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- 第四章 こころのはじまり
この身体はこころが宿る依り代です。この身体ははるか以前よりつながってきている大切なものです。
こころとは本来は神さまのことです。そしてこの現世ではこころを成長させるために因果を消してゆかなければなりません。
余談ですがよほどの我が強く、因果に縛れているものはさらなる邪悪な意思によってこころ奪われ、この身体を操られてしまうのです。
こころが身体から離れてこころだけの状態となったときにこれまでのように身体を使って言葉を発することができなくなります。同じように見るということについて視覚も身体があってこその脳の認識です。これも身体がないのでできません。このように身体があってできていたことすべてができなくなりその感覚だけが経験値として残るのです。そのことを知るとはじめてこころが常世にあることに気づきます。
身体のないこころだけの状態で話をしたり、見たりするというのはあくまでも現世からの経験値によるイメージでしかありません。自分で勝手に想像をしているだけで相手には伝わりません。だから常世のこころは現世のひとに言葉で話かけることができないのです。※第三者を使って利用する場合もありますが話がそれるので省きます
常世ではこころのあり様次第で見る世界や感じる世界がそれぞれ違います。これは現世でも同じことが言えます。こころのあり様次第で環境が違い、出会うひとも違うのです。この現世でもひとそれぞれの価値観はみな違うのと同じです。ある意味で価値観とはこころのあり様のことでもあります。
常世での役割のひとつに感情を消してゆくということがあります。いわゆるものを見るから、会話をするから感情が生まれるのです。そして相手があるからこその感情が欲に変わるのです。この意識はたとえこの身体がなくとも現世での経験値ゆえにさも実体としてさもあるかのようにイメージをします。ただし、いずれは因果に気づき、虚無であることを知るようになります。
このようにしてやがては、ひとの身体で経験した五感をもすべて必要でないことを知るのです。こうしてその先にある「人助け」、そして「無」へと誘われてゆくのです。
こころの成長に終わりはありません。現世から常世へと、そして常世から現世へと転生するときに記憶が消されて「無」となることも、そして「有」となって身体を得ることもそれぞれがはじまりです。
冒頭にあるように、この身体はこころとつながる依り代です。「理(ことわり)」知り、「自在」に志を身に付けて「はじまり」へと向かいこころを成長させてゆくのです。
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