その先の扉 (その7)

水面に映るご神木のあり様

第六章 それぞれの想い

前述の通りにいま起きていることに対するあなたの感じ方は点でしか見ていないことが多くあります。それゆえに点で捉えるとは衝動的に駆られることもあるでしょう。
争いに対する意識は、平和な時代に生まれた時の考え、そして戦火の中で育ったときの考え、それぞれにその時のこころのあり様次第でその想いはさまざまにあるものです。それではなぜこれほどまでに争いは無くならずに繰り返してきているのでしょうか。

争いを点で捉えればただの殺し合いでしかありません。争いを肯定するつもりはありませんがその当時のひとたちの気持ちを線で考えてみてはいかがでしょうか。

争いの根本は強欲に端を発しますがその産物として、ひとを助けて幸せにしようとした信念・志が生まれるのです。相手もまた同じ信念のもとで争い、勝者は殺めたものの想いを背負いながら自らの信念を貫き通そうとしただけなのです。殺めた数だけ責任は重くのしかかりその想いに報いるために争いを終わらせなければならなかったのです。ひとを束ねるものはその想いのほどに尊い志の役割(行動)であったのです。尊い「志」を掲げ高ければ高いほどに、広ければ広いほどにその「志」に対する因果は生まれません。

先人たちの「信念」、「志」の想いをどのようにつないでゆくべきでしょうか。それをひとりですべて背負う必要はありませんし、みなさまのこころが成長すればその時のこころのあり様次第でさまざまにそれぞれの手段(役割)で先人たちの想いをつないでゆくことができるのです。

現代においてもどんな事件、事故であれすべての事象について双方の当事者には原因があっての結果であることを受け入れなければなりませんが、その当事者以外の第三者のわれわれにもその事件・事故の因果について教えてくれているのです。テレビや新聞で事件・事故の情報を共有するのは第三者であるわれわれに対する未然防止による注意喚起の意味でもあります。瞬時に知る事件・事故などに対してみなさまにはさまざまに意見・感情があるでしょう。そこからわれわれは学んでゆかなければならないのです。

それでも決して答えはひとつではありません。その時のそれぞれのこころのあり様次第で受け取り方はさまざまにあるのです。だから「~らしさ」がそれぞれに生まれてゆくのです。

答えや教えをひとつにしようとしてはいけません。答えをひとつにしようとするから傲慢である我の強さによる因果が生まれるのです。それぞれのこころのあり様が違う以上、ひとつにする必要もないのです。それにわれわれのこころが成長すればするほどに自然とひとつになるものです。それが自然の「役割」なのです。

課題がむずかしければ難しいほどに、答えはわからなければわからないほどに、その先にあることは点で考えずに線で考えることであなたらしさによる新たな役割に導かれてゆきます。そしてその線が長ければ長いほどにあなたのこころの成長へとつながってゆくのです。

自らの答えと他の答えが違っても構いません。あなたの答えが正しいのか、間違いなのかではありません。他の答えが正しいのかどうかでもありません。なぜならその判断はあなたがするものではないからです。あなたはただ自らの信念・「志」を正しいと思って行動している。それでよいのです。そしておのずと結果は自然に導かれてゆくものです。

もう一度伝えます。あなたのこころのあり様と他のこころのあり様は違います。それをひとつにしようとすることはあなたの我の強さです。なぜ理解をして相手を認めてあげないのでしょうか。それは相手の考えを自分の思い通りにしたいとするだけの傲慢でしかありません。

あなたの信念・志とは「あなたらしさ」だからこそ、あなただけのものなのです。それは相手も同じです。あなたの考え方を限定せずに受け入れて無限に広げてみてください。そうすれば必ず次の扉がみつかります。それがこころの成長でもあります。


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