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- 第五章 意志と因果
純粋な「こころざし」あるものに因果は起こらないものです。こころざしが高ければ高いほどに因果の原因となる強欲の感情が消えてゆくからです。
ひとが創り出した常世にあるイメージの世界とする地獄とは、じつはこの現世にこそ、その地獄の世界があるのです。それは辛い悩みが尽きないこと、虐待、DV、各種ハラスメント、いじめなどがそれです。ほかにも数多あります。因果とは「する側」の強欲であり、「される側」のひとにとっては地獄とも言えるのです。これも原因があっての結果です。
そしてひとを騙したり、傷つけたりと意の思うがままにして得ようとする強欲は「する側」からやがては「される側」となるのです。このようにしてこの因果を何千年も繰り返してきているのです。
神さまはこのことをわれわれが自ら気づくまで待っているのです。ひとが因果に気付くまで輪廻させているのです。
この現世はこころを修練させて、こころを成長させる場所なのです。こころのあり様次第でこの現世は地獄にもなるのです。いまこの現世をどう感じるかで、あなたのこころのあり様がわかります。大抵はつらいと思っているひとがほとんどでしょう。だからこそ強い意志が必要であり「こころざし」が必要なのです。それが生きる目的となるからです。
その答えは大自然にある育むチカラであると伝えています。例え遠くに行かなくても道端やアスファルトに咲く花でもよいですし、近くにある公園でもよいので自然に触れてみてください。触れてみてくださいとは、自然を考えてみてくださいということです。
なぜ自然に触れてみてくださいとしているのでしょうか。それは因果のように「する側」、「される側」もなくただ純粋に自然のままに強く生きているからです。動物や植物など自然の生き物には悩みがありません。悩みがあるのはひとだけです。そして自然に生きる者たちにもしっかりと役割(目的)があるのです。その役割(目的)をひたすらにやり遂げようとしているだけなのです。これがこころのあり様のバランスについてこれくらいでちょうどよいとすることなのです。
ひとは感情があるからこころの思いが左右されて因果を生み出しているのです。
もちろんこの感情があるから幸せを感じることができるのも事実です。
でも思い出してください。「理の書」でも似たようなことを記載していますが、幸せになりたいという欲は因果があるからそのように思うのです。地獄があるから天国をイメージするのです。もちろん純粋な幸せはありますが、それはもし因果がなければその幸せとは特別なことではなく、自然のごとく、ただ当たり前のことなのです。本来「幸せ」は欲の対象にならないのです。だからいま生きていることに感謝(幸せであること)をしてくださいとなるのです。当たり前のことに感謝をするのです。こうして天国をイメージしたり、幸せになりたいと欲することは因果があるからこその言葉でありイメージの世界であることを知るのです。
この現世で目的があって生きているひとはほんのひと握りです。ほとんどのひとが目的もなく、ただ欲の思うがままに生きているだけです。
いまあなたが生きていることには必ず理由があります。そのことに気が付かなければなりません。その「理由」について一番よくわかるのが「因果」なのです。因果に気づき、自身の因果を消してゆくことが、あなたがいま生きている理由(目的)です。
いまだに因果さえもよくわからないのであれば、いまあなたの悩みこそが因果であると知ってください。
この現世の世界はわれわれひとり、ひとりの持つイメージの世界が重なり合って創られているのです。過去があっての現在です。原因があっての結果です。そして現在があっての未来です。われわれは、いま未来のためにどう生きるのかを問われているのです。目的もなく黙って欲のままにこのまま生きるのか、それとも目的をもって生きるのか。
あなたはどちらを選びますか。
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