相手もそのことがうれしくてありがとうと返してくれるのはお互いにとても気持ちが高揚するものです。

その気持ちがうれしくて今度はその相手のひとが困っているほかのひとに手を差し伸べてあげるようにつながってゆくのです。

それぞれができることをすればよいのです。でも、その結果がわかるのは遥か先のことでしょうね。でもいつも言っているように結果ではなくひとりでも多くのひとが笑顔であればそれで充分なのです。

                  2021年11月吉日

不条理の編 (その9)

神さまはいない~不条理の編

第八章 不条理の意味

ひとは自分のチカラではどうにもならないことの深い悲しみを経験して己の無力さを感じることで正しい道を知るのです。

われわれはみな誰かのために生きています。その誰かとは・・・たとえ相手がそのことに気付いてなくとも構いません。相手が問題なのではなくその考えを貫き通すあなたの覚悟が大切なのです。もし相手に裏切られていても自らの至らなさを責めて反省してください。相手を責めることはあなたの傲慢です。あなたに裏切られる原因があっただけです。

どれだけ自己犠牲をすればよいのかと思うでしょうがすべては自身の至らなさが原因です。

相手を責めてもあなたは成長しませんが自責の念は何よりものあなたのひととしての成長をさせます。これも教えなのです。

頑張って努力をしたのに結果が出なければ努力したことに意味はない、それなら最初から努力などしなければよかったと考える人がいますがこれは大きな間違いです。

この行動・言葉の本当の意味とは「結果よりも、毎日努力を積み重ねてきた」ことに意味があるのです。

これが本当の意味ですがひとはそれを前述のような考えで努力が無駄であると理解をしてしまうのです。これが不条理というものなのです。不条理とは感情そのものなのです。

そして不条理とは嘆きの言葉ではなく希望の言葉です。意識を変えてみてください。なんでも不条理という言葉で終わりにしようとするからいけないのです。シーシュポスの罰である大きな岩を山頂まで運ぶのがあなたの罰(役割)ならその岩が何度麓まで転がり落ちてきてもまた山頂に運べばよいだけです。これを苦悩ではなく希望として意識してみてください。

役割とは「なぜ何度も」ではありません。「もっと運ばなければ」なのです。大きな岩を山頂まで何度も運ぶのがあなたの役割なのです。役割とは「志」のことです。
そして「志」になぜはありません。


不条理の編 (その8)

神さまはいない~不条理の編

第七章 すべてが同じです

勝って得るものより負けて学ぶことのほうがひとは成長をするのです。ただ現実にはなかなかそのように感じることはできません。大抵は若ければ若いほどに勝って慢心をして、負けて悲観に明け暮れるものです。

ただ人生の一通りを経験したものにはその意味がよくわかるでしょう。そして道理を知る者はかならず他のひとに教えるという役割があります。このようにしてひとにはそれぞれに役割があるのです。

あなたはまえがきに記載をしているシーシュポスの罰を理解できるでしょうか。あなたが当事者(シーシュポス)であり、いまでは理解をしていてもなおもその罰を受け続けることができるでしょうか。

実はこの罰と同じような話が日本にもあり、その罰とは地獄で鬼が人間の身体を永遠に拷問するというものです。

地獄の世界では気絶をすることなくただひたすらに恐怖と痛みを感じ続けるのです。ひとつ一つの爪をはがされて、目に針を突き刺されて、のこぎりのようなもので腕が切れられ次に足が切られてゆくのです。でもある時に一瞬の風が吹くとそれまでの記憶が一切無くなり最初からまた同じことを繰り返すという罰なのです。そしてこれが永遠に続くのです。

地獄の罪と罰はこの世での因果応報です。そしてたとえ地獄が空想の話だとしても実際にこの世界のどこかで必ず起きていることです。なぜならこの世界こそが地獄であるからです。いじめも殺人もひとを騙すことも行為者である鬼(ひと)がいてそれを受ける側のひとがいるのです。ひとがひとを傷つける行為が当たり前のように行われており決して地獄とは空想の話ではないのです。

われわれはこの世界が不条理であるということを感じている以上は何も変わらないでしょう。これをどうするかについてはこの不条理の編で書き綴っている通りです。当たり前のことが当たり前でない世界です。まずはその当たり前でないことが何かを知らなければなりません。

われわれはひとのために生きようとする意識が根本です。お花が花を咲かせるために生きることと全く同じです。ただ素直なだけでよいのです。お花もひともすべての生命は全て同じなのです。



不条理の編 (その7)

神さまはいない~不条理の編

第六章 いまからでも

不条理と感じることの経験の数々はひとの成長の結果でもあります。不条理だと感じないことが多いほどあなたはひととして成長しているということです。不条理とは不平・不満のようなものです。不条理と感じることは強欲から生まれる感情のことです。その感情を抑えきれるかどうかなのです。

例えば会社員で同じ条件なのにあいつのほうが給料は高いなんて納得のゆかないなんてことよくあります。そう思えば思うほどに似たようなことがあなたに何度も起きるものです。不条理とは結果であって原因であるあなたのそのような考えかたを変えない限り何度も起きるということです。

前述のように給料の差について運も実力の内というひとがいますが、その給料の差は運なのでしょうか。偶然なのでしょうか。でも大切なことは感情に振り回されないということです。

ひとがどうだとか、相手がどうだとかは関係ありません。もし相手のことを軸に考えるのならばその相手はあなたよりもたくさんの努力をしてきたということです。他人とのバックグラウンドがすべて同じであることなどはありません。

自分軸でばかり考えるあなたの問題であるということのです。でもそれはあなたが人として成長するための機会であることに気がついてください。

「こんなの納得ゆかない」、「どう考えてもおかしな話だ」というあなたの感情こそがそもそも不条理であることに気付いてください。不条理に気づくということは不条理を受け入れてくださいということです。

受け入れるということは卑屈に考えるあなた自身の考えかたの間違いに気づくということです。あなたが成長するために起きている出来事であるのです。このようにして原因を変えれば結果もかならず変わります。

後悔をしても、過去を思い出しても何も変わりません。変えることができるのはいまこの時だけです。いまを変えるために過去のあなたの後悔があるのです。あなたの過去はそれでよかったのです。やり直しは何度もできます。いますることが大切なのです。


不条理の編 (その6)

神さまはいない~不条理の編

第五章 理由

ひとが成長するために辿る道のりはそれぞれにあります。この不条理がなんであるかを知ることもその辿り着く道のひとつです。

ものごとが上手くゆかないときに、「これだけ努力をしたのに何で」という不条理の壁にぶつかり「自分には才能がない」と何事にも理由付けをしてそのことを諦めてしまうことがよくあります。でも才能とは技術云々ではなくあなたの意識のことを言うのです。

ひとは何をするにも得意、不得意があります。でも上手くゆかなかったときにその不得意なことを理由に諦めることをはただ逃げているだけにすぎません。たしかに不得意が事実であることに変わりありませんが本当に諦めることはその結果ではなく自分に才能がないと意識ををしてしまうこと、認めてしまうことがいけないのです。

不得意なことは誰にでもあります。そのことを気にしていたらきりがありません。不得意なことがあるからこそそれを乗り越えてひとは成長するのです。それに得意なことでも結果が伴わなければ自信を失くして不得意と意識をしてしまうものです。理由などどうとでもなるものです。

このようにして不条理であることは自分が意識するだけのこと、つまりこの場合は諦める理由を探してそのせいにしているだけのことであって、相手にとっては到底その理由は理解できません。自身に嘘をついているとした不条理は当然に相手にとっても不条理なのです。そして最初は不条理であると思っていたこともいつの間にか当たり前のように感じるようになってしまうのです。不条理が常識として感じてしまうようになるのです。

不条理を不条理として理解をして受け入れることは大切なことですが不条理を常識として理解をすることは間違いです。それではなんでもすぐに諦めてしまうことにつながり、自身の考えを正当化するだけの都合の良い理由探しにつながるものです。

このようにして不条理とはひとの感情による行いによって創り出されているものなのです。そもそもは不条理など存在しないことであったのにひとの強欲による感情が自然と比較をして不条理が生まれているのです。

ひとは強欲であるほどに多くの不条理を感じてしまうものなのです。



不条理の編 (その5)

神さまはいない~不条理の編

第四章 ありのままに

ひと以外の生き物はただ生きるために同じことを繰り返しています。それは余計な感情が無いからできることです。その意志とはただ生きるために行動をすること、それだけです。でもそれは永遠に同じことを繰り返すという意味ではある種でまえがきにあるシーシュポスの行動と全く同じです。ただ違うのはひとには感情があるからこそさまざまに考えることができるということです。

ひと以外の生き物のように素直に純粋でただ生きるための行動がどれほどに素晴らしいことでしょうか。それに比べて生きものの頂点に立つひとはなぜこうも感情に振り回されるのでしょうか。そしてこの感情の先にはなにがあるのでしょうか。

もちろんひと以外の生き物でも哺乳類には感情がありコミュニケーションの会話はあります。でもひとは巧な言葉を使いさらに感情の領域を拡げているのです。この状態もまた進化の途中なのでしょうか。素直で純粋に生きることは進化に対して逆行しなさいということなのでしょうか。

でもこれまでのひとの進化は必然です。であればやはりこの先を越えて行きなさいということなのでしょう。それはこの感情を制御することにあります。この感情を制御して素直で純粋に生きていくことが求められているのです。その課題として第一に挙げられるのが不条理であるのです。

この不条理とはまさにひとの感情によって創られるものです。また同じ出来事でも不条理と感じるひともいれば、そうでないひともいます。欲が強ければ必要以上に嘆き、そうでないものはなんとも感じないのです。不条理と言う言葉はそれを学ぶべき言葉であり悲観する言葉ではありません。

ひとの感情がこの世界を創っており、ひとの成長とは感情の制御を意味することでもあるのです。ひとが持つ憎悪などの感情をなくすことはできませんが制御することはできます。法は事が起きた後に対処するものですが大切なことは感情を制御して事を起こさないようにすることが大切です。

感情があるからこそのひとです。そんな簡単にコントロールできるものではありませんがそれをしなければならないことも事実です。そのことに気づくひとが多ければ多くなるほどにこの世界を変えることができるのです。



不条理の編 (その4)

神さまはいない~不条理の編

第三章 欲

不条理と感じることは強欲であることです。強欲であるがゆえの不条理であり、素直なひとは同じ出来事であってもそれを不条理とは感じません。このようにして不条理はひとの愚かさをさまざまに教えてくれるものです。

不条理を感じるひとほど多くの悩みを抱え素直なひとほど悩みなく笑顔が多いのです。いつも伝えていますが欲を無くせということではありません。ひとを助けるための欲は大切であり、ある意味でその欲は希望でもあります。欲の感じかた、使いかたが大事なのです。ひとを騙して傷付ける強欲がいけないのです。

この不条理という言葉もいまになって使われる言葉です。時代を遡るほどにその感覚を感じることはありません。不条理を感じるひとは同じことを何度も繰り返し、同じ悩みを何度も繰り返します。

大体はあなたの思い通りにゆかないことがその始まりです。なぜあなたの思い通りにゆかないのでしょうか。例えば明日はひとりのひとを笑顔にしてみようとすればあなたの思い通りにできるはずです。笑顔とは相手を幸せな気持ちにさせることでもあります。でも欲しいものを手に入れるためにはお金が必要だから、明日はどうやってお金を得ようかと考えてもあなたの思い通りにはゆかないでしょう。この違いがあなたにわかるでしょうか。

「ひとのために・・・」と「自分のために・・・」とした違いです。

お金を求めるひとはお金に悩み、お金に興味ないひとはひと助けを求めます。そして
お金を求めるひとほどお金は離れてゆき悩み、興味がないひとほどお金が寄ってきてみなが笑顔となるのです。この道理がわからないから同じ悩みを繰り返すのです。

そしてお金を必要とするものは更にお金を求め、お金が必要ないひとははさらに多くの笑顔を求めようとするのです。これらはお金を求めるひとにとっての不条理であり、ひと助けを求めるひとにとっての道理であるのです。

お金があってひとを助けることはそのひとの使命であり当たり前のことです。でもお金がなくてもわれわれができるひとを助けとは「志」であり、われわれにとっての宿命なのです。

言葉を行動にして知らしめることができるのはひとだけです。それを何故しないのでしょうか。


不条理の編 (その3)

神さまはいない~不条理の編

第二章 道理

あの時にこうしておけば良かったと思うことは誰でも経験をします。これは結果として失敗したときに感じる後悔です。そして完璧なひとはいません。失敗をするからひとの成長があるのです。

「後悔先に立たず」、「失敗は成功のもと」などは昔からよく使われる言葉です。後悔しないための失敗であり、成功するための失敗です。

絶望とは小さな問題(悩み)がいくつも組み合わされて絶望となります。もとの小さな問題をそのままにしているから気づいたときには大きくなっているのです。だからこそ大きな問題ほど小さく分けてひとつひとつを解決しなければなりません。これは小さな成功の積み重ねが大きな成功となることとまったく同じです。

この小さな問題とは間違った考えかたによるものがほとんどです。小さな問題であるがゆえになかなか気づかないものです。この間違えた考えかたとはひとを困らせるような考えかたのことです。われわれは常にひとと接した生きかたをします。

たとえささいなことでも相手に不快感を与えるたり困らせることはあなたの評価を下げることであり、それは行動の結果となって現れて小さな問題が付きまといます。ひとに対して思いやりのない態度や行動は必ず自分に返ってきます。それは仕事でもプライベートでも同じであり、これらはひとが生きることの道理というものです。

この道理に気づかないひとたちはこれを不条理だとしてなぜうまくゆかないのだろうと嘆くのです。

この不条理の意味は大分変ってきています。この書の「まえがき」では不条理の本来の意味を伝えていますが、いま不条理と言われる言葉の使い方は上記のようにただの自分の思い通りにならないことの我の強さを現したものを不条理と表現しているのです。

不条理とはあなたが原因を理解して受け入れることで初めて不条理であるのです。あなたにとって不都合なこと、受け入れないことは不条理ではなくあなたがただ我を通したいだけのただのわがままなだけということです


不条理の編 (その2)

神さまはいない~不条理の編

第一章 なぜ

ひとが生きるのに何故という言葉は常です。それは自分の思い通りにならないとする感情が主な原因です。この何故について悩むひともいれば悩まないひともいます。その違いがわかるでしょうか。

悩まないひとは何故そうなったかをひたすらに悩むのではなく考えるのです。そして自分が納得した答えを見つけたら次にそうならないようにと学ぶのです。そして悩むひとはなぜ思い通りにならなかったのか、その理由をひとのせいにするのです。だからまた同じことが起きるのです。そして原因としている他人に対して何故をぶつけるのです。

この何故を他人のせいにしている以上はずっと悩みは続きます。そして自らはすべてを他人のせいにしているので同じことを繰り返しているとことに気付いていないのです。たとえ相手がかわってもそれは同じです。

その思いはその度に相手を注意すればたまにその相手から反論をされる場合があります。それはそれで今度は感情のままにぶつかり合って違う悩みが増えるのです。我の強さが積み重ねによりとても多くの悩みを抱えるようになるのです。

一方で悩まないひとはたとえ相手のせいだとしてもその相手がそうならないようにするにはどうしたらよいかと相手のために考えたりもするのです。

今回のテーマは「悩み」ではなく「何故」としているので話を戻しますがこの「何故」についてたとえ自責の考えをするかたであってもすべてに納得がゆくわけではありません。それはひとには感情というものがあるからです。

この世はすべてが理解できることばかりではないのです。そしてこの「何故」も千差万別にあるのです。あなたの「何故」は他人にとっては理解ができることなのかもしれません。

そしてこの「何故」もほとんどは自らが作り出しているのです。
この「何故」は生きることに必ず付きまといます。「まえがき」にあるような大きな岩を山頂に運び、そして転がり落ちる様を何度も繰り返す行為と同じなのです。
不条理とはひとの感情によって生まれるものとして理解をしてください。

不条理の編 (その1)

神さまはいない~不条理の編

まえがき

ひとが生きるにあたっては不条理の連続です。ただ本来、不条理の意味とは不合理であること、常識的に反していることとされています。
この世界で理不尽なことや納得できないことを不条理であるとして、この不条理という言葉を聞くと真っ先に思い浮かぶのが「シーシュポスの神話」というアルベール・カミュが描いた作品です。

要約をすれば神の怒りをかったシーシュポスは大きな岩を山頂まで運ぶという罰を受け、それは懸命に岩を山頂まで運んでもその途端、岩は勝手に麓まで転がり落ちそれを永遠に繰り返すことです。

シーシュポスは岩を運びながら何故こんなにも辛く大変な思いをしながら繰り返しているのだろうとひたすらに悩み続ける世界感を説いているものです。意味を持たない世界で意味を探すことは何か。たとえばひとは必ず死ぬのになぜ生き続けなければならないのかなどひとの運命について問いているものです。ただ最終的にはこの不条理のすべてを受け入れれば幸せになれるとも言っています。

これらの問いについての答えはひとそれぞれのの環境によってだいぶ変わるものでしょう。ただその環境はひとに与えられたものではなく自らが創りだしたものです。そしてこの不条理もまたひとが創りだしたものと理解をしなければなりません。
わたしなりの応えは「不条理を探し求めて、不条理とともに生きることに意味がある」としています。

この世界は不条理に囚われていることばかりです。この各章では不条理について少しずつひも解いてゆければとの思いです。

これまでのわたしの書について記載していることはわたしなりの正解であってみなさまにとっての間違いであることは常に意識をしていてください。

わたしの書き物を踏み台にしてみなさまの気づきにつながればそれでよいのです。読みながら常にみなさま自身の想いと対峙してみてください。みなさまが感じることやその想いがみなさまにとっての正解です。

このような気持ちでこれまでの書を含めて読んでいただけるととてもうれしく思います。

それではこれより本編をご覧ください

目 次

まえがき
第一章 なぜ
第二章 道理
第三章 欲
第四章 ありのままに
第五章 理由
第六章 いまからでも
第七章 すべてが同じです
第八章 不条理の意味
あとがき

以上