不条理の編 (その6)

神さまはいない~不条理の編

第五章 理由

ひとが成長するために辿る道のりはそれぞれにあります。この不条理がなんであるかを知ることもその辿り着く道のひとつです。

ものごとが上手くゆかないときに、「これだけ努力をしたのに何で」という不条理の壁にぶつかり「自分には才能がない」と何事にも理由付けをしてそのことを諦めてしまうことがよくあります。でも才能とは技術云々ではなくあなたの意識のことを言うのです。

ひとは何をするにも得意、不得意があります。でも上手くゆかなかったときにその不得意なことを理由に諦めることをはただ逃げているだけにすぎません。たしかに不得意が事実であることに変わりありませんが本当に諦めることはその結果ではなく自分に才能がないと意識ををしてしまうこと、認めてしまうことがいけないのです。

不得意なことは誰にでもあります。そのことを気にしていたらきりがありません。不得意なことがあるからこそそれを乗り越えてひとは成長するのです。それに得意なことでも結果が伴わなければ自信を失くして不得意と意識をしてしまうものです。理由などどうとでもなるものです。

このようにして不条理であることは自分が意識するだけのこと、つまりこの場合は諦める理由を探してそのせいにしているだけのことであって、相手にとっては到底その理由は理解できません。自身に嘘をついているとした不条理は当然に相手にとっても不条理なのです。そして最初は不条理であると思っていたこともいつの間にか当たり前のように感じるようになってしまうのです。不条理が常識として感じてしまうようになるのです。

不条理を不条理として理解をして受け入れることは大切なことですが不条理を常識として理解をすることは間違いです。それではなんでもすぐに諦めてしまうことにつながり、自身の考えを正当化するだけの都合の良い理由探しにつながるものです。

このようにして不条理とはひとの感情による行いによって創り出されているものなのです。そもそもは不条理など存在しないことであったのにひとの強欲による感情が自然と比較をして不条理が生まれているのです。

ひとは強欲であるほどに多くの不条理を感じてしまうものなのです。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください