その先の扉 (その5)

水面に映るご神木のあり様
第四章 生きる理由

これまで争いごとはいつの世も繰り返し行われてきました。そしてそれぞれの争いには「因果」が付きまとうものです。

いつの時代に生まれようともその時のひとたち個々のこころのあり様なのです。そしてその時代に生きたことはあなたのこころが何かを学ぶべきために必要とした環境であったことに間違いありません。

その状況に生まれたことは紛れもなく原因があっての結果です。その必然に気づくのであれば「志」を見つけるでしょうし、何もわからぬものはまた同じ「因果」をくりかえすのです。

どのような時代であってもその時のあなたのこころのあり様次第で必要としていたからこそにその環境と対峙しているのです。あなたが生きていることには必ず理由があるのです。だからこそいま問うのです。「あなたは何のためにいま生きているのでしょうか」と。

過去に何の原因があって、いま結果としてあなたは生きているのでしょうか。必ずあなたがいま生きていることには理由があるのです。ただなんとなく生まれてきて欲のままにその時代を生きたなどは絶対にありません。それは身体のつながりある先人たちに失礼であり、あなたを守る神さまにも申し訳ないことです。

いつの時代にあっても争いに善悪を決めるものではありませんし、もちろん優劣の比較をするものでもありません。ただこころを成長させるために必然としてあるだけです。

いま起きている事象もすべて原因があっての結果として起きているのです。そのことを理解しなければなりません。不条理だと嘆いていることもおかしな話なのです。原因はすべてわれわれにあり、その理由もすべてわれわれにあるのです。

われわれは何百年単位で常に同じことを繰り返してきているのです。それはみなさまも理解をしているはずです。こころが成長しなければは近い将来に、また争いなのか疫病や天災なのかと同じことを繰り返すだけです。

ただいつの時代に生きても「こころ」は必然として自らに与えられた環境にあります。その環境で学ぶ必要があるからこそ生まれてきているのです。

以前にもお伝えしましたがあなたのこころがもっとも成長する環境で生まれてくるのです。

たとえそれがどんな環境であってもいまの自分にとってこの環境に生きて学ぶことが必要だからこその必然なのです。

そして争いがあるからこそ「ひとの役に立てる」というひともいるのです。争いがあるからこそ「そのひとらしさ」で、ひとを助けることができるひともいるのです。平和に必要なひと、戦乱の世に必要なひと、それぞれの「~らしさ」とはこころのあり様次第でさまざまな環境が与えられるのです。


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