慟哭の編 (その2)

神さまはいない~慟哭の編

第一章 悲しみ

ひとは嘆きの数だけ、絶望の深さを経験をして成長します。だがわれわれはその数も深さもまだまだその経験が足りていません。ひとは楽なほう、楽なほうへと進もうとするからです。たとえ悲しみを目の前にしても自分に言い訳をして逃げようとします。そして時間の経過で悲しみを忘れようとするのです。

悲しみは忘れようとするのではなく、ともに在り続けるものです。忘れなさいではありません。受け入れなさいとしています。いつも悲しみと共に在ってください。

慟哭とは大切なものが傷つけられたとき、または失われたときに生じる感情です。原因があっての結果、理由があっての必然は絶対です。これを理解して、受け入れていれば悲しみは一時で終わります。

それは悲しみよりももっと大切なことがあるからです。そのことに気付くことができれば一時で終わるようになるのです。何も気づかなければいつまでも悲しみに苛まれることでしょう。

悲しみを憎しみに変えてはいけません。悲しみはあなたのこころを成長させる大切な経験としてともに在ってください。

生きる意識に気づくひとは男性よりも女性のほうが多いです。その理由は精神的に男性よりも女性のほうが強いからです。もちろん命(子)を宿すことができるため当然なのです。

女々しいという言葉も男性を蔑んだ時に使われる言葉です。このようにして悩みからの回復も圧倒的に女性のほうが早いのです。その強さはある意味で動物の本能です。
成長するとは年を重ねることではありません。どれだけ嘆きの数や絶望の深さによる悲しみを踏み台にしてきたかで決まるのです。

いま生きているこの時は戦争の時代でもなく原爆を落とされた時の経験者でもありません。その先人たちの礎によって、平和な世界で生きているのです。だからこそその悲しみを忘れずに精神的な強さをもってこころを成長させてゆかなければならないのです。

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