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第九章 自然に還る
自らの因果を知ると、その原因を創った時と同じ抑えきれない衝動で胸が高まる想いが募ります。そのように感じる度に、いま生きている理由に気づくのです。そしてこころを成長させるために、今度こそはとわたしを守る神さまに期待をされ、また自らもそれに応えなければならいと感じるのです。
その衝動も原因があり結果としてその因果を消すために自らの「志」に気づくことができるものと感じています。「志」は信念であり、ひとが生きるための目的であり行動です。本編第五章でも伝えているように太古の時代においてひとは摂理である良い因果の世界で秩序が保たれていました。いわゆる互いの感謝の気持ちや助け合いなどに満ちた世界のことです。このようにしてひとは自然の一部として行動することが本来のあるべき姿なのです。
ただひとには感情があり、その感情はやがて欲に変わり悪しき因果を創ります。因果を理解するものであればその因果を消すためにこころを成長させようとし、やがて因果とはこころの成長のためにただ「ある」とした存在に気づくのです。そして因果がわからないものは何度も過ちを繰り返しては悩み続けることでしょう。
因果が生まれたことにより都合のよい言葉が生まれ、ひとは惑わされるのです。ひとが摂理のままに生きるのであれば本来、言葉は必要ありません。ただし因果の世界であるこの現世でひとは言葉によって「志」を掲げなければこころを成長させることができないのです。
自然に宿る神さま(こころ)は限りなく「無」に近い存在という概念は遥か以前より「ひとは死後に自然に還る」として、それは身体を土に還すという意味として知られていますが、本来は「こころを自然に還す(戻す)」という意味が込められているのです。すなわちこころを良い因果の秩序で保つ自然に戻すということを伝えているのです。
自然に宿る神さま(こころ)とは「自然のままに」という役割がある意志だけの存在です。それはもはや言葉すら必要としない「志」による意志だけの状態であるということです。自然に「意志」、すなわち「志」があることはすでにみなさまも感じているはずです。
たとえひとが強欲によって自然から離れてしまっても自然はわれわれを見守ってくれているのです。自然は「志」ある存在です。ときには厳しくもあり(荒魂)、ときにはやさしくもあり(和魂)と感じているからこそ、これまでひとは長きにわたり自然を崇めてきているのです。
そして「自然のままに」とは未来のために、ひと助けのためにとした「志」のことでもあります。その意味とはすでに記述をしている「その先の扉 第五章」からの引用をいま一度ご覧いただき是非理解をしてください。
「植物の花はただきれいに咲かせるために一生懸命なのです。それが役割なのです。だからこそ花を見たひとはそれをきれいだと感じて花はみなに好かれるのです。もちろんきれいに咲くこと以外にも昆虫に蜜を与えてはその代わり身体に花粉を付け運ばせて次の花たちへと生命をつなげているのです。」
これは生命を育みながらも互いにほかの生き物と助け合い自らは更に未来へと意志をつないでいるのです。このような摂理の中でわれわれは生きていることを理解してください。
これが言葉なくとも自然の一部として「志」を掲げた役割のひとつでもあるのです。
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