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- 第二章 そこに「ある」こと
ひとは脳で考えたイメージを言葉に発した時点でそこに「ある」のです。この「ある」とはイメージのことです。もちろん事実ではありませんがそれは時間の問題です。
この「ある」とは「できる」とした意味です。ひとは脳で考えたイメージを必ず実現することができます。これは実現させるために要する時間が違うだけです。そしてこれまでもそのようにして科学を発達させてきました。
そしてあなたに起きる出来事はあなたに必要だからこそ起きるのであって、それはただ「ある」だけです。たとえ神さまも、因果も、こころも、信じなくともあなたにとって必要なことがあなたの目の前で起こるだけです。これは自然の中で生きる法則(摂理)なのです。
ただ「ある」という表現の仕方をしているのは起きる出来事をそんなに難しく考えないでくださいと言うことです。いつでも・どこでも・だれにでもあなたに必要だから「起きる」ことなのです。
ひとは自然の一部であり、原因があっての結果とはそもそもは「自然のまま」に「ある」ということです。そして良い因果とは摂理のことをいいます。摂理についての一例は先の「その先の扉 第五章」でお伝えした通りです。自然に生きるものは明確な役割をひたすらに果たしているだけなのです。ただひとだけはそのことに気づかないものが多いのです。
いにしえの時代よりひとは摂理から離れて独自の社会や秩序を築いて成長してきました。いまさら「こころの成長」などと言われてもその言葉を理解することはなかなか難しいものです。そんなことを意識せずともこれまで生きてこられているからです。
これはひとがすべての中心であるという傲慢な姿勢を創ってきたからにほかなりません。でもその結果がさまざまに問題を抱えてきているのです。だからこそいま一度、自然を知り、自然の一部であることを理解しなければならないのです。
「こころの成長」とは「すべての起きる事象はこころの成長のためにある」として起きた事象は因果の結果でありただそこに「ある」としています。その結果に対する原因とは「こころの成長」であるということです。たとえ因果応報を理解しているかたでも因果を自然と結び付けて意識したことがあるでしょうか。
それは自然の仕組みを理解すれば自ずと因果の本質も理解することができるということです。それら起きる出来事を点で感じればさまざまに不条理であると想うことばかりでしょう。でも自然というこれまでのつながりを線で考えた結果を知ることができれば因果の先にあるのが「志」であると自然と導かれるのです。
自然とは自らが一生懸命に生きるのと同時に相手をも活かし(助ける)、更には未来に想いをつなげる行動をしているということです。そして自然に生きるそれぞれに「~らしさ」をもって役割に尽くしているということです。これが良い因果のことです。このことがわかればその真逆である因果(悪い)がどのようなことがわかります。
自然は純粋で素直なだけです。天災など自然がひとに与える影響は図りし得ないこともありますが、それはわれわれだけでなく自然に生きるすべての生命に影響があるのです。ひとだけが特別なのではありません。自然に優劣などありませんし自然では生きるものすべてが一緒なのです。
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