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- 神さまはいない~不条理の編
第一章 なぜ
ひとが生きるのに何故という言葉は常です。それは自分の思い通りにならないとする感情が主な原因です。この何故について悩むひともいれば悩まないひともいます。その違いがわかるでしょうか。
悩まないひとは何故そうなったかをひたすらに悩むのではなく考えるのです。そして自分が納得した答えを見つけたら次にそうならないようにと学ぶのです。そして悩むひとはなぜ思い通りにならなかったのか、その理由をひとのせいにするのです。だからまた同じことが起きるのです。そして原因としている他人に対して何故をぶつけるのです。
この何故を他人のせいにしている以上はずっと悩みは続きます。そして自らはすべてを他人のせいにしているので同じことを繰り返しているとことに気付いていないのです。たとえ相手がかわってもそれは同じです。
その思いはその度に相手を注意すればたまにその相手から反論をされる場合があります。それはそれで今度は感情のままにぶつかり合って違う悩みが増えるのです。我の強さが積み重ねによりとても多くの悩みを抱えるようになるのです。
一方で悩まないひとはたとえ相手のせいだとしてもその相手がそうならないようにするにはどうしたらよいかと相手のために考えたりもするのです。
今回のテーマは「悩み」ではなく「何故」としているので話を戻しますがこの「何故」についてたとえ自責の考えをするかたであってもすべてに納得がゆくわけではありません。それはひとには感情というものがあるからです。
この世はすべてが理解できることばかりではないのです。そしてこの「何故」も千差万別にあるのです。あなたの「何故」は他人にとっては理解ができることなのかもしれません。
そしてこの「何故」もほとんどは自らが作り出しているのです。
この「何故」は生きることに必ず付きまといます。「まえがき」にあるような大きな岩を山頂に運び、そして転がり落ちる様を何度も繰り返す行為と同じなのです。
不条理とはひとの感情によって生まれるものとして理解をしてください。
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