「自在の書」(その31)

中央に右手に錫杖を持ち念ずる修験者、その奥に口と目を見開く不動明王様、修験者の頭上に龍神さま
第四章 因果の本質

第一章こころの葛藤にある「#21わたしは悪くないのに・・・」を思い出してください。こちらでも因果の本質を記載していますが今回はさらに読みやすくしています。因果とはこの言葉をひとつとっても、「我の強いひとであるがゆえの因果」(する側)と「意思の弱いひとの因果」(される側)がそれぞれにあるのです。そして・・・

いじめるひとがいれば、
いじめられるひとがいる

ひとを傷つけるひとがいれば、
傷つけられるひとがいる

ひとを助けるひとがいれば、
助けられるひとがいる

これは当たり前のことですが悪い因果は自らが「する側」の場合、例えばひとをいじめているという、その行為をいじめと理解をしていないのです。または誰かに「いじめ」と指摘をされても○○のためと理由付けをして正当化しているのです。そして「される側」もまた自分が悪いのだから仕方がないと考えるか、またはわたしは絶対に悪くないそれなのに何故として振り払う勇気もなく、その悩みを解決できずにただただ感情に翻弄されて恨み・つらみが溜まり続けるのです。

さまざまな因果の事象に対して、あなたはその都度でどちら側でしょうか。する側でしょうか、される側でしょうか。もちろん、どちらでもない真ん中のかたですねよ。ただすべての因果の事象に対してすべて真ん中と言えるでしょうか。もちろんわたし自身もまだまだです。また、日常で気を付けていることは答えに悩んだらどちらが楽しくなるだろうか、または神さまだったらどちらを選ぶだろうと考えます。後者は神さま任せにしている訳ではありません。少しでも因果のない状態で判断をしたいからそのように考えるのです。

左があるから右があるのです。表があるから裏があるのです。でも真ん中であれば、中心であれば、それくらいがちょうどよいとすれば、因果など起こらなくなるのです。

因果とはあなたの我の強さです。「する側」と「される側」が必ずいるように互いに相反する表と裏があって因果が成り立つのです。そして因果とは

いじめるひとは過去に
いじめられてきた人です

そして

いじめられるひとは過去に
いじめてきた人です

ひとを傷つけるひとは、
過去にひとに傷つけられた人です

そして

ひとに傷つけられるひとは、
過去にひとを傷つけてきた人です

ひとを助けるひとは、
過去にひとに助けられてきた人です

そして

ひとに助けられるひとは、
過去にひとを助けてきた人です

「する側」と「される側」、どちらとも過去にいずれかを経験をしてきているのです。だから因果となるのです。「過去と現在」があり、それは原因があって結果があるのです。そして未来を決めるのはいまのあなたのこころのあり様次第です。いまをどうするかで未来が決まるのです。

これはすべての感情から生まれる因果に相通じるものです。この「表と裏」が「右と左」が「原因と結果」であることを示しているのです。このようにして原因があるから結果が生じるという「理(ことわり)」を知るのです。さまざまな因果の状態を理解できるようになるのです。

我の強さによる感情から生まれる因果とは「する側」と「される側」があり

過去には「する側」で、
現在は「される側」、

または

過去に「される側」で
現在は「する側」として、

さまざまな事象に対して輪廻をするのです。

ではなぜこのような輪廻をするのか、それは「こころの痛み」を知るためです。こころは純粋であるがゆえに何色にも染まるのです。「する側」と「される側」を経験することで相手のこころの痛みがわかるようになるのです。こうしてひとにやさしくなれるのです。ひとに親切にすることができるのです。ひと助けをすることができるようになるのです。

「わたしはこれが因果の
  本質であると考えています」

「こころの痛みを知る」ことは我の強さが無くなってきていることを言うのです。こころの痛みを感じることはみなさんも前世やこの現世で必ず何かしらの「する側」と「される側」の経験で感じたことがあるはずです。わたしの場合は何故か笑顔ない老人の孤独(特にひとりで食事をしている光景)に対する虚しさと幼いこどもへの虐待に対する怒り、それは憎しみに近いほどの感情を10代後半から「こころの痛み」として感じるようになりました。

ただこの怒り(憎しみ)について相手を傷つければそれでよいのでしょうか、それで気がすむのでしょうか、でも所詮その気持ちはその行動のあとに1,2時間続くだけです。そして強い憎しみを持てば持つほどにそれが自分に返ってくるのです。成すべきことは「する側」「される側」ではなくこころに受け入れなくてはならないのです。

こうしてこころのあり様はこのどちらかに在るのではなく「これくらいがちょうどよい」とする「真ん中」の感情を保つことで因果に囚われなくなるのです。このバランスを保つことが大切なのです。そのバランスを保つ良い例が「大自然」にある育む流れなのです。

これが現世の本来あるべき姿であり、こころが成長したあるべき姿なのです。
一日の中で1分間だけでもよいので自然の姿を想い返してください。こころのあり様について自然のごとくバランスを保つようにしてください。

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