理(ことわり)の書(その5)

第四章 因果のことわり

「こころは素直で謙虚な姿勢であること」

ひとは誰しも罪を背負い、償いをします。これは自らの因果に気づき乗り越えてゆくことです。罪とは因果であり、償うとはこころの成長を意味します。法治国家では刑事罰・民事罰がありますがそれとは別に脳が創り出す感情における因果の罪のことを言います。

この因果の罪とは過去世から続く感情の罪を指し、その償いをするためにいまわれわれのこころはひとに宿り償う努力をしています。因果とは他のひとの身体(肉体的および精神的)を傷つけるから罪となるのです。

罪を犯したのは本人です。そして罪の原因を生み出したのも自分の我の強さ、欲深さによるものです。決して相手が原因ではなく、すべては自らが生みだした原因によるものです。

因果の原因は自らが創り出しているためその因果に己自身は気づかないのです。因果を繰り返すうちに自らが気づいてゆくものですが、ほとんどの因果は他人の行為によって自らの因果であることに気づかされるのです。それでも通常はそのことに気づかずに他人の行為にばかり気を取られて相手のせいだと考えてしまうのです。相手の行為があなたの因果を教えてくれていることに気づかないのです。

具体的には、他のひとがあなたに物理的な危害を加えればその相手が悪いと思うのは当然のことです。でもそうなった原因はあなたにあることを理解しなければならないのです。その原因が何であるのかを突き止めてください。この原因を知らなければ先へは進めません。その行為を何故するのかがわからなければならないのです。大体は我の強さからくる自分の思い通りにならないことのイライラした感情です。

争いごとの相手もまたあなたが原因だと思っています。だから結果として互いに争うのですが・・・。実はお互いが同じ因果であることに気づかなければならないのです。

その争いごとで先に手を出した、出さない云々ではありません。なぜこうなったのか、あなたの原因が何であるのかを考えなければならないのです。このことに気づき改善をしないと一生同じことが繰り返されます。それは相手も同じです。このように同じ因果を抱える者同士がグループのように集まっているのです。鏡の法則、引き寄せの法則と良く言われています。

何度も伝えます。何事も自分は悪くない、他人のせいだとしている以上は物理的な行為は違えども、たとえ為される相手が変われども原因があなたの因果であることを理解して自分を変えない限り永遠に続きます。そのグループから抜け出せないということです。そして痛ましい事件・事故も例えあなたの因果でなくともいつでも起こりうることをわれわれに教えてくれているのです。

すべては自分の感情から生まれた行為が因果となって返ってくるのです。この感情から創られた世界は因果の世界であり、この感情とはいわゆる実体のないもの。だからこそ現世の世界と言われるのです。

われわれはそれぞれに我が強くなり、欲が大きくなることで因果の原因を作りだしているのに、それを常に相手が悪いと考えることで自らの因果に気づかないままに相手を憎み、互いに傷つけ合うのです。

前述の通り自らの因果はなかなか自分では気づかないものです。気づいていれば因果にはなりえません。その自分では気づかない因果だからこそ、他人が同じことをすることであなたに気づかせようとしているのです。それでもまだ自分の因果であることに気づかずにひとのせいにしているのです。だからこそ素直で謙虚な姿勢であることが大切なのです。

自らの因果に気づかないままに続けると自分が正しいと正当化する気持ちがいっそう強くなります。争いごともそうです。自分の家族のために、自分が守るひとたちのために、その正当性を掲げてひとを殺めるのです。またはだれかが傷けられたからやり返したのだと考えるようになりこの輪廻から抜け出せなくなるのです。

正義という言葉、大義という言葉は己の罪である因果を正当化している言葉でしかありません。我の強さや欲深さのあるものたちが自分の愚かさを都合よく言い換えて自己満足をしているのです。

自が都合よく並べられた言葉はすべて偽善であり本来は必要としない言葉です。ひとが勝手に創り出した言葉は実体のない想像の世界であり、現世なのです。正義のためとしたこの争いごとを正当化する言葉自体が本来は必要としないものです。

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