はじまりの書 (その9)

やや左向きで中心より少し上にある両眼でこちらを見据えているお姿にお気づきください
第八章 神さまの因果

それではもう少しだけ「神さま」という言葉の意味を紐解いてみましょう。わたしが言う神さまとは「あなたを正しい方向に導くこころ」のことを伝えています。

それは以前にひとであった神さまたちのことであり過去に各地で祀られていた神さまたちなど2000年以上の時を経て様々にいらっしゃいます。日本ではそれを八百万の神さまとしていますが大切なことは祀られている先人たちが誰なのかではなく、そしてあなたを守る神さまがどなたかなのかを知ることではありません。

先人たちを敬うというその行為・気持ちが大切なのです。それにたとえ知ったところでどうだと言うのでしょうか。知った相手の良し悪しであなたの想いが変わるのでしょうか。大事なことはそのように考えるあなたのこころのあり様であり、あなたのこころの成長が大切なのです。

あなたのこころのあり様次第であなたを守る神さまもまた変わるのです。第七章でもお伝えしましたが「あなたの一歩先を歩く神さま」です。あなたのこころが成長すればそれに合わせて「一歩先を歩く神さま」も変わるのです。このように相手が問題なのではなくあなた自身のこころのあり様が問題であり大切であること忘れないでください。

いにしえより祀られていた神さまもまたひとであった方たちです。そしてより多くのひとを幸せに導くという志があったことに変わりはありません。以前より伝えていますがそれもその方たちの役割であったのです。

神社と同様に磐座など先人たちが祭祀された場所に赴き触れることでこれまでと違ったものの考え方、感じかた、見かたに気づくことが多くあります。

それゆえにいまわれわれを守る神さまにも一様にそれぞれに因果があるのです。現世で生きるわれわれ同様に同じように因果をもつ者としてわれわれを守りながら一緒にこころを成長させてゆこうと努力をしてくれているのです。

先人たちへの感謝の気持ちの念に変わりはありません。先人たちのつながりでいまわれわれはあるのです。ただひとの持つ因果が深く関わってきたことも事実です。

神さまとはひとを救うために明確な役割をもって行動している意志(正しい方向に導くこころ)のことを言います。

いま一度伝えますがすべてとは言いませんがいにしえのより祀られていた神さまたちは常に戦いという因果が付きまとうひとたちでした。ひとを幸せに導くという尊い信念・志はありましたが、ただそれを為すためのチカラは武力や財力による手段でひとを束ねてきたものがほとんどなのです。それでもそのチカラで救われたひとたちにとっては大切な神さまたちなのです。

それは先人たちがその時に自らの「役割」に気づいていたからに過ぎません。そのひとだからできたのです。そしてそのひとにしかできなかったことであり、尊い志をもって役割に尽くそうとした結果なのです。

そうしてこれは現在も受け継がれているのです。他国と均衡を保ちひと(国)を束ねているチカラは今も武力であり、財力であり、法であり、過去となんら変わりはありません。2000年の時が過ぎてもこうしたその「役割」=チカラもってひとを導いてきているのです。近年で言えば徳川家康さまがそのよい例です。天下泰平の世を創るために戦をしては平和をもたらし300年の月日が流れました。こうしていまでは東照大権現さまとして崇められているのです。

過去を否定しているのではありません。そして何度も言うようにいま祀られている神さまを否定しているわけでもありません。ただ過去を学んでくださいとしているのです。そして受け入れてくださいとしているのです。われわれひとの歴史はいまと何ら変わりのない因果の歴史なのです。

例えば各地の神社にある伝承をつなぎ合わせた別の史書では素戔嗚の神さまを中心とした饒速日の神さまの流れを汲んだ神さまたちのことが伝わってきます。その中で素戔嗚の神さまは戦乱の世を避けるために日本列島を先進技術でもって統一することを決意したとあり、そして饒速日の神さまは日本列島の平和的統一を第一に考えていたとあります。できるだけ戦を控え、いずれも尊い志をもってひとを幸せにしようとしたのです。

ただ冒頭でも似たことを記述していますが歴史に真実を求めるにこしたことはありませんが、それがすべてでもありません。こうした考え方を知ることでそれぞれがこころの成長につながればそれでよいのです。すべてはこころを成長させることがわれわれの目的です。

また紀元前後(弥生時代中期)において武力や財力・技術力とは別のチカラでひとを束ねきたひとたちもいました。それは祭祀を司るものたちのことです。どれほどのチカラであったのかは図り知れませんが、戦をせずともひとを救おうとして自然に宿る神さまや故人を敬い磐座で崇め祭祀をしてきたのです。

そしてこの祭祀をする気持ちの名残が磐座から現在では社として神社において先人たちを敬うという行為に変わり、それを神道として、そのあり様を引き継いできています。祭祀の根本は先人を敬い、自然の神さまたちのチカラを崇めることにあります。

このようにしてその先にあるのはいつの世も自然のチカラを崇めることであり、それは先人たちもまた常世の何たるかを理解していたのです。

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