番外編(その3)

「自在の書」は

いかがでしたでしょうか

明日の7月20日より

また通常のブログに戻します

ただこれよりは

神さまなどを一切

理解をされない方へのために

日々の思いを記載します

したがって

神さまや因果・こころ

などの話や言葉を使用していません

わたしも少し目線を変えて

みなさまに案内が

できればとの思いです

次の「はじまりの書」を

掲載するまでお待ちください

明日よりはただ、ただ

ひとがこの社会の中で

生きる啓発として

どうぞみなさまの

お役に立てれば幸いです

「自在の書」(その33)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
あとがき

ひとは悩みが尽きません。これはひとの欲が尽きないのと同じです。そして何で悩んでいるのかさえわからないひともいます。このようなかたに悩みの云々を説いたところで結局は、それがわからないから悩んでいるという答えしか返ってこないでしょう。

これは悩んでいるというよりも自分の意思が弱いだけです。異質な世界で育った子どもであれば別ですが誰しもこころの奥底にかならず自分の答えは持っているのです。それを承知した上で接してあげるとよいでしょう。悩みに対してひとつひとつを丁寧に解決するのか、根本から変えるのか、まったく別のことに意識を向けさせるのかといろいろとあります。いずれかでもよいので奥底にあるあなたの答えは「正しいですよ」として引っ張り上げてください。

みなさまの考えはいかがでしょうか。それぞれに方法・手段があるものと思います。
悩みもまた因果であり欲であることに気づけばさほど難しくありませんが、ただそんな簡単なものではありません。

そして悩みとはひとと比較をした相手があってのことです。悩みになやんでいるのです。もしかしたらそもそも悩んでいないのかもしれません。脳が悩んでいるふりをしているだけなのかもしれません。それくらいに相手のことを考えたら広く深く尽きないのです。そして相談相手のかたも答えを見失い悩んでゆくのです・・・

「こころを惑わすのは他人ではなく自らのこころ」です。悩みとは大体「意思」の弱いひとに多いものです。その悩みで自分が傷つきたくない、ただそのことだけです。さらに悩みの本質とは欲が原因なのです。あのひとと比べて、わたしは悪くない、あのひとよりも、もっともっと・・・、その悩みが因果であり強欲であるから悩むのです。すべてはこころのあり様次第です。バランス良い意志を保ってください。何度も伝えますがほどほどの欲であれば生きる活力となるので構いませんが人を傷つけるような強欲がダメなのです。

この書でわたしが伝えたいことは「意志の強さ」です。強欲も意思の強さと同じでは?と思うかたもいるかもしれませんが根本的に「欲」と「志」は違います。ひとによってですが意思の「思」であれば「欲」と同じでしょうが「欲」と「志(こころざし)」はまるで違います。「欲」は己のための感情ですが「志」はひとのための行動です。

わたし自身もただ理解をしている、納得しているだけではだめですよね。こころざしも道半ばです。ただ幸いなことにいまは言葉がたくさん湧き出るようになり、こうして書き綴ることができています。こころの葛藤も年を重ねる度に以前よりも大分少なくなりました。また次に何かをしてゆかなければなりませんがもう少しだけ書き物をさせてください。

この「自在の書」は「はじまりの書」を書いている途中で現世(因果)についてまだまだ伝えたいことがあるとして変更させていただきました。まえがきからのつながりとしてこの「自在の書」について、意志のある行動についてみなさまのお役に立てればとの思いです。ご覧いただきありがとうございます。

2020年7月吉日


「自在の書」(その32)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
第五章 意志と因果

純粋な「こころざし」あるものに因果は起こらないものです。こころざしが高ければ高いほどに因果の原因となる強欲の感情が消えてゆくからです。

ひとが創り出した常世にあるイメージの世界とする地獄とは、じつはこの現世にこそ、その地獄の世界があるのです。それは辛い悩みが尽きないこと、虐待、DV、各種ハラスメント、いじめなどがそれです。ほかにも数多あります。因果とは「する側」の強欲であり、「される側」のひとにとっては地獄とも言えるのです。これも原因があっての結果です。

そしてひとを騙したり、傷つけたりと意の思うがままにして得ようとする強欲は「する側」からやがては「される側」となるのです。このようにしてこの因果を何千年も繰り返してきているのです。

神さまはこのことをわれわれが自ら気づくまで待っているのです。ひとが因果に気付くまで輪廻させているのです。

この現世はこころを修練させて、こころを成長させる場所なのです。こころのあり様次第でこの現世は地獄にもなるのです。いまこの現世をどう感じるかで、あなたのこころのあり様がわかります。大抵はつらいと思っているひとがほとんどでしょう。だからこそ強い意志が必要であり「こころざし」が必要なのです。それが生きる目的となるからです。

その答えは大自然にある育むチカラであると伝えています。例え遠くに行かなくても道端やアスファルトに咲く花でもよいですし、近くにある公園でもよいので自然に触れてみてください。触れてみてくださいとは、自然を考えてみてくださいということです。

なぜ自然に触れてみてくださいとしているのでしょうか。それは因果のように「する側」、「される側」もなくただ純粋に自然のままに強く生きているからです。動物や植物など自然の生き物には悩みがありません。悩みがあるのはひとだけです。そして自然に生きる者たちにもしっかりと役割(目的)があるのです。その役割(目的)をひたすらにやり遂げようとしているだけなのです。これがこころのあり様のバランスについてこれくらいでちょうどよいとすることなのです。

ひとは感情があるからこころの思いが左右されて因果を生み出しているのです。
もちろんこの感情があるから幸せを感じることができるのも事実です。

でも思い出してください。「理の書」でも似たようなことを記載していますが、幸せになりたいという欲は因果があるからそのように思うのです。地獄があるから天国をイメージするのです。もちろん純粋な幸せはありますが、それはもし因果がなければその幸せとは特別なことではなく、自然のごとく、ただ当たり前のことなのです。本来「幸せ」は欲の対象にならないのです。だからいま生きていることに感謝(幸せであること)をしてくださいとなるのです。当たり前のことに感謝をするのです。こうして天国をイメージしたり、幸せになりたいと欲することは因果があるからこその言葉でありイメージの世界であることを知るのです。

この現世で目的があって生きているひとはほんのひと握りです。ほとんどのひとが目的もなく、ただ欲の思うがままに生きているだけです。

いまあなたが生きていることには必ず理由があります。そのことに気が付かなければなりません。その「理由」について一番よくわかるのが「因果」なのです。因果に気づき、自身の因果を消してゆくことが、あなたがいま生きている理由(目的)です。
いまだに因果さえもよくわからないのであれば、いまあなたの悩みこそが因果であると知ってください。

この現世の世界はわれわれひとり、ひとりの持つイメージの世界が重なり合って創られているのです。過去があっての現在です。原因があっての結果です。そして現在があっての未来です。われわれは、いま未来のためにどう生きるのかを問われているのです。目的もなく黙って欲のままにこのまま生きるのか、それとも目的をもって生きるのか。

あなたはどちらを選びますか。


「自在の書」(その31)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
第四章 因果の本質

第一章こころの葛藤にある「#21わたしは悪くないのに・・・」を思い出してください。こちらでも因果の本質を記載していますが今回はさらに読みやすくしています。因果とはこの言葉をひとつとっても、「我の強いひとであるがゆえの因果」(する側)と「意思の弱いひとの因果」(される側)がそれぞれにあるのです。そして・・・

いじめるひとがいれば、
いじめられるひとがいる

ひとを傷つけるひとがいれば、
傷つけられるひとがいる

ひとを助けるひとがいれば、
助けられるひとがいる

これは当たり前のことですが悪い因果は自らが「する側」の場合、例えばひとをいじめているという、その行為をいじめと理解をしていないのです。または誰かに「いじめ」と指摘をされても○○のためと理由付けをして正当化しているのです。そして「される側」もまた自分が悪いのだから仕方がないと考えるか、またはわたしは絶対に悪くないそれなのに何故として振り払う勇気もなく、その悩みを解決できずにただただ感情に翻弄されて恨み・つらみが溜まり続けるのです。

さまざまな因果の事象に対して、あなたはその都度でどちら側でしょうか。する側でしょうか、される側でしょうか。もちろん、どちらでもない真ん中のかたですねよ。ただすべての因果の事象に対してすべて真ん中と言えるでしょうか。もちろんわたし自身もまだまだです。また、日常で気を付けていることは答えに悩んだらどちらが楽しくなるだろうか、または神さまだったらどちらを選ぶだろうと考えます。後者は神さま任せにしている訳ではありません。少しでも因果のない状態で判断をしたいからそのように考えるのです。

左があるから右があるのです。表があるから裏があるのです。でも真ん中であれば、中心であれば、それくらいがちょうどよいとすれば、因果など起こらなくなるのです。

因果とはあなたの我の強さです。「する側」と「される側」が必ずいるように互いに相反する表と裏があって因果が成り立つのです。そして因果とは

いじめるひとは過去に
いじめられてきた人です

そして

いじめられるひとは過去に
いじめてきた人です

ひとを傷つけるひとは、
過去にひとに傷つけられた人です

そして

ひとに傷つけられるひとは、
過去にひとを傷つけてきた人です

ひとを助けるひとは、
過去にひとに助けられてきた人です

そして

ひとに助けられるひとは、
過去にひとを助けてきた人です

「する側」と「される側」、どちらとも過去にいずれかを経験をしてきているのです。だから因果となるのです。「過去と現在」があり、それは原因があって結果があるのです。そして未来を決めるのはいまのあなたのこころのあり様次第です。いまをどうするかで未来が決まるのです。

これはすべての感情から生まれる因果に相通じるものです。この「表と裏」が「右と左」が「原因と結果」であることを示しているのです。このようにして原因があるから結果が生じるという「理(ことわり)」を知るのです。さまざまな因果の状態を理解できるようになるのです。

我の強さによる感情から生まれる因果とは「する側」と「される側」があり

過去には「する側」で、
現在は「される側」、

または

過去に「される側」で
現在は「する側」として、

さまざまな事象に対して輪廻をするのです。

ではなぜこのような輪廻をするのか、それは「こころの痛み」を知るためです。こころは純粋であるがゆえに何色にも染まるのです。「する側」と「される側」を経験することで相手のこころの痛みがわかるようになるのです。こうしてひとにやさしくなれるのです。ひとに親切にすることができるのです。ひと助けをすることができるようになるのです。

「わたしはこれが因果の
  本質であると考えています」

「こころの痛みを知る」ことは我の強さが無くなってきていることを言うのです。こころの痛みを感じることはみなさんも前世やこの現世で必ず何かしらの「する側」と「される側」の経験で感じたことがあるはずです。わたしの場合は何故か笑顔ない老人の孤独(特にひとりで食事をしている光景)に対する虚しさと幼いこどもへの虐待に対する怒り、それは憎しみに近いほどの感情を10代後半から「こころの痛み」として感じるようになりました。

ただこの怒り(憎しみ)について相手を傷つければそれでよいのでしょうか、それで気がすむのでしょうか、でも所詮その気持ちはその行動のあとに1,2時間続くだけです。そして強い憎しみを持てば持つほどにそれが自分に返ってくるのです。成すべきことは「する側」「される側」ではなくこころに受け入れなくてはならないのです。

こうしてこころのあり様はこのどちらかに在るのではなく「これくらいがちょうどよい」とする「真ん中」の感情を保つことで因果に囚われなくなるのです。このバランスを保つことが大切なのです。そのバランスを保つ良い例が「大自然」にある育む流れなのです。

これが現世の本来あるべき姿であり、こころが成長したあるべき姿なのです。
一日の中で1分間だけでもよいので自然の姿を想い返してください。こころのあり様について自然のごとくバランスを保つようにしてください。

「自在の書」(その30)

第三章 因果の苦悩

自らに何か感情的にとても嫌なことが起きた時にそれを因果として解釈をして理解することが大切です。必ず原因があっての結果なのです。決して感情に身を任せないでください。

例えば仕事などでミスをして注意をされたり、指摘されることは、それ自体の「ミス」、「注意」、「指摘」は因果ではありません。この場合でのあなたの因果とはミスをして相手に言われたことで生まれる自らの感情のことを指しているのです。それは「ミス」したことを他人のせいにする、「注意」されたことに腹を立てる、「指摘」されたことに対してわたしは悪くないとして聞き入れないなどと生じる感情のことを言うのです。

嫌な思いとは自分を正当化して相手を否定しようとするから嫌な思いが増していくのです。自分のミスは素直に反省して、次にミスをしないようにすれば良いだけです。そして自身の我を抑え込めばよいのです。このようにして因果を消すことができるのです。そして神さまはあなたを試しているのです。このひとはどのような反応をするのかと・・・

何度も言いますが因果とは相手が問題なのではありません。嫌なことがあった時に生じるあなたの感情が、あなたの我の強さが問題なのです。そのことを冷静に理解してください。

嫌な思いをするのであれば自分を変えて次にまたミスを起こさないようにすればよいだけです。それを自分は悪くないとしてひとのせいにするからいつまでも同じことを繰り返すのです。

因果を消してゆくことを「我慢」や「苦痛」と感じてはいけません。しかしこれを繰り返してゆくと、ある時になぜここまで自分を抑えなければならないのか、自分らしさがなくなってゆくのではないかと思うようになるのです。どれだけ我慢をすればよいのかと虚しさを感じるのです。そして本当にこれで良いのかと不安になるのです。
でもこのように不安な思いとなるのは、やはりこころのどこかで自分は悪くないと思っているからなのです。だからこの因果を消そうとすることを「我慢」や「苦痛」と感じてしまうのです。素直になることが肝要です。

このように感じてしまうことを断ち切るのが意志の強さなのですが、これを一歩間違えてしまうと我の強さとなってしまうのです。間違えてはいけないのが我の強さは感情ですが意志の強さは行動です。この不安に思う感情を行動で消し去るのです。上記の例えで言うと、それは「この次にミスをしないようにすること」です。

嫌な思いをする自らの感情に対して志をもって消し去るのです。志ある行動をすれば笑顔になれます。楽しくなれるはずです。もしあなたに志がまだ見つからないのであれば、ひとからありがとうと言われることをしてください。またはあなたの長所とする行動でひとに親切にしてください。

言葉で伝えるほど簡単ではないことは百も承知です。わたし自身もこの繰り返しです。それでもわれわれはやらなければならないのです。つらくなったら何度も読み返してください。常にこころとの葛藤です。もちろん長所があれば短所があります。でも神さまはあなたに完璧を求めているのではありません。長所を伸ばしてもらえればそれでよいのです。長所はあなた自身が楽しくなることのはずです。この長所は神さまがあなたに与えてくれたものです。あなたらしさを示してくれればそれでよいのです。そうしてあなたの役割が見つかってゆくのです。

「自在の書」(その29)

第二章 身体の衰え

~常世への準備~

理(ことわり)の書で「脳とこころ」を取り扱っていますが、身体の思考を司る脳は常にこころと葛藤しています。それはこころを常に成長させようとしているからです。脳は子供から大人へと成長することに合わせて思考が形成されて性格が創られてゆきます。そしてこころもまた環境によって様々なことを経験して学びながら成長をします。以前にこころはひとに宿るとお伝えをしましたが、われわれの身体には寿命があります。

それでは年老いて、もし痴呆や障がい者となり身体が衰えて脳の思考が低下したらその身体に宿るこころはどうなるのでしょうか。

このことについて、こころは成長をしたままの状態を保っているということを知っておいてください。身体が老いて行動が制限されようとも、脳の思考が低下しようとも、身体に宿るこころは俯瞰して冷静にあなたを見据えているのです。

ひとを見た目で判断をしてはいけません。どんなひとにでも必ずこころは身体に宿っています。年老いた状態で病にかかっていても、障がいを患っても、こころは何ら変わりません。逆にいろいろと教えてくれることが多くあります。

もしあなたに関わるかたで介護などの助けが必要であるならば、あなたがどのような対応をするのか神さまが試していることもあるでしょう。例え重度の障がいのある方で会話ができなくとも、その方のこころと会話をするようにしてください。直接に相手のこころとお話をするのです。一方通行とはなりますが相手のこころは必ずあなたの声を聴いています。できるだけ声に発して話してください。

そしてわれわれは身体の寿命によりその役目を終えようとする時にひとが生きる意味を知ることができるのです。脳の思考は衰えてもこころが考えているのです。

もうすぐでわたしは死ぬのだろうか
・・・終わりではなくはじまりです

死んだらどうなるのだろうか
・・・常世があるだけです

何のために生きてきたのだろうか
・・・こころを成長させるためです

ひとのために何か役にたったのだろうか
・・・自らの因果に気づいたでしょうか

こころの依り代として宿るこの身体はそのお役目を終えて寿命が尽きるのです。
そしてまたこころだけの状態に戻り常世に向かう準備をするのです。

こころは身体の寿命が近くなると身体から離れてこころのあり様の姿を見ることができます。でも話をすることはできないのです。言葉とはひとの身体を使ってしか発することができないからです。身体から離れたらそれもできなくなります。だからほかのこころの姿を見ても無言だから怖く感じるのかもしれませんね。

こころには年齢の認識はありませんが身体には寿命があります。こうしてこの現世はこころが成長するための試練の場であり常世が中心の世界であることを知るのです。

「この身体はこころを成長させるための器です」
「この身体はこころとつながるための依り代です」

すべてはこころを成長させることが目的であり、それは常世でも同じです。
この身体を大切にしてください。この身体はこれまでのつながりがあり、いまを生きながらえています。つないでくれたご先祖さまに感謝をしてください。

「自在の書」(その28)

第一章  こころの葛藤 

#27
こんなにがんばっているのに・・・

⇒がんばっているのはみなおなじです。自分中心、自分だけ、自分の思い通りにならない、ただそれだけです。我の強いひとの典型です。このようなひとが、みなさんそう言います。

「自在の書」(その27)

第一章  こころの葛藤 

#26
なんでもひとのせいに考えてしまいます

⇒他人のせいにしていますが、ただ単に自分に弱い人です。これは脳で考えることに従って、脳のせいにしているだけです。そのほうが楽ですよね。大切なのはこころの意志の強さです。