慟哭の編 (その6)

神さまはいない~慟哭の編

第五章  平等と不平等

ひとに許されているさまざまな感情はひととして成長するためにあります。感情として表現できる言葉の数々はさまざまにありますがどれひとつをとってもひととして成長させるものばかりです。ですが中にはそのことを理解せずにその感情に耐え切れずに自らの命を放棄するものもいます。

「ひとはみな平等であると同時に不平等も平等にあります」

わたしが使うこの言葉の意味とはあくまでもこの世に生を受けた段階でのスタートする時の言葉です。平等も不平等も成長するにあたりその感じ方である感情はひとそれぞれに違ってきます。スタートしてからその後のこころのあり様によって受け取り方や感じかたでひとによって不平等は平等ではなくなるのです。

そして不平等も平等にあるとの本当の意味とはこの不平等さえも不平等と感じない感覚を養うことにあります。お金がない不平等、親がいない不平等、何をやっても上手くいかないなどとする不平等の定義はなんでしょうか。

お金持ちの定義とはなんでしょうか。だれがどうやって決まるものなかはあなたが生まれ育った環境によってその定義もさまざまにあるのです。

でもこのようにして比較をすること自体がおかしな話なのです。ただあなたが成長するために必要な環境があるということだけです。それ以上も以下もありません。あなたは「なんのために生きているのですか」と聞かれて明確に答えられるひとはどれくらいいるのでしょうか。あなたがひととして成長するために必要なことを理解しているかいないかだけです。理解をしていなければあなたのいまの環境さえも不平等だと考えてしまうのです。

平等や不平等と感じる言葉があなたのこころを満たすのではありません。相手の笑顔でこころ満たされるのです。互いに助け合うことで生まれる笑顔でひとは幸せを感じてこころが満たされるのです。

相手が幸せになることで自らは満足をして幸せになるのです。

もちろんこれはわたしなりの正解であってあなたはあなたらしさの考えかたによる答えがあればそれでよいのです。

そのあなたらしさの行動で真っ直ぐに貫いて生きてゆくことが大切なのです。

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