[志]のままに(その6)

因果について~「志」のままに

第五章 価値とは

たとえわからないことがあっても思考を止めてはなりません。パズルのピース合わせが止まったら一旦そこは開けといてその先のピースを埋めてください。例えばわたしが書き物を続けられているのは常に自分に問いているからです。その繰り返しで考えが続くのです。書き綴ることで思考が浮かんでくるのです。

言葉で道理を問いただすことは知識に値しますが、行動で道理を問い質すとそれぞれのこころのあり様次第で次につながる道が開けます。

自然が「無」に近い存在としているのは摂理を保つ行動をしてただそれを繰り返しているからです。だからこそ自然はそれ自体が「意志(こころ)」であるとも例えられるのです。ここで言うことの「無」とは雑念がない意志としたほうが理解しやすいでしょう。

ひとの社会における行動の結果とは「試験に合格(結果)をするために勉強(行動)をする」、「仕事で成績がアップ(行動)したから昇進(結果)した」などによる定量での価値基準がほとんどです。

そしてひとの社会において定量の結果は他のひとに対しての存在感を示すものであり、他のひとに認めてもらいたいがための行動です。それはあなたがただ満足をしたいがための感情です。その結果は自己満足に過ぎません。定量での結果とは比較対象をした一律の判断です。これが現代におけるひとの価値感です。ただこのような比較対象をする概念がこころを惑わすようになるのです。

ところがこころの成長おける結果とは定性での価値基準であり結果は一律ではありません。ひとそれぞれに違うものです。定性の結果とはあなただけの答えです。千差万別でありひとそれぞれのこころのあり様次第ですべて違うのです。あなたの結果はあなただけのこころのあり様次第によるものです。

それはひとが判断をするものではなくあなただけの答えです。そのことを大切にしてください。このように定性ではさまざまなこころの成長があるのです。こころの成長における結果とは信念や「志」であり「あなたらしさ」であることはこれまで説明をしてきた通りです。

たとえすぐにこの社会を変えられなくてもおとながこどもに教えることはできます。そして子どもはおとなの行動を観て育ちます。「志」が見つからないものは必至に探せば導きによって必ずわかるようになります。そうしてわれわれが未来のひとに伝えて変えてゆくのです。

自然は限りなく「無」に近い存在です。そして「無」とは限りなく雑念のないこころを言うのです。それが摂理(自然の法則)ある行動(つながり)となるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください