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- 神さまはいない~意識編
第八章 小さな息吹
登拝をしていると植物の小さな芽が必死に生きようとしている姿を目にします。ただその小さな芽はそこを歩くひとによって踏みつぶされても植物は何も言えずそれでもまた成長しようと試みます。ただひとにはその踏みつぶされた感覚を理解できます。ただわれわれはそのことに気づかない、気づこうとしないのです。そんな小さな息吹の雑草を意識したところで価値に値しないという想いがあるからです。
ただその小さな芽はわれわれにいろいろと教えてくれているのです。踏みつけられても生きようとする強い意志があること、またそれを他のひとが助けてあげなければと言った意識を教えてくれていることです。この小さな芽が気づかせてくれた「助ける」ということを教えてくれていることはわれわれにとってとても大切なことなのです。
自然の教えとはひとにさまざまな気づきを与えてくれるものです。それはとてもわかりやすく順序立てた流れであり、それはいわゆる原因と結果です。もちろんひとの勝手な都合などは一切ありません。
小さな芽が生きようとするその時の気持ちをひとに教えてくれているものです。踏みつけてはいけないと言う事ではなく、この小さな息吹の想いに気付いてほしいと教えてくれているだけです。これはひとだけにしかわからないことであり感情があるから気づくことができるのです。
ただあるものはそのことに気づいていながら敢えて踏みにじるひともいます。わかっていながら踏みつけるのです。このようにしてひとの意識とはさまざまにあります。踏みつけることで生命に対して憎しみを放つものたちです。それは日常に起きる事件・事故がそれを物語っています。
ひとはみなが平等です。ただそれと同時に不平等も平等であるのです。別の書でこの世界こそが地獄であると記載をしています。現実に起きていること、それが事実です。この憎しみは至る所にありひとの感情と同化して隙あらばこころは取り込まれてしましまいます。
一通りの人生を生きてきたひとならばすでにおわかりでしょう。たとえそれがわからなくともなんとなくでもわかっているはずです。そのことに意識をするきっかけがないだけです。
ひとだけが気づき、ひとだけが行動ができて、ひとだけが多くの生命を助けることができるのです。ひとには可能性があります。だからひとは自然界の頂点に存在しているのです。だからこそすべての生命より信じられて期待されているのです。
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