こころの起源 (その6)

水鏡に映るお姿

第五章 自然のこころとは

なぜ天災が起きるのか、それは天災を起こす自然に聞くことが一番でしょう。この言葉の意味はとても大切です。

それは何故、因果が起きるのかについては因果を理解することが一番であるのと同じです。でも当事者はそもそもが因果ということに気づいていないひとが多いのです。だから理解をすることができないままなのです。そして天災が何故起きるのかについて自然に問うということもまた同じで、われわれ自身が自然に気付かなければその理由を導いてはくれません。だから「起きる」ことが必然であるという解釈となるのです。

それでは少しずつ紐解いてみましょう。まずはわれわれが普段使う自然という言葉についてお伝えをします。

われわれが普段使う「自然に〜」と「は成り行き」の意味として使われることが多いですが、これは「そのままに」という理解ですが、実は「素のままに」であり「穢れないこころのままに」ということなのです。

これはその時のこころのあり様でそれぞれに感じかたが違うものです。自然が起こす天災も因果であり、原因があっての結果です。地球は生きているとの表現の仕方がありますがそれは自然のままに(穢れないこころのままに)起きる出来事でしかないのです。

ただ自然が起こす事象についてひとは都合の良いことだけに感謝をして、都合の悪いことは自然に対して「なぜ」として抗うのです。天災という言葉がその良い例です。ひとは都合の悪いことは天の災いとして意識するのです。そして自然には自然の因果があり、ひとの因果を自然が背負うものではありませんし、また逆もしかりです。

そして天災もわれわれひとのこころのあり様次第で受け取りかたによって違います。こころが未熟であれは天災を悲劇とするでしょうが、こころが成長しているひとにとっては「当然」と理解をするのです。

さらには冒頭にある天災はなぜ起きるのかという疑問自体がおなしな話なのです。自然(地球)は生きています。この生きているという原因によって結果として天災が起きているだけです。ただ事象が「ある」だけなのです。

われわれは根本的に誤解をしているのです。ひとのために自然があって、地球があるのではありません。地球があって、自然があってひとは生かされているのです。ひとが中心であると傲慢な思い違いをしているのです。

理解をしてほしいことはひとの因果が原因で天災が起きるものではありません。天災とはただ自然(地球)が生きているという結果によって起きるだけです。

天災とはそもそもひとが使う言葉であって自然にとってはごく当たり前のことです。これを災いとしているのはひとの勝手な都合です。「自然のままに」というこころのあり様ですべてを受け入れなければならないのです。

天災は自然(地球)もまた生きているという理由があり天災が起きるという必然なのです。これはひとが生きている(こころを成長させる)という原因があって出来事(因果)起きる結果と同じです。

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