こころの起源 (その11)

水鏡に映るお姿

あとがき

わたしが20代の頃には「こころ」がとても澱んでいました。ひとはみなが目に見えることばかりを大切にして一体なんなのだろうと・・・。そしてそんなひとたちを信じることはせずに自分勝手に生きていました。そんなある時、電車に乗っていると健常者のひとに連れられた白状を持った盲目の男性がわたしの横に座り、いきなり「お兄ちゃん良い服を着ているね」と言われました。わたしはその当時の「ひとを信じない」という思いからか即座にそのひとの耳元で「普通のひとは安物の服でも気がつかないんですよ」と自慢げに答えたらその盲目の男性は「そうか」と大声で笑っていたことを30年たったいま思い出しました。

その男性はどんな意味でわたしに言ったのでしょうか。「俺は盲目でもお前の服は見えているぞ」とわたしをからかったのでしょうか。また30年もたったいまになってなぜそのことを思い出したのでしょうか。もしかしてその盲目の男性はわたし自身であったのでしょうか、またはわたしを守る神さまであったのでしょうか・・・

いまであればわたしはその光景(空間)に入り込んでその時の自分に「お前が本当にこころの目が大切だと言うのなら、お前のそのうわっ面なこころ自体が間違いだから勝手な思い込みでひとに迷惑をかけるのは止めなさい」とたしなめていることでしょう。

この書ではこころの成長において「時間」は関係ありませんとしています。線である時間とは点である空間の積み重ねのことであり前述にある「盲目の方との会話」の出来事は空間としてこころの中に切り取られた状態にあるのです。過去を思い出したのではなくこころにある空間を引っ張り込んだだけで、それはまるで本を読むかのような感覚の1ページであるに過ぎないのです。

わたしはただの「志」を持った求道者です。この世(現世も常世も)についてわたしなりにひとつの答えを持っていますが、また違った答えもつ方は他にもたくさんおられます。そのこと自体はとても大切でありさらにもっとさまざまな答えをもった方が増えてほしいことに変わりありません。

決してわたしを守る神さまは超えられない壁だとわかっていてもいつかもっと近づいてみせるという思いで必死になって後を追い続けています。そしてきっとまた、そんなわたしをみて「そうか」と大きな声で笑っていることでしょう。その意味は「なんだ、お前はまだその程度なのか」というこころの声が聞こえてきます・・・・

「こころの起源」についてご覧いただきありがとうございます。

2021年1月吉日

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